10
深夜、帰宅した零は駐車場に愛車を停め、ふと隣の駐車スペースに目をやった。
ナマエが教習所に通い出した辺りで契約したスペースだが、まだそこに車はない。
彼女は教習所に通い始めて三ヶ月強で、苦手な学科も無事克服して運転免許を取得した。
しかし車の選定に時間がかかっている間にお腹がすっかり大きくなり、結局車の購入は産後体調が落ち着いてからという結論に至ったのだ。
ちなみに彼女が選んだ車を全力で却下し続けたのは零である。
(あれだけはダメだ。あれだけは)
いつの間に連絡を取ったのか、ナマエは帰国した沖矢昴―――もとい赤井秀一が工藤邸に置いていったスバル360を買い取ると言い出したのだ。
サイズ感も色もデザインも好みだと彼女は言ったが、残念ながらそれだけは断固として許すわけにいかない。
あれがRX-7の隣に停まっている光景なんて、想像しただけで額に青筋が浮きそうだ。
(改めてMAZDA2を勧めておこう)
そして有無を言わさずディーラーに連れて行こう、とひそかに決心しつつ自宅のドアを開ける。
「ただいま」
呟くように言って、玄関の電気を点ける。洗面所で手を洗ってからリビングへと続くドアを開けて、零はそこから見える光景にそっと息を潜めた。
ソファの上に人影が見える。
足音を殺して近づくと、そこには大きなビーズクッションに抱き着くようにして座ったまま眠るナマエの姿があった。
臨月に入り、大きくなったお腹のせいか彼女はいつも寝る体勢に苦慮している。仰向けはお腹が張って苦しいし、横向きは抱き枕か何かを足の間に挟まないと寝づらいらしい。
最近はこの体勢が一番楽らしく、こうして眠っている姿をよく見かける。
零はナマエの部屋から毛布を持ってきて、そっとかけた。暑さ寒さに強い彼女も最近はやたらと暑がりで、朝には床に落とされていることが多いが念のためだ。
「ん……おかえり、零」
相変わらず眠りが浅いらしいナマエはすぐに起きてしまった。「ただいま」と声をかける零に口元を緩めてから、案の定毛布をポイっと床に放る。
それに呆れたように笑って、零は彼女の頭を撫でた。
「ナマエ、誕生日おめでとう」
「……あ、もう日付変わってる?」
「ああ」
ありがと、と返しながらふにゃりと笑ったナマエだが、次の瞬間には寂しそうに眉尻を下げた。
「今年はみんなで集まれないね」
ナマエはそう言って大きなお腹を撫でる。同期組を彼女が送迎できない以上、彼らを自宅に集めるのは確かにリスクが高いだろう。
彼女は同期組を集めるのを零のためだと考えているようだが、彼女自身それを楽しみにしていたのは明らかだ。
零は慰めるように頭を撫で続けた。そしてその口元に、慰めとは違う笑みが浮かんでいることにナマエは気付いていない。
ナマエがこの世界に来ておよそ六年。彼女はこの世界における「フラグ」という概念を、まだ理解していないのだった。
***
(これをトースターで10分。次は、と)
その日は零が仕事に向かった後のキッチンで、朝から精力的に動き回るナマエの姿があった。
いつもなら散歩にでも出掛けるところだが、今日は零から「やっておいてほしいことリスト」を託されているのだ。
全部できなくてもいいとは言われたが、任されたからにはなるべく済ませておきたい。
(にしても、すごい量。職場にでも差し入れするのかな)
グラタンにチキンナゲット、スコップサラダ。パーティーでもするのかというようなお品書きだ。
ナゲットを揚げながら腰を少し反らせばポキポキと骨が鳴る。
ナマエは現在妊娠37週。いつ生まれてもいいという、いわゆる正産期に入ったところだ。
担当医からはどんどん体を動かすようにと言われてはいるが、大きなお腹ではとにもかくにも動きにくい。驚くことに、生まれて初めての肩凝りも経験した。
「あれ?帰ってきた」
料理を受け取りに戻ってきたのだろうか、ドアの向こうから零の気配が近づいてくる。
ちょうど揚がったナゲットをバットに上げ、IHの電源を落として玄関へと向かった。
(……ん?)
