08
諸伏がナマエの自宅に転がり込んで数ヶ月。冬だった季節も春へと移り変わった。
お互いに二人での生活に慣れ、何もなかった部屋にも人間らしい生活感がある。
あくまで雇用関係を前提とした共同生活ではあるが、二人は特にトラブルもなく日々を円滑に過ごしていた。
そして家事と家の管理を一手に担う諸伏が、日々を過ごす中で彼女についてわかったことが一つある。
それはナマエが決して「優しい」人間ではないということだ。
ナマエは基本的に穏やかで物腰も柔らかい。ニコニコとわかりやすく笑うタイプではないが柔和に微笑んでくれることが多いし、怒った姿も見たことがない。日光に当たらない生活が続く諸伏を「誰にも気付かせないから大丈夫」と空中散歩に連れ出してくれることもある。
しかしそれはあくまで雇用主としての配慮で、被雇用者かつ事情を知る唯一の人間である諸伏が健康を害さないよう管理しているに過ぎない。
彼女の根底にはゾルディックマインドというか、徹底したギブアンドテイクの考えがある。
諸伏が軽い気持ちでトレーニングを見てくれないか頼んだ時に、「それをして私に何かメリットはあるの?」と小首を傾げられたのは記憶に新しい。
彼女はきっと、目の前で子供が殺されそうになっていても助けない。
それが自分の進行方向で、犯行が行われているせいで先に進めないとか、そういう理由がなければきっと彼女は動かない。
それと同様に二人の雇用関係が終了すれば、きっと自分も即座に「被雇用者」から「どうでもいい他人」にクラスチェンジするのだろう。
そう確信できる程度には、諸伏は彼女のことを理解し始めていた。
そして彼がなぜ今そんなことを考えているのかというと、夕食中にかかってきた電話に出たナマエが、耳を疑うようなことを言い始めたからである。
「…ごめん、ナマエ。もう一回いいか?」
「? だから、ジンに誘われたから出掛けてくるねって」
「誘われたって……何に?」
「さあ。出てこいって言われただけだから」
――え、行くの? ギブアンドテイクは? 諸伏は頭上に疑問符が飛ぶのを感じていた。
「ああ、ヒロのことなら言わないよ」
「いや、まあ、それもそうなんだけど、そうじゃなくて……」
(なんだろうこの釈然としない感じ)
思わず眉根を寄せた諸伏に、ナマエが首を傾げる。
「どうかしたの?」
「あー…ナマエが人の誘いに乗るのが意外っていうか」
「そう?だってジン、今日は勧誘なしだって言うから。それなら別に断る理由もないかなって」
どうやら「お願い」ではなく純粋な「お誘い」であれば一考の余地があるらしい。これはいいことを聞いた。
「まだ勧誘されてたんだな」
うん、とナマエが頷く。
「気まぐれに受けた拷問の仕事が気に入られたみたいで。それから自宅の場所を探られたり、力ずくで連れて行こうとされたり、結構接触があるの」
「拷問」
「脅してもクレーム入れても聞いてもらえないから、最近は諦めてるけどね」
自宅の場所は知られてないから安心してね、とナマエが言うが、それよりも簡単にスルーできない単語が聞こえたような。拷問?したの?
