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「松田!」

小さく、しかし焦りの滲む声で名前を呼んだ零に、長椅子に座っていた松田が顔を上げる。

「おー、来たか」
「ナマエは」
「過積載でハンドル取られた暴走トラックを素手で止めたんだと。で、その弾みで破水」

説明しながら立ち上がった松田が傍らの扉を目線で示す。零がそれを確認すると、そこには分娩室と書かれていた。

「最初は陣痛室ってとこにいて、さっきここに移ったとこ」
「怪我はなかったのか?」
「無傷だとよ。さすがすぎるわ」

そこまで聞いて、ようやく零は脱力したように長椅子に座り込んだ。詰めていた息が長いため息となって肺から出ていく。

「悪かった。まさか松田に連絡が行くとは」
「いや、俺も口止めされてたし。悪ぃな」

ナマエは病院への提出書類に、松田の番号を緊急連絡先として記入していたらしい。
いくら公立の病院を選んだとはいえ、そこに零の情報を書き込むことは躊躇われたのだろう。

伊達は彼自身の子供もまだ小さく、諸伏は零と大して変わらない立場だ。キュラソーもゼロの管理下にあるし、松田が一番頼みやすかったのだということは想像に難くない。

「しかも立ち合い拒否だって?」
「ああ。恥ずかしいって言われてたんだが、この様子だと気を遣われていたみたいだな」
「あー、プレッシャーになりそうだもんな、お前の」

立ち合い出産を希望したところで、それを叶えられる可能性は低かっただろう。
ナマエがどれだけ零の立場や心情を慮っていたのかということに改めて気づかされ、彼は前髪をぐしゃりと掴んだ。

その時、女性の悲鳴のような声が聞こえて二人はバッと顔を上げる。痛みを逃がそうとしているようなその声は、聞いているだけで冷や汗が出そうなほど凄絶だ。
しかしそれはナマエの声ではなかった。

「そういえば、ナマエの声が聞こえないな」
「あいつマジですげーよ」

松田は感心しているのか呆れているのかわからない表情で、ため息まじりにそう零した。

「陣痛来てるのに表情一つ変えねーし、看護師が「今痛いですよね?」って聞いてやっと「はい、波来てます」って。ここにもスタスタ歩いて入ってったわ」
「それは……さすがだな」

二人の会話の合間にも、痛みに呻く女性の悲鳴が断続的に響く。
おそらくこっちが普通なのだろうが、二人の脳内ではナマエが分娩台で表情一つ変えずにいる姿が容易に想像できた。痛みに慣れ過ぎである。

「ま、つーわけであいつは大丈夫だから。俺はもう行くわ」
「ああ、ありがとう。ナマエを通してちゃんと礼はする」
「おー。楽しみにしてる」

背を向けてひらひらと手を振りながら、松田が立ち去っていく。これでまた来年まで彼と会うことはないだろう。

零は座ったままスマートフォンを取り出し、風見へのメールを作成した。
説明もそこそこに飛び出して来てしまったし、自分自身焦りすぎて自宅に寄る余裕もなかった。自宅にある入院セットを取ってきてもらわなくては。

メールを送り終えた零は、組んだ両手に額を当てた。祈るような姿勢でしばらく座っていると、遠くの方から小さな産声が聞こえた。

「!」

ハッとして顔を上げ、扉を見つめる。

(……いや、違う)

どうやら他の分娩室のようだ。
ナマエがいるはずの扉の向こうからは度々くぐもったような人の声はするものの、ナマエの声が聞こえてくることはない。
彼女を信頼しているはずなのに、じわりじわりと表現しがたい不安が這い寄ってくる。

大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせる。
組んだ手の間に手汗が滲み、体感で何時間も経ったような、それでいて瞬きの時間しか過ぎていないような、地に足の付かない曖昧な感覚が続いた。

それからどれだけの時間が経っただろうか。
ふいに扉の向こうがバタバタと慌ただしくなり、くぐもった声が二重、三重に重なる。

息を呑んで扉を見つめていると、唐突にそれは訪れた。

(あ……)

全身を震わせているような、小さくも力強い声。肺を目一杯広げるように、あたたかな場所から放たれた不安を叫ぶように。
それは確かに、生きるために泣いていた。

零がその場から動けないでいると、分娩室の扉が開く。

「ナマエさんの……あら?ご友人は?」

顔を出した看護師が目を瞬かせているのを見て、零は財布から免許証を取り出した。

「彼は帰りました。僕はナマエの夫です」
「あら!ちょっと確認だけしてきますね」

サッと踵を返した看護師が、少しして再び出てくる。

「大丈夫です。どうぞお入りください」
「ありがとうございます」

分娩室に足を踏み入れると、中央に設置された分娩台の上で、病衣の前をくつろげたナマエが生まれたばかりの赤ちゃんと肌を触れ合わせていた。

「零、来てくれたんだ」

連絡できなくてごめん、と微笑むナマエに「ああ」と短く返す。
彼女の姿を見ても、まだどこか浮ついたような感覚が続いている。

「ほら、赤ちゃんだよ」

ナマエはそう言って小さな頭を撫で、ぺたりと張り付いたくすんだ金髪を整えた。
目は閉じられていて、肌はまだしわくちゃにふやけている。ナマエに触れて安心したのか、もぞもぞと動きながらも泣き声はもう聞こえなかった。

