番外編
※そしかい前の一幕
※本編読了後推奨
日付が変わる少し前。
夜の帳が下りた米花町には冴えた空気が漂い、草木が時折風に揺れる音がシンとした静寂を引き立てていた。
コンコン、と窓をノックする音に、沖矢は読んでいた本を閉じてソファから腰を上げた。
特に確認せず窓を開けば、隙間からするりと何かが滑り込んでくる。
「こんばんは、ナマエさん」
振り向けば、そこにはいつ脱いだのか、ショートブーツを片手に携えたナマエが立っていた。
「こんばんは、沖矢さん」
その顔にはいつも通りの穏やかな微笑みが乗せられている。
初めてここに訪れた時は土足だろうとお構いなしだったのに、そこを気にする程度には味方認定してもらえているらしい、と沖矢の口元がわずかに緩む。
沖矢がソファにナマエを促すと、彼女は手にしていたブーツを逆向きにして壁際に置き、素直にソファに腰掛けた。
紅茶を淹れた沖矢が戻ってきたところで、カップを受け取ったナマエが口火を切って話し始める。
「彼の見立て通り、主要な幹部は全員組織御用達のホテルに宿泊中です。決行時間までには本拠地に移るでしょうね」
「"あの方"は?」
「郊外の別荘から動いていません」
「なるほど。ここまで全て予定通りですか」
湯気の立つカップからは茶葉の香りが漂い、一口飲めば渋みの少ない柔らかな風味が口内に広がった。
紅茶を淹れるのも上手いとは、つくづく器用な男だとナマエは感心した。
「こちらが彼からの指示書です」
パサッとテーブルに置かれたのはクリップで留められた紙束だ。
カップを置いてそれを手に取ると、大きめの文字で今夜から明日にかけての指示が印字されている。
難しい漢字にはナマエでも読めるようルビが振られていて、なんとも親切な小学生―――いや、高校生だ。
「今夜の…はもう全部済んでるから、あとは……」
それをぺらりとめくりながら、一文字ずつ追いかけてゆっくり頭に叩き込む。
最後のページを読み終わったところで、部屋から出ていた沖矢が隣にギシリと腰掛けた。
「どうだ。出来そうか」
先程までとは違う声に隣を見れば、変装を取った赤井がナマエの手元を覗き込んでいる。
「……いいんですか?変装」
「あとはもう寝るだけだからな」
「そういう意味じゃ…まあいいですけど」
ナマエは気にしないことにして、再び指示書に目を落とす。
「この通り上手くいくでしょうか」
「彼がそう読んだなら問題ないだろう」
「なるほど。信頼してるんですね」
「君のこともだ」
「ふふ、それなら明日の働きで応えないと」
FBIにCIA、加えてMI6の協力を得た公安が組織の摘発に踏み込むのは、いよいよ明日だ。
「いや、もう今日だな」
え、と部屋の時計を見れば、確かに日付が変わっている。
どうやら指示書を読み込むのに思ったより時間が掛かったらしい。
「今夜はここに泊まっていくか?どうせ帰っても一人だろう」
「あー…じゃあ、お言葉に甘えて」
ナマエは大して悩むことなく、赤井の提案を受け入れた。
諸伏がいない今、彼女は一人暮らしだ。外泊を咎める者も心配する者もいない。
赤井はナマエの返事に満足そうに口角を上げた後、自嘲するように小さくため息をついた。
「こんなことが彼に知れたら、俺の命もいよいよ危ういな」
「え?」
首を傾げるナマエに、赤井は「いや……」と曖昧に返す。
「…まあ、知られたところで間もなく帰国する身だ。問題はないが」
「よくわからないですけど……赤井さん、そんなに悪いことしてるんですか?」
FBIなのに、と彼女の視線が語っている。それを赤井は「ああ」と短く肯定した。
「ある特定の人物にとっては、という注釈がつくがな」
「へえ…?」
結局よくわからないままのナマエに、赤井がククッと可笑しそうに笑う。
「組織を抜けるまで君の名刺を使わずにいたことが悔やまれるよ」
名刺、と繰り返すように呟いて、ナマエは初対面で彼に渡したことを思い出した。
確かに赤井から連絡が来ることは一度もなかったが。
「初めて会った時、もっと君のことを知っておけばよかった」
「初めて…ああ、ヒロの?あの時は楽しくお喋りするような雰囲気でもなかったでしょう」
「まあ、そうなんだが」
「いきなりどうしたんですか?」
「完全に出遅れてしまったと、今更ながらに思っただけさ」
遠回しな物言いにナマエが目を瞬かせていると、赤井がスッと立ち上がる。
「またすぐに忙しくなる。今夜は早めに休んだ方がいいだろう」
「あ、はい」
案内された客室で赤井の言葉を反芻するが、ナマエがその真意に辿り着くことはなかった。
***
組織本拠地の一室にて、ピリピリとした雰囲気を纏ったジンにベルモットが呆れたようなため息をついた。
「……わざわざ部屋を分ける必要があったのかしら」
