番外編
※最終話からエピローグまでの一幕
※本編読了後推奨


「降谷さん、本当にお疲れ様でした!」

駐車場に停めた愛車に乗り込む直前、風見がそう言って大仰に頭を下げる。
黒の組織壊滅から一ヶ月と少し経ち、山積みだった後処理もようやく終わりが見えたところだ。
残る雑務は部下たちに任せることにして、降谷は珍しく太陽が真上にあるうちに帰宅することになった。

「ありがとう。君もよく頑張ってくれた」

そう労えば、風見はハッと息を呑んで感極まったように唇を噛み締める。
今にも泣き出しそうな部下の姿に降谷は思わず苦笑した。

「何かあったら遠慮せず連絡してくれ」
「いえ、今日くらいは我々にお任せください。本当は半日と言わず、しばらくお休みになっていただきたいところですが……」
「生憎、休み慣れていなくてな。まぁ…お言葉に甘えて今日はゆっくりさせてもらうよ」

見送りはいいと続ければ、風見はもう一度深々と頭を下げて踵を返した。

愛車に乗り込んだ降谷は、スーツの上着からスマートフォンを取り出して迷うことなく一つの連絡先を呼び出した。
一週間前にお互いの気持ちを伝え合ってから、会うことはおろか連絡すらまともにできていない。
彼女のことだから、きっと健気に待ってくれていることだろう。

「…もしもし、ナマエさん?」

電話をかければ、ナマエは2コールで出た。
どうやら買い物に出かけているらしく、場所を聞けば降谷が住むマンションからそう離れてはいない。

ふむ、と顎に手を当てた降谷は、一瞬思案してから再び口を開いた。

「ナマエさん、今から僕とデートしないか」

その提案に、通話口の向こうからわずかに上擦った声が聞き返してくる。
普段感情の振れ幅が狭い彼女も、自分が関わればこうもわかりやすい。それに人知れず優越感を覚えながら、降谷は緩やかに口角を上げた。




***




マンションに車を置いた降谷は、スーツから私服に着替えて再び外へ出た。
少しして視界に入ったのは待ち合わせ場所に指定した書店で、その前にはすでにナマエの姿がある。

待ち合わせのために"絶"を解いているらしい彼女は、いつも通りのシンプルな出で立ちながらも遠目にもわかるほどに人目を引いていた。
歩道を行き交う人々が、書店の前を通りかかるたびにチラリと彼女に視線を向ける。
そのうち大学生と思しき男達が近くで足を止めたのを見て、降谷は少し歩調を早めた。