零はおそるおそる手を差し出し、自分と同じ色をした頬に触れる。そこはしっとりとして温かかった。

「……生きてる」

自分でも何を言っているのだと思うが、そんな感想しか出てこなかった。
ナマエのお腹の中にいた存在が、今こうして空気に触れ、自分の目の前で動いている。それはなんとも表現しがたい不思議な感覚だった。

しばらくの間ナマエの上に横たわっていた赤ちゃんが、看護師によって手早く身支度を整えられる。

「はい、お父さん。元気な男の子ですよー」

帽子を被せられ、おくるみを巻かれた赤ちゃんが零の腕の中にすっぽりと収まった。

「軽い……」
「それでも3,000g以上あるんだよ」
「抱いてないみたいだ」

零の感想にナマエがふふっと笑う。

「零にそっくりだね」

まだ汚れがついてくすんでいる金髪も、洗えばきっと自分と同じ色だ。肌も生まれたばかりで赤みがかってはいるが褐色だし、うっすらと開かれた瞼からは灰色がかった空色が覗いている。

「……本当だ」

自分が今どんな顔をしているのか、よくわからない。
情けなく眉が垂れ下がっているのはわかるが、口元はうまく笑えているだろうか。
手の中のぬくもりを意識するたびに目頭がじわりと熱を持つが、零は奥歯を噛み締めて耐えしのいだ。

ふと、二人を見つめるナマエの表情に視線がいく。
いつも通り穏やかに微笑んでいる彼女だが、とろりと落ちそうな瞼や血の気の引いた唇には確かな疲れが滲んでいる。

(あ……しまった)

初めての感情に戸惑うあまり、彼女にまだなんの言葉もかけていなかったことに気付く。

痛みに慣れているからといって痛くないわけではない。ジンに電流を浴びせられた時だって、彼女は平気そうな顔をしながらも痛いと言っていたではないか。
初めて味わう痛みに声も上げず何時間も耐え続けて、なんともないわけがないのだ。

「ナマエ……」
「なに?」
「よく頑張ったな」

その言葉にナマエの黒い瞳がゆっくりと瞬く。

「頑張ってくれてありがとう」

長い黒髪は乱れていて、ナマエが必死に痛みに耐えていたのが窺える。
出産後しっとりと汗ばんでいた額は、いつの間にかすっかり乾いていた。

「この子に会えて……本当に嬉しいよ」

零の言葉に、ナマエが目を細めて幸せそうに笑う。その目尻から伝った涙が、こめかみを通って黒い髪に吸い込まれていった。

「……うん」

言葉の一つ一つが宝物だとでも言うかのように、ナマエが大切そうにゆっくりと頷く。
その姿を見て、零はついに視界が滲むのを感じた。




***




『ナマエからメッセージが届いてるよ!』

帰宅と同時に知らせてきたスマートスピーカーに「再生してくれ」と返す。
するとスピーカーからはほにゃほにゃ泣く赤ちゃんの声と、ナマエの笑い声が聞こえてきた。

『はいはい、今オムツ替えてるよ。退院したら零にもやってもらわなきゃね、うんちオムツ』

その明るい声に零はふっと笑みを零す。

『退院まであと二日、楽しみに待っててね』

そこでプツリと再生が終わる。
短いメッセージだったが、疲労困憊の身にはありがたい。体がすっかり軽くなった気がして、零は「単純な体だな」と呟いた。

ナマエが出産したのは公立の総合病院だが、彼女は大部屋ではなく個室に入院している。ネームプレートは付けないよう手配したし、零以外の見舞客は入れない。とはいえ零も一度も見舞いに行けていないので、実質面会謝絶状態だ。
病院から夫婦に振る舞われるお祝い膳も断ったし、出産直後に会って以降、二人は一度も顔を合わせていない状況だった。

それでもナマエからはマメにメッセージや動画が届くし、零も可能な限り返すようにしている。

なにげに活躍しているスマートスピーカーはトラックとの衝突時に外箱が潰れてしまっていたが、中身は若干傷つきつつもなんとか無事だった。
「ぐちゃぐちゃだけどプレゼント」とナマエに渡された時は、事故の凄まじさを想像して思わず言葉を失ったものだ。

さっとシャワーを浴びた零は、ナマエの部屋のドアを開ける。
そこにはベビーベッドや大量のオムツ、ベビー服が詰まった収納ボックスなどが置かれていて、すっかり子育て仕様になった部屋を見ているだけで気分が上向いた。

ちなみにベビーベッドは伊達から借り、オムツは諸伏が買い込み、ベビー服は松田が送って寄越した物らしい。

(あと二日か)

もうすぐ家族三人での生活が始まる。零は期待に胸を膨らませながら、今日もまた名付け本を手に取るのだった。


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