「バーボンの野郎が何か企んでいないとも限らねぇからな」
「幹部をここに集めるのは"あの方"の許可あってのことよ。こんな回りくどい真似、必要ないと思うけど」
室内には二人が吐き出す煙草の煙が漂っている。とりわけジンが吸う本数はいつもより多く、ペースも早い。
彼のバーボン嫌いは相変わらずのようだ、とベルモットは再認識した。
「まぁいいじゃねぇか。あの野郎が一人でここに現れれば、階下の奴らを呼び出してやる。ただし少しでも不穏な気配があれば奴を消す。それだけのことだ」
「まだ彼を疑ってるの?貴方も暇ね」
ベルモットの皮肉には返さず、ジンは愛銃を取り出した。
ベレッタM1934の黒い銃身を眺めながら、喉の奥で小さく笑う。
「あのすました顔に風穴を空けられるのが楽しみだぜ」
「相変わらずの心配性ですね」
突如入り込んだ第三者の声に、ジンは確かめる間もなく銃口を向ける。
しかしその撃鉄を起こすより早く、まるで分解されたかのようにそれが
バラけた。
「……!」
毎度のことながら人間業ではない。
愛銃だったものの欠片が舞い散る向こう側に、穏やかな微笑みを浮かべながらナマエは佇んでいた。
「ギムレット…今更何しに来やがった」
唯一形を残していたグリップを投げ捨て、ジンがゆらりと立ち上がる。
「そのコードネーム、もう呼ばないでいただけますか」
「あぁ?………ッ」
ガン、と打ち付けるような音が鳴り、ジンのトレードマークでもある帽子が宙を舞う。
ベルモットが銃を取り出してナマエに向ける頃には、すでに状況は一変していた。
銃口の先ではうつ伏せに倒されて後頭部を押さえ込まれたジンが、ナマエに乗られて身動き一つ取れないでいる。
「ベルモット、その銃を捨てて」
感情の読めない黒い瞳に見据えられ、ベルモットは引き金に掛けた指を震わせた。
この指を引けば銃弾は確実に当たるのに、彼女を殺せる気が全くしない。
なおかつその声に無条件で従いたくなるのは、もはや生き物としての生存本能としか言いようがないだろう。
「ベルモット」
抑揚のない声で再び名を呼ばれ、ベルモットは指示通りに銃を落とした。
それを見たナマエが「よくできました」と言わんばかりに微笑むのを見ても、張り詰めた緊張が緩むことはなかった。
「てめぇ……誰に雇われた」
ナマエの下で、ジンが呻くように言う。
先程の打ち付けるような音は彼が倒された時のもののようで、その額からはわずかに血が滲んでいる。
「誰でもありませんよ。私の意思です」
「んだと…?」
「とはいえ、あなた方に恨みがあるわけではないですが」
「……言ってることが矛盾してんぞ」
彼女に直に乗られているジンは、どう足掻いてもそこから抜け出せないことをすでに悟っているのだろう。
彼にしては落ち着いた口ぶりに、ベルモットもまた諦めたように体から力を抜いた。
―――たとえ階下の幹部たちが武器を携えて駆け付けようと、ナマエには敵わない。
恨みのない相手にやることではないと言外に示したジンに、ナマエはふふっと場違いな笑みを零した。
「確かにそうですね。見返りなく誰かの手助けをしたくなるなんて、自分でも初めてのことなので…これでも驚いてるんです」
その答えに瞠目したのはベルモットだった。
彼女は以前、まるで恋する乙女のように男を見つめるナマエの姿を目撃している。
「まさか……彼が?」
呆然とした様子で呟いたベルモットに、ナマエは肯定する代わりに微笑んでみせる。
ジンもまた、誰がナマエを取り込んだのかを察して忌々しげに舌を打った。
この状況を作ったのが誰であるかなんて、火を見るより明らかだった。
「後のことは、主役の彼に直接どうぞ」
「……他の幹部はどうした」
「全員まとめて下で寝てますけど」
事もなげにそう言いながら、ナマエは空いた片手でコートから結束バンドを取り出し、ジンの両手両足を拘束する。
その体を引き起こして座らせると、ベルモットを手招きして背中合わせにロープで巻いた。
「逃げたら追いますから、そのつもりで」
悪戯っぽく微笑むナマエに、二人は何も返さない。
それに小さく笑ってから、もうここに用はないとばかりに立ち上がった。コナンから下された指示はこれで全て完了だ。
「あ、そうだ。私がやったって誰にも言っちゃダメですよ」
苦い表情を浮かべた二人にもう一度笑いかけて、ナマエはその場を立ち去った。
あとは全てを終えた彼から連絡があるまで、普段通りの生活を続けるだけだ。
そう考えながら帰宅したナマエは、先日料理中にスマートフォンまで切断して買い換えたことを、すっかり忘れていたのだった。
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