「ねえ、お姉さ―――」
「ナマエさん」

すでに気配で気付いていたのだろう、ナマエは特に驚く様子もなく顔を上げた。

「悪い、待たせた」
「ううん、待ってないよ」

穏やかに微笑んだナマエに笑い返してから、彼女に声をかけようとしていた男達に視線を向ける。

「彼女に何か?」
「えっ?あ、いえっ!」

安室透を演じもしないその視線に、彼らは一歩後ずさった。
それだけ見届けて「行こう」とナマエを促すと、少し歩いたところで彼女がふふっと笑みを零す。

「さっきの、別に平気だったのに」
「…ああ。あれはただ、僕が耐えられなかっただけだから」
「え?」

瞳をぱちりと瞬かせたナマエに降谷は続けた。

「君を見せびらかしたい気持ちもあるけど、見世物のようにジロジロ見られるのはやっぱり我慢ならないみたいだ。"絶"、しててくれてもいいぞ」

そう言って笑いかけると、一拍置いてナマエの頬がぶわりと紅潮する。
それを隠すように視線を落とした彼女を見て、降谷は笑みを深めてその手を取った。

「え、降谷さん…?」
「せっかくの歩きだし、こうしたい」

指を絡めていわゆる恋人繋ぎに変えてみせれば、それを見たナマエが小さく息を呑む。

「……いや、でも」
「この辺りなら安室透の知り合いに会う心配も少ないし、会ったとしても君が気にする必要はないさ」
「う、」

言葉を飲み込んだ彼女の手からじんわりと熱が伝わってくるようだ。
それに小さく笑ってから、「それにしても」と再び口を開く。

「ヒロや松田が名前呼びで、僕が"降谷さん"というのは納得いかないな」
「今までずっと安室さんだったし……じゃあ、零の方がいい?」
「うん。それがいいな、ナマエ」

窺うようにこちらを見上げていたナマエの瞳がゆらりと揺れる。
相変わらず自分の前では殊更雄弁に語る彼女の瞳に、降谷は心のどこかが満たされていくのを感じていた。

「そういえば、買い物の荷物は?」
「待ち合わせ前に家に置いてきたの」
「えっ?……なるほど」

デートの誘いをしてから大して時間は経っていないが、彼女は決して近いとは言えない距離をあっさり往復していたらしい。
さすがゾルディック、と降谷は苦笑を浮かべながらも感心してみせた。




***




昼下がりの街中を手を繋いで歩いていると、ふとナマエの視線がある看板に注がれていることに気付く。

「猫カフェか」
「あ、うん」
「気になるか?」

看板から視線を外したナマエが、降谷を見上げて「ちょっとだけ」と遠慮がちに言う。
公安の人間はとりわけ飲食については高いハードルがあるのだと、諸伏にでも聞いたのだろうか。

「どこかでお茶でもしようとは思っていたし、入ろうか」
「……いいの?」

注視していなければわからない程度に目を丸くしたナマエに、降谷は「いいさ」と短く答えた。
注文するものに気を付ければ、初見の店に入るのもそう難しいことではない。

ナマエを促して猫カフェに入店すれば、開放感のある広々とした店内に何匹もの猫が放されていた。
飲み物は紙コップ形式の自動販売機で各々購入するドリンクバーのみで、これならば特に問題はなさそうだ。

「猫が好きなのか?」
「動物は好きだよ。触れ合う機会はあんまりないけど」

二人掛けのテーブルに座り、飲み物を口に運びながら店内を眺める。

「猫カフェはテレビで見て、ちょっと気になってたの」

言いながら、ナマエは足元にすり寄ってきた黒猫をそっと撫でる。
ずいぶんと人懐っこい猫のようで、もっと撫でてと言わんばかりにナマエの手のひらや足にすりすりと頭部を擦りつけていた。

「ふふ、可愛い」

そう言って口元を緩めたナマエを眺めながら、降谷はテーブルに備えつけられていた名簿のようなものをぺらりとめくった。
そしてそこに黒猫の写真を見つけ、「おっ」と思わず声が出る。

「その子の名前、"クロロ"っていうらしい」

奇遇だな、と笑う降谷にナマエはピクリと小さく反応し、黒猫を撫でていた手をそっと引っ込めた。

「どうしたんだ?」
「……クロロ?」
「そうらしいな。色から名付けたのか、スタッフにクロロのファンがいるのかはわからないが」

ナマエの足元では、撫でるのを中断された黒猫のクロロが切なげな鳴き声を上げている。

「猫のクロロは随分と君が好きらしい」
「………」

一方のナマエは、それを見ながらわかりやすく眉根を寄せていた。

「ナマエ?」
「あ…うん、そうだね」

珍しく歯切れの悪い彼女に、降谷はふと一つの可能性に辿り着く。

「苦手なのか?クロロのこと」

そのクロロが猫と人間のどちらを指すのか、どうやら彼女には正確に伝わったらしい。
降谷の目線の先で、ナマエが眉尻をわずかに下げて苦笑した。

「うん。会うと毎回しつこく勧誘されるから、見かけたら逃げるようになっちゃって」
「へえ、そうなのか」
「ヨークシンで父や祖父とやり合った時も「娘さんを俺にください」とか言ったらしいし……本当、ふざけた人だよね」

紙製のカップを片手にナマエが小さくため息をつく。
興味深く話を聞いていた降谷だったが、その言葉にピタリと動きを止めた。

(それは勧誘というより求婚では?)

