番外編:諸伏IF
※安室×主人公要素なし


ある日突然、ナマエが「箸の使い方を覚えたい」と言い出した。
テレビか何かに影響されたのだろうと、諸伏は朝食の時間を使って練習に付き合うことにした。
椅子に座るナマエの隣に諸伏が立ち、まずは手本を見せながら彼女にそれを真似させる。

「下の箸を動かさずに、上の箸だけこうやって動かすんだ」
「こう?」
「力み過ぎだな。もうちょっと力抜いて」
「……落としそう」

その言葉通り、ナマエの手から箸がカランと滑り落ちてしまった。
これまでフォークやスプーンだけで食事を取ってきたのだ。いきなりは難しいだろう。

「オレも人に教えたことないからなぁ。ちょっと調べてみよう」

一度箸を置いた諸伏が、スマートフォンで箸の持ち方の教え方を検索する。すると初めて箸を使う子供向けのハウツーサイトがズラリと表示された。

「あ、なるほど。まずは一本ずつか」
「一本?」
「そう。まずは箸を一本だけ、ペンを持つみたいに……」

改めて手本を見せる諸伏に、ナマエもまたうんうんと頷きながら真剣に真似をする。
さすがに要領がいいのか、少し練習をすればだいぶ様になった。

「あ、見て!できた!」

玉子焼きを箸で掴んだナマエが、嬉しそうに顔をほころばせる。
可愛いなぁと諸伏が口元を緩めたところで、せっかく掴んだ玉子焼きがぽとりと皿に落ちてナマエが眉尻を下げた。

「あー」
「いや、かなり上手くなったよ」

落ちた玉子焼きを再び掴もうと奮闘している姿を眺めながら、諸伏がふと問いかける。

「でもいきなりどうしたんだ?箸が使えるようになりたいだなんて」
「せっかくヒロが美味しいご飯作ってくれるのに、同じように食べられないのが寂しいなって思って」

考える間もなく返ってきた答えに、諸伏はグッと唸って心臓を押さえた。

「と、尊い…もはや抱き締めたい……」

未だかつて、こんなに可愛い暗殺者がいただろうか。いや他に暗殺者知らないけど。
ひとしきり悶えた諸伏は、ナマエが箸を握り締めたまま固まっていることに気が付いた。

「?……あっ」

もしかして今、自分はとんでもない失言をしたのでは。

「ご、ごめんナマエ、つい本音が……いや完全に不適切な発言だったしセクハラと言われても致し方ないんだけど、決して下心があるわけでは」

無言のナマエに慌てて弁解しながら、おそるおそるその顔を覗き込んだ。

「え?」

怒らせたかという諸伏の心配をよそに、ナマエが浮かべていた表情は予想だにしていないものだった。

白い肌が真っ赤に染まり、大きく開かれた目は戸惑うように視線をさまよわせている。力なく垂れ下がった眉尻が、彼女が珍しく動揺していることを教えていた。

「ナマエ……?」

長い睫毛をふるりと震わせながら、黒い瞳が諸伏を見上げる。
意を決したようにきゅっと唇を引き結んだナマエが、椅子に座ったまま諸伏に向き直った。

「あ、あの………する?」
「えっ?」

迎えるように両手を広げたナマエに諸伏は目を瞬かせた。

(え……えーっ!?するって何を?ぎゅーを!?え!?)

動きを止めた諸伏を見てどう思ったのか、広げられていたナマエの両手が不安げに胸元に戻される。

「……別に、嫌なら」
「嫌じゃない!嫌じゃない!」

咄嗟に叫んでから、自分は何を言っているのだろうと我に返るがもう遅い。
見上げてくるナマエと視線を絡ませて、諸伏は思わず「うっ」と呻いた。この流れはなんだ?ハグってこんな改まった雰囲気でするものだっただろうか。

「じゃ、じゃあ……失礼して」

努めて下心を意識しないようにしながら、椅子に座るナマエを抱き締めた。
桁外れの強さを誇る体はいざ抱き締めてみると細く柔らかく、同じシャンプーを使っているはずなのに何やらいい匂いがする。
おずおずと腰に回されたナマエの手が諸伏の服をきゅっと掴むのがわかり、意識しないように決めたはずの心がポッキリ折れそうな予感がした。

「あ、ありがとう…癒された」

これ以上は危険だと、そっと体を離す。
癒されたのは確かだが、それ以上に精神的なものが猛スピードでゴリゴリすり減った気もした。

そのまま一歩下がろうとして、諸伏の足が止まる。目線を下にやると、ナマエの手が彼の服の裾を掴んでいた。

「え、あの、ナマエさん…?」
「…なんでもない」

パッと手を離すナマエだったが、その顔はまだ赤い。それを見下ろしてしまった諸伏も頬が熱くなるのを感じ、頭を抱えてその場にへなへなとしゃがみ込んだ。

(可愛すぎる……)

「…ヒロ?」
「いや、あのー、あんまり可愛いとこ見せられると我慢できなくなるというか」
「我慢?」
「なんというか、オレも男なので、その……」

床に向かってゴニョゴニョと呟く。
どうせ伝わらないだろうが、とりあえず一旦落ち着かせてくれ。

すると項垂れる諸伏の視界に、椅子から立ち上がったらしいナマエの足先が映る。

「…我慢しなくていいのに」

え、と諸伏が顔を上げるより早く、その頭部が柔らかいものに包まれた。

「……え、えっ!?ナマエ!?」

どうやら腰を曲げたナマエが諸伏の頭を抱き締めているらしい。
しゃがんでいた諸伏はナマエがいるために無理矢理立ち上がることもできず、左右の足先だけで体勢を保つのに必死だ。

「ちょっ、離し……」
「だめ。今度は私がヒロに癒される番」

耳元でぽつりと零れた呟きに、諸伏は思わず言葉を失くしてよろめいた。
そのままバランスを崩して尻もちをついてしまった諸伏だが、ナマエもまた膝をついて彼から離れない。
しがみつくように抱き締めてくるナマエに、諸伏は行き場のない両手をさまよわせた。

(あーっもう、これ腰に手回していいのかな!?)

断言しよう。こんな可愛い暗殺者、他にはいない。
そして自分はいつまで我慢できるのだろうか。と、ギリギリのところで必死に自制する諸伏だった。ちなみに料理は冷めた。


prevnext

back