「ごちそうさま。じゃあ行ってくるね」
夕食を食べ終えたナマエが、さっさと食器を下げて玄関へと向かう。
「あ、ああ…気を付けてな」
こんなにも夜歩きが心配にならない女性もいないだろうが、もはや定型文だ。
「ありがとう、行ってきます」
そう言うと荷物は財布とスマートフォンだけという身軽さで、彼女は自宅を後にした。
***
「てめぇ…なんだその格好は」
指定された場所に向かうと、いつも行動を共にしているウォッカの姿はなかった。見える範囲には以前見た黒い車もなく、街灯を背にしたジンが一人で立っている。
服装を指摘されたナマエだが、ショートブーツを合わせたシンプルなパンツスタイルだ。何がダメなのかと首を傾げた。
「あなたの方がよっぽど目立ってるけど…」
「そんな格好じゃ入れる店が限られるって言ってんだ」
「店?」
チッといつも通り舌打ちを零したジンが、「着いてこい」と踵を返す。どうやらすぐ近くの百貨店に入るらしい。
ジンはそのまま高級そうなブティックに躊躇わず入り、女性物の服を物色する。
あからさまに怪しい風体に店員たちに一瞬動揺が走るが、すぐにそれを押し殺した辺り彼女たちもプロだ。
そしてそんな彼女たちが声をかけてくるよりも早く、ジンがナマエに服を押し付けた。
「着てこい」
「え?」
きょとんと目を瞬かせるナマエだったが、ジンが店員に声をかけたことで女性店員によって試着室へと誘導される。
カーテンで隔てられたブース内に大人しく足を踏み入れると、ナマエは手元のそれを広げてみた。
(こんなの、着たことない)
属性としては資産家令嬢ともいえるナマエだが、残念ながら普通のお嬢様ではない。少なくともジンに手渡されたような女性らしいワンピースは着たことがなかった。
黒一色の長袖ワンピースはふわりと広がるベルスリーブが甘さを漂わせる一方で、大きく開いた背中がなんとも大胆だ。首元はやや広めのラウンドネック。ウエストが程良くシェイプされていて、丈は膝下20cmといったところか。
とりあえず着ていた服を脱いでそれに着替える。
このワンピースに機能性重視のブーツは死ぬほど合わないだろうと思いながら試着室のカーテンを開ければ、そこには履いてきたショートブーツではなく、黒いハイヒールパンプスが用意されていた。
「え……ヒール」
ヒールの高い靴も、ミルキに頼まれるコスプレ以外ではあまり履いたことがない。
恐る恐るそれに足を差し込んだところで、店員の女が近づいてきた。
「よくお似合いです」
「…ありがとう」
どうやらジンはこのまま着ていくと伝えたようで、ワンピースの袖からタグが取り払われる。
「行くぞ」
淡々と言うジンの手元には大きめの紙袋が提げられている。中身はおそらく先程脱いだばかりの服だ。それを持って先に行ってしまったジンを、ナマエがは仕方なく追いかけた。
***
「酒は飲めんのか」
「まあ……酔わないですけど」
「適当に注文しろ」
そう言ってジンはカウンター越しのバーテンダーに自分の酒を注文する。
「じゃあ、あまり詳しくないので…適当に強めのカクテルを」
ナマエも続けて注文し、隣に座るジンに目をやった。
早速煙草を吸い始めたジンはいつもの帽子もコートも脱いでいて、長い銀髪と細い体躯がよく見える。
彼に連れてこられたのは暗めの照明が落ち着いた雰囲気を漂わせる、オーセンティックなバーだった。
「こういう店でゆっくり飲んだりするんですね、意外です」
話しかけられたジンは紫煙を吐き出し、長い髪の間から視線を寄越した。
「お前は俺をなんだと思ってんだ」
「え…お仕事熱心な犯罪者?」
自分を棚上げして言ってやれば、ククッと喉を鳴らして笑うジン。
「お前にだけは言われたくねぇな」
「一緒にされたくないです」
「諦めろ」
妙に楽しげなジンを眺めていると、目の前にカクテルグラスが現れた。
「ギムレットです」
透明感のある液体がかすかに揺れながら、よく冷えたグラスをほのかに曇らせている。ナマエはそれをジンに差し出した
「乾杯、します?」
ジンの前にはウイスキーの注がれたショットグラスが置かれている。煙草を持ったままのジンが無言で持ち上げたそれに、ナマエはそっとグラスを当てた。
「ギムレット…ジンにライムジュースを加えたカクテルだ」
「へえ」
飲む酒の味も種類も、これまで一度も気にしたことがない。とりあえず一口飲んで「飲みやすいですね」と返す。
「ギムレットのカクテル言葉を知ってるか」
「知らないです。カクテル言葉なんてあるんですか?」
むしろ隣の男がそれを知っている方が意外だった。ジンは紫煙を燻らせながらそれを口にした。
(…長い別れ、遠い人を思う)
「ふふ…私にピッタリかも」
そう言ってグラスを傾けるナマエを、ジンは目を細めて眺めていた。
結局その日は事前の宣言通り勧誘もなく、ただ深夜まで酒と――少ない会話をそれなりに楽しんだだけだった。
通りに出てタクシーに乗せられたナマエは、念のため自宅から離れたところで降り、そこからは自分の足でマンションへと向かう。
そして帰宅したところで、家を出た時とは違う女性らしい服装に変わっていること、そしてそれをジンから買い与えられたということに諸伏が腰を抜かすほど驚くのだった。
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