唯一の救いはナマエ本人がそれに気付いていないだけでなく、クロロに苦手意識を持ってくれていることだろうか。

「……あのぬいぐるみ、どうしよう」

独り言のようにぽつりと呟かれた言葉に、降谷は彼女とゲームセンターで会った時にクロロのぬいぐるみを獲得していたことを思い出した。

「あれ、まだ持ってたのか」
「うん。いらないんだけどね」

どうやら不要だという気持ちはあるらしいが、ぬいぐるみや人形の処分を躊躇う気持ちはわりと誰もが持ち得るものだろう。
彼女のマンションを訪れた時に見かけなかったということは、置いているのは寝室だろうか。―――なるほど、それは面白くない。

(近々不慮の事故を装って処分するか)

物騒なことを考えながら、降谷は諦めたようにうろつき始めた黒猫をそっと撫でた。




***




なんだかんだでしっかり長居してしまった二人が猫カフェを出る頃には、辺りは夕焼けに染まり始めていた。

黒猫のクロロはそれ以降もナマエにまとわりつき、彼女もまた「あれと一緒にしたら申し訳ない」とそれを受け入れた。
そして店内には猫用のおやつやおもちゃも備えられていて、集まってきた数匹の猫と戯れていれば時間が経つのはあっという間だった。
ちなみに撮影OKの店だったので、降谷のスマートフォンには猫に囲まれるナマエがバッチリ収められている。

猫カフェを出た後、再び手を繋いで歩き始めた二人だったが、やがて一軒のダイニングバーの前で降谷が足を止めた。
店前に出された置き看板を見れば、つい今しがた開店時間を迎えたところらしい。

「ここ、何度か来たことがあるけど結構お勧めなんだ」

カクテルの種類が豊富で料理も美味い。そう続ければ、ナマエは「そうなんだ」と相槌を打った。

「少し早いけど、せっかく歩きだし食事がてら飲まないか?」
「いいね」

微笑む彼女の手を引いて店に入ると、バーと銘打ちながら照明も暗すぎず、比較的明るい雰囲気の店内をナマエが興味深そうに見回した。
奥のテーブル席に向かい合って座り、上着を脱いで酒と軽めの料理を注文する。

「ギムレット、好きなのか?」

意味深に笑う降谷に、ナマエは目を瞬かせてから苦笑を返した。

「お酒、詳しくなくて。カクテルもギムレットしか飲んだことないの」
「そうなのか」

酔ったことがないと聞いていたので、てっきり酒にも詳しいものと思っていたが。

「何飲んでも酔わないし、味も気にしたことがなくて」
「なるほど、そういうことか。じゃあ今日は色々試してみるのもアリだな」

そう言うとナマエは嬉しそうに目を細める。

「ふふ、そうしようかな。ジンと飲むとギムレットばっかりで、他を試そうなんて考えたこともなかったから」
「……そういえば、仲が良かったな」

むしろジンが彼女を気に入っていたというべきか。
聞けばジンからはギムレットのカクテル言葉まで教わったらしい。あのポエマーめ。

運ばれてきた酒で乾杯をして、グラスを口に運ぶナマエを眺める。
酒に強くてさっぱり系が好きなら、バラライカか、コスモポリタンか、アイスブレーカーか―――というかもうギムレット以外ならなんでもいい。

(…自分がこんなにも嫉妬深いとは知らなかったな)

どうも諸伏や松田以外にはしっかりとセンサーが反応してしまうらしい。
潜入任務から解かれて、以前より感情を表に出せるようになったというのもあるだろう。

「零?」

じっと見つめる降谷の視線に、ナマエが小さく首を傾げた。

「ああ、いや……」

そもそもジンだって気に入っていた女に手ずから拘束されたのだから、さぞかし無念な思いをしたはずだ。
その様子を想像して溜飲を下げつつ、降谷は曖昧に笑いかけた。

しばらくして、注文した料理が少しずつ運ばれてくる。
会話を楽しみながら料理に舌鼓を打ち、あらかた皿が片付いたところで降谷が小さくあくびを漏らした。

「もしかして、寝てない?」
「あー、まだ二徹目だから体力的には大丈夫だけど……酒も入って気が緩んだかな」
「明日も仕事なんでしょう?今日は早めに休んだら?」

案の定心配そうに眉尻を下げたナマエに、降谷はふっと微笑んだ。

「そうだなぁ……じゃあうちまで一緒に来てくれるか?」
「え?」
「安室名義の部屋を引き払って、今は元々借りてたマンションに住んでるんだけど……立地で選んだ部屋だから、独りだと少し広くて。寝るまで話し相手になってくれないか」

