12
深夜、帰宅してすぐにシャワーを浴びた零は、リビングに人気がないのを確認してから電気を点けた。
寝る前に持ち帰りの仕事を片付けようとローテーブルでノートパソコンを起動する。
「……―――」
サインイン画面が表示されたところで、ナマエの部屋から小さな泣き声が聞こえた。
それに合わせてもぞもぞと衣擦れの音がし、ナマエもまた起きたことがわかる。
零はリビングの照明を電球色に切り替えて明るさを落としてから、そっとドアを開けた。
「…ん、おかえり、零……」
「ただいま。ミルクでよければ代わるよ」
そう申し出れば、ナマエがぼんやりとした表情のままスマートフォンを手に取る。授乳間隔を確認しているのだろう。
「……うん、お願い」
「了解」
再びぱたりとベッドに倒れ込んだナマエを見届けて、零はベビーベッドから泣いている息子を抱え上げた。
「お腹空いたな、すぐ作るから」
声をかけながらリビングに向かい、ローテーブルの横に敷いたベビー布団に寝かせる。
電気ケトルの電源を入れ、お湯が沸くまでの間にオムツを替えてからミルクを作った。
生まれたばかりの頃より少し大きくなった泣き声が、決して狭くないリビングに響き渡っている。零はそれに「はいはい」と答えた。
「もうちょっと待って」
ここが角部屋で、なおかつ隣が空室で本当によかった。もちろん契約時からそうなるよう手配はしていたのだが、まさか育児で役立つとは思わなかった。
「ほら、できた」
息子を抱き上げて哺乳瓶の先を向けると、待っていましたと言わんばかりに吸いついた。
口元を必死に動かし、小さな両手が空を掴むようにさまよっている。
「……はー…可愛いなあ」
仕事で疲れていても、この姿を見るだけで頬が緩んでしまう。
「透」
名前を呼びかけるが、当の本人はミルクに夢中だ。
結局出生届の期限ギリギリまで名付けに悩んでいた零だったが、最終的には透に決めた。
自分が使っていた名前を付けるというのは想像していた以上に気恥ずかしい。それでも一度呼んでみれば、ビックリするほどしっくりきてしまったのだから不思議だ。
「確かに僕によく似ているけど、顔立ちはナマエかな」
髪や目、肌などパーツの色はどれも零と同じだ。しかしくっきりとした二重など、顔のつくりはナマエに近い気がする。
親の欲目が入りまくりだが確実に男前に育つだろう。
ミルクをあげながらナマエの部屋に視線を向ける。
彼女はタフだし数日寝なくても平気だそうだが、やはり自分の意思で起きているのと、外的要因で数時間おきに起こされるのでは訳が違うらしい。
寝ないまま次の授乳時間がやってくることもザラらしく、透が寝ると同時に束の間の睡眠を貪る生活のようだ。
「……早くお母さんが楽になるといいな」
今にもミルクを飲み干しそうな透に話しかける。
「いや、でも可愛いままゆっくり成長してほしい気持ちもある……難しいなぁ」
思わず苦笑いが浮かぶと同時に哺乳瓶が空になった。
満足したらしく泣きはしないが、自分と同じ灰青色の瞳がぱっちりと開かれている。これは多分寝ないやつだ。
よいしょ、と透を縦抱きにして背中を下から上にさする。
空気と共に出た盛大なげっぷに、思わず「すごいのが出たな」と笑いが零れた。
再び透を横抱きにし、リビングをうろうろと歩き回る。
「さて、透。今日は早めに寝てくれると嬉しいんだけど」
暗くした室内で、ローテーブルに置かれたPCが明るく存在を主張している。子供との時間は大切だが自分の睡眠時間も大切だ。
これまでの経験上、透は人の声や音が聞こえていた方が寝られるらしい。そこで零は透に向けてぽつりぽつりと話しかけ続けた。
「透はこれから、どんな子に育つかな。ナマエみたいに穏やかで芯のある子か……僕みたいなヤンチャだと、喧嘩ばかりで怪我が絶えなそうだけど」
思い出すのは擦り傷だらけだった子供の自分だ。この子もきっと、ハーフだ外人だとからかわれる日が来るだろう。
「肌や髪の色が違ってもみんな赤い血が流れてて、みんな同じ人間なんだ。昔、僕にそう教えてくれた人がいた」
黒目がちな瞳に見上げられながら「君も負けるなよ」と続ける。意味もわからず真ん丸な目で見つめてくるのが可笑しくて、ふっと小さく吹き出した。
「よし、日本人の心を教えてあげよう」
そう言って零が遅めのテンポで口ずさみ始めたのは「故郷」だ。
昔ギターの練習曲にもしていたこの曲は、零にとっては特に馴染み深い一曲だった。
子守唄代わりに繰り返し歌っていると、透の瞼がとろんと落ちてきたのがわかる。
「―――……水は清き、故郷…」
何度目かの「故郷」を歌い終わり、腕の中の透を確認する。目は閉じて手の力も抜け、しっかり眠りについたようだ。
よし、と頷いて振り向いた零は、思わず「あっ」と呟いた。ナマエの部屋のドアの前で、寝たはずの彼女が微笑みながら立っている。
ナマエは二人に近づくと透の寝顔を覗き込んだ。
「しっかり寝てるね。ありがとう」
「…あ、ああ…いや……」
動揺する零に向けて笑いかけながら、ナマエが「いい曲だね」と嬉しそうに言う。どうやらバッチリ聞かれていたらしい。
「今度私にも教えてくれる?」
そう言うナマエに零は一瞬きょとんとしてから、はにかみながら「わかった」と笑い返した。
それは降谷家の子守唄に「故郷」が採用された瞬間だった。
***
「ナマエさん、これはどこに?」
「あ、それは上の吊り戸棚にお願いします。調味料はシンク下に」
「了解しました」
レジ袋から食材や調味料を取り出し、ナマエの指示通りにしまっていく。
風見は一ヶ月健診前で外出できないというナマエのため、降谷に頼まれては度々買い出しを代行していた。
頼まれた品はレトルトやインスタントの食品が多く、料理に時間をかけていられない状況が窺える。
「あの、ナマエさん」
「はい?」
「まだ少し時間がありますので、よければ何か簡単にお作りしましょうか」
風見の提案にナマエが「えっ」と目を輝かせる。
「いいんですか?」
「得意というわけではないので、大したものは作れませんが」
「いいですいいです、助かります」
透を横抱きにして体をゆらゆらと揺らしながら、ナマエが嬉しそうに顔をほころばせた。
「いつもお食事はどうしてるんですか?」
「んー、大体納豆ご飯とか、ふりかけご飯とか、お茶漬けとか。余裕がある時はレトルトの牛丼とか」
(全部ご飯に何かかけるだけのやつ…!)
