14
春。
ナマエは柔らかな日差しが降り注ぐ中、地面にしゃがみ込んで高速で両手を動かしていた。より正確に言うなら草むしり中である。
オーラを纏わせておけば爪の間に土が入り込むこともないらしい。この歳にして新たな発見だった。
庭の片隅に大量の雑草が積み上がったところで、大きな掃き出し窓がガラリと開く。
「ナマエ!」
鋭い口調で彼女を呼ぶのは零だ。彼が焦るなんて珍しい。
どうしたのだろうと窓から室内を覗き込んで、ナマエもまたハッと息を呑んだ。
「あ……っ」
立ってる…!
感動のあまり、最後まで言葉にすることはできなかった。
視線の先のリビングで、透がローテーブルに掴まって立ち上がっている。いわゆるつかまり立ちだ。
ナマエを呼んだ零はすでに透のもとへ戻り、デジタル一眼とスマートフォンを交互に持ち替えながらパシャパシャとシャッターを切っている。
撮影は彼に任せることにしたナマエは、その場から二人を見つめた。
「か、可愛い……」
透の目線の先にあるテレビでは国営放送の子供番組が流れている。そこに出てくる犬の着ぐるみを着たキャラクターがお気に入りの透は、つかまり立ちをしたまま興奮のあまり縦ノリを始めた。
膝を起点とした縦ノリはスクワットのようにも見える。
「透!?なんだその動き!」
透は興奮する父親を気にも留めず、画面に映る犬のキャラクターに夢中のようだ。
結局透がぺたりと座り込むまでひとしきり撮影してから、零はナマエに話しかけた。
「庭、ありがとう。昼食作り終わったから代わるよ」
「ううん、もう終わったよ」
「もう?早いな。さすがだ」
綺麗になった庭を振り返りながら「芝生張りたいな」と言ったナマエに零も同意した。
降谷家の三人がいるのは、霞が関へのアクセスにも優れた高級住宅地に建つ一軒家だ。
まず慎重に土地を選定した二人は、打ち合わせに時間が割けない零に合わせて建売住宅を購入した。
一から建てる注文住宅でなくとも、希望通りの間取りと最新設備を備えた物件は満足度も高い。
広々としたLDKに対面式のカウンターキッチン。パントリーやシュークローク、ウォークインクローゼットなどの豊富な収納。玄関から水回り、LDKに至るまで全てが繋がった回遊動線で利便性にも優れていた。
家の前には車が二台停められるカーポートもあり、そこには白いRX-7と黒いMAZDA2が並んで停められている。
ナマエの希望通り庭も広く、閑静な高級住宅街ということで治安もなかなかいいようだ。
庭づくりについてあれこれと語るナマエを、零は柔らかく目を細めて見つめていた。
視線に気付いたナマエが「何?」と首を傾げると、彼はふっと口元を緩める。
「家、買ってよかったなって思って。楽しそうな君の姿が見られて嬉しいよ」
「ふふ、零も楽しそう」
「ああ。三人でいられて楽しいし、幸せだ」
さらりと言った零にナマエは一瞬目を丸くして、それから春の日差しに咲くような、柔らかな花笑みを浮かべてみせた。
***
その年の秋。
ナマエは抱っこ紐で透をおんぶし、「行くよ、透」と背後に声をかけた。
「ちょっとだけお母さんのリハビリに付き合ってね」
言い終わると同時に地を蹴り、屋根から屋根へ、ビルからビルへと疾走する。そうして向かう先には、ある建物を包囲する男たちの姿があった。
(いたいた)
最前線でインカムに向かって指示を飛ばしているのは風見だ。彼の部下たちが配置につき終わるまであと少しといったところだろう。
それを横目で見ながら二階のバルコニーに降り立ったナマエは、具現化したダガーナイフで窓の鍵を音もなくくり抜く。窓を開けて侵入した先は無人だが、"円"を展開すればどの部屋に何人いるかも丸わかりだ。
ナイフを消して両手に手袋を具現化し、ぎゅっと握り込んで感覚を確かめる。
「あー」
ふいに、背中から透の声がした。
「あた!」
ご機嫌な様子にナマエがふふっと頬を緩めたところで、部屋のドアが開かれる。
「何が……、っ!?なん」
様子を見に来た男が、言い切る前にバタリと倒れ込んだ。
「バレちゃったよ、透」
「わんわん」
黒いスーツでうつ伏せに倒れた男が大型犬にでも見えたのだろうか。まあ、そもそも単語はまだわんわんしか言えないのだが。
「ふふ、お父さんには内緒ね」
「あい」
「いい返事」と言い終わるより早く、ナマエの姿はその場からかき消えた。
***
それから一週間経ったある日。夕焼けが赤く照らす降谷家の庭に音もなく着地したナマエの姿があった。
肩に担いでいたものをそっと下ろすと、それがくたりと芝生に蹲る。
「…あー、何度経験しても慣れねぇなコレ」
「お疲れ様、伊達くん。もうみんな揃ってるから」
「おう……」
庭に面した掃き出し窓を開け、ナマエは伊達を室内へと招き入れた。
「おー来たか班長」
「これで全員揃ったな」
彼を迎えるのは零をはじめとした同期組の面々と、そして透だ。
「おう。松田はこないだぶりで、降谷と諸伏は一年ぶりだな」
今日はすっかり恒例となった同期会の日だ。
中でも松田と伊達は家に招くのが初めてということもあり、入って早々「いい家じゃねーか」とあちこち見て回っている。
「二人とも、そろそろ乾杯するぞ」
料理を用意していた零が声をかける。
LDKに鎮座する大きなダイニングテーブルは、この日のために選んだと言っても過言ではない。集まった男たちが全員腰掛けても窮屈感はなさそうだった。
