13
そろそろ初雪がちらつくかという寒空の下、ナマエは抱っこ紐をつけて通りを歩いていた。
抱っこ紐の上からクマ耳付きのベビーケープを装着しているので、透は寒がる様子もなくよく眠っている。
ほのかに赤くなったその柔らかい頬を、横から現れた指がツンツンと無遠慮につつく。
「相変わらずぷにっぷにだな」
「それで起きたら抱っこ代わってね」
「はいはい、喜んで」
そう適当な返事を返すのは松田だ。
今日は首もすわって体も大きくなってきた透に、新しい服を買ってやるからと連れ出されていた。
同期組はみんなそれぞれ透によくしてくれるが、中でも松田は貢ぎ癖でもあるのかという程のプレゼント魔だ。
この愛想のなさで子供好きとは意外である。
「今日はあったかい着ぐるみ買ってやるからな、透〜」
「脱がせやすいやつにしてね?」
「わかってるっつーの」
お前のかーちゃん小うるせぇな、とまた透の頬をつつく。
それを見ながらナマエがため息をついたところで、彼女は車道を挟んだ反対側の歩道に目をやった。
「あ」
「ん?」
「あれ、盗撮じゃない?」
ナマエの目線の先を松田が追うと、行き交う車の向こうにミニスカ姿の女性とその後ろを歩く男の姿が見えた。
「たまたま進行方向が同じだけだろ」
「片手にスマホ持ったままだし、ずっと太ももの辺り見つめてるし」
「スマホ持ったまま歩くことくらいあんだろ。太ももは、まあ……あれだけ出てれば普通見るんじゃね?」
ナマエが松田を振り返ると、彼は「なんだよ」と半目になった。
「いや、別に」
「何も言われない方が心が痛ぇわ」
それには何も返さず、ナマエが視線を戻す。
「まあ、赤信号で止まればわかるでしょ」
「無視かよ」
歩きながら反対側の歩道にも意識を向けていると、ちょうどあちらと同じタイミングで交差点に辿り着き、赤信号で足を止めた。
「あ」
呟いたのは松田だった。
女性の後ろを歩く男がミニスカの下にさりげなくスマートフォンを差し込んだところで、ナマエの右手が動いた。
広い車道を越えて飛んだ物が男の手首に当たってスマートフォンが落ちる。
ガシャンと音を立てたそれに女性が振り向き、一歩下がって悲鳴を上げた。ちょうど上向きになったディスプレイに、撮影したばかりの画像でも表示されていたのだろう。
男は咄嗟にスマートフォンを拾い上げ、来た方向を走って逃げていく。
「ほら行って、お巡りさん」
「はあ?俺今日非番……」
「いいから、ほら。逃げちゃうよ」
チッと舌を打った松田が諦めたように走り出す。一般人と現役の機動隊員の追いかけっこは、あっという間に勝敗が決まった。
***
「いや、なんで非番に全力疾走させられてんの?俺……」
ショッピングモール内のカフェで、カップ片手にげんなりとした表情の松田が呟く。
「お疲れ様、カッコよかったよ。ねー透」
ナマエが話しかけると、透は灰青色の大きな目を瞬かせた。
ベビールームで作ってきたばかりのミルクを差し出せば、哺乳瓶に手を添えながらはぐはぐと飲み始める。
「つーかさっき何投げた?」
「ああ、これ?」
哺乳瓶を持っている手の人差し指と中指を立てると、その間に小さな円形のものが具現化される。
松田はテーブル越しに身を乗り出して、それを抜き取った。
「……一円玉?」
「うん。それを弾いただけ」
「弾くって、こう?」
松田がコイントスの要領でピンッと弾く。
「うん、そう」
「いやなんで一円玉?」
高く上がったそれを、松田がパシッと掴み取った。
「軽くてそこそこ固いものって考えて、最終的にそれになったの。小石だと固すぎるし」
力加減間違えて皮膚突き破っちゃったら困るから、と続ける。
昼下がりのカフェで物騒な発言をしたナマエに、松田は「うげ」と顔を歪めた。
「でもお前、これ通貨偽造罪……」
「当たった瞬間消してるよ」
何か問題が?と言わんばかりに微笑むナマエを見て、松田は一瞬固まってから「しかも一円だしな」とため息をつく。
手にした一円玉をテーブルに放れば、そこに触れる寸前でフッと掻き消えた。
「妊娠中、咄嗟に走れないから考えたんだけど、目立たないし結構便利でしょ」
ふふ、と笑うナマエに、松田は呆れきった表情を隠しもせずに「そーすね」と雑に返す。
「おい透、お前のかーちゃんやべぇ奴だぞ」
「そんなことないよ。ね、透」
透は勝手に板挟みになっているとも露知らず、グビグビとミルクを飲みながら母親をじっと見つめていた。
***
零はリビングで正座しながら、ローテーブル越しに同じように正座しているナマエを見つめた。
寝返りの練習中なのか、透は隣に敷かれたベビー布団の上で体を横向けようと必死に背中を反らしている。
「えっと……どうしたんだ?改まって」
沈黙に耐えかねた零がそう切り出す。
久しぶりに早めに帰宅できた零が食事をとり、透と一緒に入浴し、あとは透の寝かしつけだけだ―――と考えたタイミングで、「話がある」と彼を座らせたのはナマエだ。
彼女が改まった様子で正座をしたので、つい零もそれに倣ってしまった。
「零に相談があるの」
「うん。なんでも言ってくれ」
この様子を見るに、相談というのは透関係の話ではなさそうだ。
ナマエが透のこと以外で頼み事をするのは珍しいので、どんなことでも可能な限り叶えてあげたいと零は考えた。
そして続く言葉を待っていれば、ナマエは意を決したように口を開き、そして「家が欲しい」と言った。
「…………えっ?」
予想だにしていなかった内容に零は思わず瞠目する。