もちろん降谷は部屋の広さに寂しさを覚えるような男ではない。
少し考えてから「いいけど」と返したナマエに、降谷は「ありがとう」と微笑んだ。
部屋に二人きりになるということに、すぐそういう・・・・想像ができないのは相変わらずのようだ。

ナマエはきっと「話し相手」としての役目が済んだら自分の足で帰るつもりでいるのだろうが、残念ながら素直に帰すつもりはない。
経験のない彼女にいきなり無理を強いるつもりもないが、少しでも長く一緒にいるために小さな嘘くらいは許してもらおう。

そうしてスムーズな流れでナマエを部屋に連れ込んだ降谷は、上着を脱いで部屋の中をキョロキョロ見回すナマエに口元を緩めた。

「そんなに見られると恥ずかしいな」
「え、あ…つい……」

不躾だったと思ったのか、ナマエが気まずそうに目線を下げる。
降谷がその両頬に手を添えて顔を上げさせると、吐息が触れ合いそうなほどの距離にナマエの目尻が赤く染まった。

「気に入った?」
「え?」
「この部屋」

じっと見つめる降谷に、ナマエは耐えきれず視線を逸らす。

「……素敵な部屋だと、思うけど」

ぽそぽそと零れた呟きに、降谷は「そうか、安心した」と笑みを深めた。
どういう意味かと問いかけるような目と視線が絡んで、降谷は一週間前のあの日のようにコツンと額を触れ合わせる。
それにピクリと肩を震わせたナマエに構わず、囁くように話し始めた。

「よかったら、ここで一緒に住まないか」

返事の代わりに、息を呑む音が小さく聞こえる。

「……君と会える時間を一秒だって無駄にしたくないんだ」

元々勤務時間や非番なんてあってないようなもので、今日のように出かけられるのが次はいつになるかなんてわからない。
外で待ち合わせるのも新鮮でいいが、そんな暇があったら少しでも長く一緒にいたいというのが本音だった。

ナマエからは「う」やら「あ」やら言葉にならない声が漏れ出ているが、彼女も同じ気持ちのはずだと降谷には自信を持って断言できた。
ふいに額を離し、ふぁ、と再びあくびを漏らしてみせる。

「…ダメだ、眠い……」
「え?あ、」
「ああ、寝室はこっちだ」

えっ、と声を上げるナマエに「おいで」と声をかけてその手を引けば、顔を赤く染めながらも素直についてくる。

「あーもうダメだ」
「ちょ…っ」

今にも眠気に負けそうなアピールをしながらベッドに倒れ込んだ降谷に、ナマエは手を掴まれたままの前傾姿勢で硬直した。
その手をくいっと引っ張ってみると、驚きに目を丸くした後で大した抵抗もなくぽすんと倒れ込んでくる。

「あ、あのっ、零…!」
「…うん、一人よりぐっすり寝られそうな気がする」

ぎゅっと抱え込んでみても、言葉では慌てているものの抵抗らしい抵抗はない。

(僕のこと、めちゃくちゃ好きだよなぁ)

知ってはいたが、改めて実感して頬が緩む。
彼女に本気で抵抗されれば降谷が押さえ込めるはずもないのに、どうやら力ずくで逃げるつもりはないらしい。

ちらりと様子を窺えば、耳まで真っ赤にしたナマエが降谷の服をギュッと掴んで額を押し付けている。
それで真っ赤な顔を隠しているつもりだろうか。可愛すぎる、と思わず零れたため息にナマエの肩が跳ねた。

「ナマエ。君が嫌がることはしないから、このまま一緒にいてくれないか?」

その問いかけには、少しの沈黙の後で小さく縦に首が動いた。
髪の間から見える耳がかわいそうになるほど赤さを増していくのがわかる。

「一緒に住むのは?」

先程より少し長い沈黙が流れてから、また小さく縦に首が動く。
ありがとう、と腕の力を強めると、服を掴むナマエの手にもまた力が入った。―――なんというか、従順が過ぎる。

(うーん、僕に言われたらなんでもしそうで心配だ)

うっかり変なことを言わないようにしよう、と降谷は自分に言い聞かせるが、正直すでに手遅れな気がしないでもない。
そして自分限定で従順な彼女が厄介な暗躍体質の持ち主だということを、この時ばかりは降谷もすっかり忘れていた。


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