違和感に気付いたナマエが足を止める。気配が一つじゃない。
そして"円"を使うまでもなく足音や気配からその人数を察知してしまったナマエが、目を見開いた。
息を呑んで見つめる先で鍵がカチャリと回り、そしてドアが開かれる。
「ただいま。あ、ナマエ」
「お出迎えかよ。さすがじゃん」
「うわっ、こないだ見た時よりお腹大きくなってる!」
「そうか、もうすぐか。感慨深ぇなあ」
口々に話しながら入ってくる男たちによって、自宅の中が一気に騒がしくなる。
「早く上がってくれ」
一足先に靴を脱いだ零がそう促し、彼は呆然とするナマエの背に手を添えてリビングへと向かった。
「あ、いい匂い。作ってくれてたんだな」
「さすがにナマエ一人には任せられないし、オレらも色々買ってきたから」
後ろに続く諸伏が大きな袋を掲げて見せる。玄関でもガサガサと聞こえるので、松田や伊達も同じように袋を持っているのだろう。
「……え?」
ナマエは目を瞬かせながら彼らを見回し、そして最後に零を見た。
彼はいたずらが成功した子供のように、楽しげな笑みを浮かべている。
「去年は君に驚かされたからな。そのお返しだよ」
「お返し……」
「伊達と松田はオレとゼロで手分けして迎えに行ってきたんだ」
ちなみに車も足がつかないヤツ調達した、と諸伏が笑いながら話す。
「これでもし上にバレてお咎めがあったら、責任は全て僕が取る」
「零、」
「まあ上にも部下にもバレるようなヘマはしないが」
自信たっぷりな一言に、松田が「悪ぃお巡りさんだな」とツッコんだ。
「ちなみに僕もヒロも休みは取ってないから、昼過ぎで解散だ」
「そういうこと。ほら座って、ナマエ。時間がもったいないぞー」
零や諸伏に促され、ナマエはリビングのソファに腰を下ろす。
去年と同じようにローテーブルと折り畳み式のテーブルが並べられ、男たちがそこを囲むようにして座った。
テーブルの上には次々と隙間なく料理が並べられる。
「今日は呼び出しに備えて酒は無しだ」
「ノンアルビール飲む人ー」
「おっ、くれくれ」
それぞれが飲み物を取り出す中で、零がカウンター越しにナマエを呼ぶ。
「何が飲みたい?」
「あ……じゃあ、ルイボスティー」
「了解」
「おーい安室サン、俺アイスコーヒー」
にやりと笑いながら注文したのは松田だ。
零はそれに嫌そうな表情を浮かべつつ、次の瞬間には顎に手を添えてニッコリと完璧な笑顔を作ってみせた。
「確か、松田さんはブラックでしたよね?」
「ゲッ」
やっぱ気持ち悪ぃ、と松田が失礼な呟きを零す。
「あれが噂の安室さんか」
「喫茶店でJKにモテモテだったらしい」
「そいつはやべぇな……」
諸伏と伊達は安室スマイルを眺めながら会話を弾ませていた。
ナマエはそんな彼らの姿を見ながら、どこか夢見心地でいた。
これは零が失いたくないと願った光景で、ナマエ自身、何よりも楽しみにしていた時間だ。ゆるゆるとだらしなく緩む口元を止められそうになかった。
「松田さん、お待たせしました。アイスコーヒーです」
「ごめんてゼロ。もーやめて」
零がナマエにルイボスティーを、松田と自分にアイスコーヒーを用意したところで全員に飲み物が行き渡る。
「ナマエ、誕生日おめでとう」
「おめでとー」
「ありがとう、みんな」
ローテーブルを囲んでいた面々が、皆一様に立ち上がってソファに座るナマエと乾杯しに来る。
それを受けながら、彼女の表情はすっかり緩み切っていた。
「そういえばナマエ、免許取れたんだよな。おめでとう」
「うん、ありがとう」
「車決まった?」
「あー……」
諸伏の質問に零を見ると、無表情でこちらを見つめる彼と目が合った。こわい。
「……赤井さんが置いてった車を買い取ろうと思ったんだけど、やめたの」
やめたと聞いて、零の表情が少し柔らかくなる。どうやらこの答えで正解だったらしい。
「あー、なるほど、うん」
二人の仲の悪さを知る諸伏も納得したように頷いた。
「おっ、なんだなんだ、嫉妬か?」
「やめろ松田、危ない」
零の背後から松田がのし掛かる。危うくアイスコーヒーを溢しそうになって零が眉根を寄せた。
「ライバル出現だって?」
「違う」
「ゼロと仲の悪いFBI捜査官の話だよ」
諸伏が簡単に説明すると、松田が「お前、心狭ぇな」と切れ味鋭い一言を放つ。零の額にピキッと青筋が浮かぶのが見えた。