「マンションと違って音や振動を気にしなくて済むのはもちろんだけど、私自身自然に囲まれて育ったから……小さくても庭がほしいなって」
「……家…、家か……うーん」
顎に手をやって考え込む零を見たナマエは、「やっぱりダメかな」と眉尻を下げた。
零はそれに申し訳なく思いつつも、二つ返事で承諾できない理由を挙げる。
「このマンションの最大の利点が、僕の職場へのアクセスに優れていることなんだ。そこを維持しつつ戸建てに住もうとすると、場所柄まず土地代だけで億単位の金がかかる」
それに、と続ける。
「マンションなら、管理費や修繕積立金を支払えば建物の維持管理を任せられるという利点もある。セキュリティ面で考えても、僕はマンションの方が上だと思う」
セキュリティに関してはナマエの存在一つでひっくり返るだろうが、そこまでは言わないでおいた。
零も戸建て暮らしに憧れがないわけでもないが、それで通勤時間が延びるくらいなら家族で過ごす時間に充てたい。
そんな気持ちも籠めて言葉を切れば、俯きがちにそれを聞いていたナマエがゆっくりと顔を上げた。
「維持管理とセキュリティと、アクセスと、お金……」
「…まあ、大きな違いはそんなところかな」
するとナマエが「ちょっと待ってて」と腰を浮かせる。
「え?」
「見てほしいものがあるの」
「あ、ああ……」
ナマエは自室に向かい、そしてなぜか巨大なダンボールを持って戻ってきた。
引っ越し用のダンボールと思しきそれは、底面がガムテープでがっちり補強されており、相当重くて大きな物が入れられていると予想できる。
「それは?」
零がナマエからそれを受け取ろうとすると、「重いから大丈夫」と固辞されてしまう。普通は逆だろうが、相手がナマエなのでなんの違和感もなく零は座り直した。
ちなみに透はうつぶせになるのを諦めて自分の両手を見つめているようだ。
「多分100kgくらいあるから」
「えっ」
しれっと爆弾を落としてから、ナマエはそのダンボールをそっと床に下ろし、それの隣に正座し直す。
「あの……開けてみて」
「あ、うん」
零は立ち上がり、大きなダンボールの天面を開いた。そして視界に入った物に思わず目を見張る。
「……これは」
「うん、えっと……」
ナマエは言いにくそうに視線をさまよわせ、小さな声で「10億あります」と呟いた。
ダンボールの中には見たこともない量の札束がみっちりと詰まっている。
「何店舗か回って、鉱石の在庫を多めに捌いてきたの。一番大きなダイヤの原石はまだ半分くらい残ってるし、固定資産税も払っていけるよ」
「………」
「これでアクセスとお金の問題は解決できる…よね?」
ナマエが窺うように見上げてくるが、零は咄嗟に言葉が出てこなかった。
零もあちらで採掘してきたという鉱石の全てを見たわけでなく、まさかこれだけの現金をあっさり作ってくるとは思いもしなかった。
色々と聞きたいことはあるが、まずは。
「固定資産税なんて、どこで覚えたんだ?」
「あ、新一くんに色々聞いたの」
その返しに「なるほど」と頷く。彼女には優秀なブレーンがいるようだ。
しかし欲を言えば大体の相場も教えてあげて欲しかった。10億はさすがに多すぎる。
「維持管理とセキュリティは人任せにできない分マンションより大変だろうけど……お金で解決できるところはして、それ以外のところは私が頑張るから」
零の言うマンションの利点をクリアすべく、ナマエが言葉を尽くす。確かに金次第でなんとかなる部分も多い。
「ダメ、かな……」
ダンボールの傍らに立ったままの零を、ナマエが情けなく眉尻を下げて見上げた。
そもそも、なんでも言ってくれと言ったのは零だ。こうも頑張りを見せられてしまっては、もはやダメとも言えないだろう。
「……わかった」
そう言いながら零が座り直すと、ナマエが「えっ」と目を丸くする。
「ただし君におんぶに抱っこじゃ僕の気が収まらない。土地代はありがたくこれを使わせてもらうとして、上物の部分…家の代金は僕が払うよ」
そう条件をつけると、彼女はきょとんとして目を瞬かせた。
それに零はふっと微笑みかける。
「僕だってそのくらいの蓄えはある。そうさせてもらえるなら、家のことも前向きに考えよう」
「ほ、ほんと?」
「ああ」
笑顔で頷いてみせると、ナマエの頬が喜びに紅潮するのがわかった。
「嬉しい…ありがとう!」
黒曜石のような瞳をふにゃりと細めてナマエが笑う。その顔を見るだけで満たされた気持ちになるから不思議だった。
「うん、やっぱり可愛いな」
「え?」
「いや、つい君には甘くなってしまうなって言ったんだ」
「そうなの?……あっ」
「え?……あっ」
ナマエの視線が向いた先を追いかけて、零もそれに気づく。
「透が!」
「寝返りしてる…!」
寝返りの練習は諦めたのではなかったのか。二人の視線の先ではしれっとうつ伏せになった透が、足をパタつかせながらニッコリ笑っていた。
天使か?と我が目を疑うがそれどころじゃない。二人は決定的瞬間を見逃してしまったのだ。
「れ、零、どうしたら」
「落ち着こう。とりあえずこの姿を写真に収めて、それから仰向けに戻し……あっ!?」
「寝返り返りした!」
「早くないか!?発達が!」
カメラカメラ、と途端に慌ただしくなる両親など気にも留めず、透はコロコロと転がり始めたのだった。
「あれ?カメラ向けたら止まっちゃった」
「育児あるあるだな!?」
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