32歳独身、風見裕也。乳児持ち女性の現実を知る。
「あとは野菜ジュース飲んでます」
まさかそれで栄養を摂った気になっているのだろうか。風見は目の前がくらりと暗くなった気がした。
「で、では、あの……チャーハンと中華スープでもいいでしょうか?」
「えっ、そんなに?やった!」
至ってシンプルなメニューなのにナマエは興奮気味だ。風見は胸をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われる。
(……野菜たっぷりにしてあげよう)
育児って大変だ。
風見はこの日ほど人の「美味しい」が胸に刺さった日はなかった。
***
「透ー!やっと会えたなー!」
つり目がちな目をふにゃりと緩ませて、諸伏が透に笑いかける。
彼は仰向けに寝転んだ透がきょとんとした顔で見つめてくるのを、さらに「可愛い可愛い」と連呼しながら写真に収めた。
「金髪に青い目かー。ちびゼロだな」
「ふふ、似てるでしょ」
「ナマエにも似てるよ、目と鼻の形とか。あ、口もかな」
「そう?嬉しいな」
諸伏が人差し指で透の手のひらをつつくと、小さな手が反射でそれを掴む。彼はそれに「ぐぁっ……」と呻き声を漏らして長身をふるふると震わせた。
反対の手も同じようにして、人差し指を二本とも掴まれた諸伏は「たまんないなー」とだらしなく顔をとろけさせている。
「あっ、そうだ。料理する暇ないだろ?何品か作り置きしてくよ」
「本当?ありがとう」
透が指を離したタイミングで諸伏がキッチンに向かう。
ナマエは透を抱き上げてそれに続いた。
「そういえばこの前、風見さんがお昼ご飯作ってくれたよ」
「えっ、風見さんが?」
よっぽど意外だったらしい。カウンター越しの諸伏が目を丸くして驚いた。
「美味しかったよ、チャーハンとスープ。野菜もたくさん入れてくれた」
「へえ。じゃあオレも野菜たっぷりを心がけます」
「ふふ、よろしく」
カウンター越しに諸伏の手元を覗き込むと、彼は早速食材の下ごしらえを始めていた。相変わらず手際がいい。
「風見さん、帰りに透抱っこしてくれたんだけど……面白かったよ」
「面白かった?」
「透って名前呼ぶのにすごく緊張してた」
思い浮かべるのは、「と、透くん」と躊躇いがちにその名を呼ぶ風見の姿だ。
「あー……」
諸伏はすぐに納得がいったようで「なるほど」と苦笑した。
「上司が使ってた名前だもんな。緊張する風見さん、見てみたかったよ」
「いつもはお堅い感じなの?」
「わりとね」
へえ、とナマエが興味深げに頷く。
「あ、そうだヒロ。伝え忘れちゃったから風見さんに伝言お願いしたいんだけど」
「ん、何?」
野菜を切りながら、諸伏がちらりと目線を上げてナマエを見た。
「えーと、探し物はもっと北、上より下を探すようにって」
手を止めて「探し物は…」と復唱した諸伏が、包丁を置いてバッと顔を上げる。
「ナマエ、あの、もしかしたらなんだけど…それって今公安が追ってる反社組織のアジトのことを言ってたり……?」
ナマエは答えずに笑みを深めた。それに確信を得た諸伏が顎に手をやって首を傾げる。
「下って……地下とか?」
「入口は隠されてるかもね」
さらりとヒントを追加したナマエに諸伏は目を瞬かせた。
「いや、ていうかどうやってそれ……」
呆然とした様子で呟いてから、何かに思い至ったのか諸伏は深いため息をつきながら項垂れる。
それから顔を上げてナマエを見ると困惑気味に問いかけた。
「あーもしかして、ナマエ……まだオレの知らない"発"とかある?」
そうでなくてはおかしいと思ったのだろう。ナマエは退院してから一度も外出していないのだから。
「うん、あるよ。念能力者が能力を全部明かすわけないでしょ」
ナマエは楽しげに笑ってから、すんっと鼻を鳴らす。
「んん、くさーい。透オナラした?」
これからうんち出るのかな?と透に話しかけながら、ローテーブル横のベビー布団へと向かう。
背後では諸伏が「え?」と戸惑ったような声を上げていた。
「……あの…ちなみにどんな"発"?」
「ふふ、内緒」
これからも公安のサポートをするために必要な能力だ。言ってしまっては使えなくなる。
ナマエは透を下ろしてから、後ろに目線を向けていたずらっぽく笑ってみせた。
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