「そういやお腹の子の性別は聞いたのか?」
不穏な雰囲気を漂わせる一角を見て見ぬふりしていると、伊達がノンアルビール片手に問いかけてきた。
「ううん、楽しみにしとこうかなって」
「なるほどな。名前の候補はあんのか?」
「私はこっちの名付け疎いし、零が色々考えてくれてるよ」
ゾルディックの名付けはしりとり縛りだし、悲しいかなナマエはそれに入っていないしで、全くもって役に立てそうもない。
一方の零は仕事で思うようにサポートできないことを気にしているのか、名付けに関しては俄然やる気だった。疲労の滲む顔で名付け本を睨み付ける姿はなかなかに鬼気迫るものがある。
「女の子だったら桜だって」
ぶっ!と飲み物を噴く音が聞こえて目を向けると、松田が咳き込んでいるのが見えた。
「ちょっと、陣平。汚い」
「ゲホッ、だってよ、ゴホッ、桜ってお前」
どんだけ警察官の鑑なんだ。
苦しそうに噎せながら、松田は零に向かってそうツッコんだ。
「なんだよ。いい名前だろ」
不機嫌そうに言う零にナマエが首を傾げていると、警察のシンボルマークである旭日章に桜の大紋という別名があるのだと伊達が教えてくれた。
「ふうん。うちの子にピッタリだね」
「だろう?」
「マジかナマエ」
「零の正義感を受け継いでくれたら、きっと強くて優しい子になるよ」
ぐっと呻いて胸を押さえた諸伏に、伊達が「なんでお前が感動してんだ」と半目でツッコむ。
「男だったら?」
「それが……なかなか決まらないんだ」
零は困ったように頭を掻いた。
「お前がゼロだから"一"付ければ?」
「安直か」
「画数は気にしてんのか?」
「いや、特には」
あーでもない、こーでもないと男たちが頭を突き合わせて意見を出し合う。
それを眺めながらチキンナゲットを齧っていたナマエが、ぽつりと呟いた。
「……透、いいと思うんだけどな」
え?と四人分の視線がナマエに向く。
「響きが綺麗だし、"透き通る"とか"透明"って、零の"ゼロ"と意味が近い気がするし……何より、零が考えて付けた名前だから」
名付けで毎日のように頭を悩ませている零には言えなかったが、ナマエはこの"透"という名前を気に入っていた。
漢字の意味なんて生まれて初めて調べたが、正直零の子としてピッタリな名前じゃないかと思っている。
もちろん彼がかつての自分の呼び名を使うことに抵抗がなければの話だが。
ナマエに向いていた同期組三人の視線が、今度は零に突き刺さった。
「えーと……」
零は照れくさそうに頬を掻き、少し考えてから口を開く。
「…じゃあ、候補に入れようか」
そのまんざらでもないような表情に、ナマエは思わず破顔した。
***
同期組が再び集まった日から二週間。
出産予定日を間近に控えたナマエは、散歩がてら歩いて買い物に出かけていた。
秋の空はすっきりと晴れ、厳しかった残暑も遠のき始めている。
(何買おう。肌着もガーゼも揃えたし、自分の物はこないだのプレゼントで色々もらったし)
今回の誕生日プレゼントは入浴剤やボディクリームなど、どれも産前産後の気分転換に使えそうな物ばかりだった。
普段自分のケアに無頓着なナマエは、これだけあれば当分自分のための買い物はいらないと思ったほどだ。
(よし。零にプレゼントでも買おう)
そう決めたナマエは近くの家電量販店に入り、テレビで見たスマートスピーカーを購入した。
産後の入院中は、これと会話して寂しさを紛らわせていてもらおう。
ラッピングして紙袋に入れてもらったそれを提げ、またぷらぷらと通りを歩き出す。
その時、穏やかな空気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
遠くから連鎖するように重なり合ったそれが、あっという間に近くへと迫る。
足を止めてナマエが見つめるのは、十字に交差した大通りだ。
向かって左の通りはビルの陰に隠れて見えないが、そこから金属が擦れるような不快な音を立ててトラックが飛び出してきた。
荷台の過積載によるものか、不自然に傾いたトラックはビルの外壁をギャリギャリと削りながら角を曲がり、ナマエがいる方向へと猛スピードで突っ込んでくる。
思わず零した舌打ちは、直後に訪れた凄まじい衝突音にかき消された。
prev|
next
back