「それじゃ、ナマエ。誕生日おめでとう」
「おめでとー」
「ふふ、ありがとう」
まずは同期会の口実でもあるナマエの誕生日を祝ってから会がスタートする。
彼らとはそれぞれ別々に会うことも多いため、透も人見知りはしていないようだ。
「いやー、透は見るたびにデカくなるな!」
「それ親戚のおじさんみたいだな、伊達」
笑いながら、早速透のもとへ向かうのは諸伏だ。「透〜」といつもより高いトーンで声をかければ、最近歩けるようになったばかりの透がぺちぺちと音を立てて歩き出す。
「うわー来た!可愛い!透可愛い!」
褒められて嬉しいのか透も笑顔だ。
やがて辿り着いた諸伏に抱き締められるが、しゃがみ込んでするりと拘束を抜けた透がハイハイで逃げ出した。
「くっ…素早い……」
逃げられた諸伏が項垂れるも、追えば嫌がられるとわかっているのか追いはしない。
逃げた透がハイハイで向かった先は松田だ。
「お?俺の方がいいか、透」
ビール片手に料理をつまんでいた松田が、椅子から下りてしゃがみ込む。
透は松田の腕を掴んで立ち上がり、彼の頭に向かって手を伸ばした。「ん?」と松田が頭を差し出すと、嬉しそうにその髪に触れる。
「わんわん」
誰より早く吹き出したのは伊達だった。
「犬みてぇだってよ!髪が!」
「あぁ?うるせーよ」
「透、このおじさん犬みたい?」
「あい」
諸伏の問いに全身を使って頷いてみせた透に、一同から笑い声が上がる。
「おめーら、疑問形にしたら透が頷くこと知ってて遊んでんじゃねぇよ」
「あいって可愛いよなぁー」
「でしょう?ナニカみたいだよね」
いやそれは違うと思う、と男たちの心境が一致した。
「透、ご飯できたぞ。おいで」
離乳食を準備した零が、透を抱き上げてエプロンを着けさせる。それを見届けてナマエもまたテーブルについた。
ナマエの前に置かれたグラスを見て諸伏が話しかける。
「そういえばナマエ、もう酒飲めるのか?」
「飲めるよ。この前、急に卒乳しちゃって」
卒乳とは赤ちゃんが自然と母乳を飲まなくなることを言う。
早くも食事の魅力に気づいたらしく、透は母乳やミルクより離乳食に夢中だった。
「零が離乳食作ると食いつきがすごいの。よっぽど美味しいみたい」
「へえ、さすがゼロ」
冷凍庫も零が作った離乳食のストックでいっぱいだ。
最初は複雑な気持ちだったナマエも、今ではありがたくその恩恵に与っている。
「まあ飲めや。久しぶりならちょっとは酔えるだろ」
勝手に冷蔵庫から取り出してきたビールを松田が差し出してくる。
ナマエは礼を言ってそれを受け取り、プルタブを開けてグビグビと一気に飲んだ。あっという間に飲み終わり、空いた缶を見つめる。
「うーん、酔えなそう」
「マジかよ」
「ゾルディック半端ないな」
二人の反応に笑うナマエは、そもそも酔えた経験がないので特に残念に思うこともない。
透が食べ終わったところで、入浴のためにナマエと透がその場を離れた。
残る四人はゆっくりと酒を楽しみながら、近況報告や昔話に花を咲かせる。
「にしても、この同期会もまさか三回目ができるとはなあ」
「本当にそうだよな。よく全員の都合がついたと思うよ」
伊達の呟きに諸伏が同意した。
所属も違えばそれぞれ忙しさに波があり、全員が一堂に会するというのは並大抵のことではない。
「俺は最近張り込み続きだったんだが、急に対象が出頭してきてよ…。今年は無理だと思ってたから来れてよかったぜ」
「あー俺も」
「松田も?」
二人の会話に割り込んだ松田に、零が目を瞬かせた。
「今日の日付で爆破予告が出てたから、今年は出られねえってナマエには言ってあったんだよ。そしたら犯人自首したわ」
「………」
その場を沈黙が支配する。
そして松田と伊達の視線が、公安の二人へと向いた。
「……言っとくが、何も話せないぞ」
「んなこたぁわかってる。でもその様子なら心当たりがありそうだな」
「まあ……大きめの案件が思いがけず片付いちゃったよな」
諸伏が苦笑しながら頬を掻いたところで、透を抱えたナマエが風呂から戻ってきた。
「上がりましたー…って何?みんなして」
自分に集まる視線に、ナマエが首を傾げる。
「いや?どっかのお嬢様が本気出してきたなって思ってよ」
呆れたように言う松田を見て、ナマエはぱちりと目を瞬かせた。
それから自分を見る四人をゆっくりと見回し、やがて何かに思い至ったのか、ふふっと笑う。
「きっと、そのお嬢様には何か叶えたいことがあったんじゃないかな」
「叶えたいことって?」
「さあ、わからないけど。例えば私だったら、みんなが揃うところが見たいとか…そういうの」
四人に笑いかけたナマエは、「じゃあ透寝かせてきちゃうから、ごゆっくり」と再びリビングを出て行った。
「…相変わらず尊いんだよなあ……」
静まり返ったリビングに、諸伏の呟きがぽつりと落ちる。
「暗躍体質は直らねーけどな」
「降谷も大変だな」
「……結果的に助かってるから何も言えないのが厄介だ」
複雑そうに答える零の顔には、なんともいえない表情が浮かんでいた。
それを見た伊達が「ちげーねぇ」と吹き出し、残る面々もつられて笑う。
眠る子供に配慮した控えめな笑い声は、日付が変わってからもしばらく続いていた。
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