16
『すきなもののーと』
透が見せてきたお絵描き帳の表紙には、いびつな平仮名でそう書いてあった。
幼稚園で「好きなものを描いてね」ともらってきたそれに、言われた通り好きなものを描いていくことにしたらしい。
「でもボク、お絵描き上手じゃないから……上手に描くにはどうしたらいいの?」
そう相談してきた透に、ナマエはしゃがんで目線を合わせた。
「お母さんは上手だと思うけど……でも、そうだね。楽しく描くにはどうしたらいいかって考えた方がいいんじゃないかな。どうしたら透は楽しく描けると思う?」
「えっと、いっぱいしらべる」
「なるほど。透、調べもの好きだもんね」
「うん」
さすが元私立探偵の息子と言うべきか、透は分厚い図鑑や辞典を開いては物や言葉を調べるのが好きだった。知ることが楽しいというのは一種の才能だろう。
「じゃあどんどん調べていこう。一枚目は何にする?」
「おかあさん」
「え?」
「おかあさん描きたい」
その答えにナマエは嬉しそうに顔をほころばせた。
「好きなもの一号はお母さんか、嬉しいな。じゃあお母さんのこと、どうやって調べようか?」
「いっぱい質問してもいい?」
「いいよ。はい、どうぞ」
改まって正座してみせると、透もナマエの前に座り込んで口を開いた。
「お母さんはお母さんになる前、どんなお仕事をしていたの?」
その質問は予想していなかったのか、ナマエはぱちりと目を瞬かせる。
幼稚園では夫である零が謎の人扱いされているが、実は入園したばかりの頃はナマエ本人が保護者や先生の興味の的だった。
年長にもなるとさすがに周りも慣れたようだが、当初はどこでそんな身体能力を身に着けたのかとよく噂になっていたらしい。
軍人・傭兵・スパイ・体操選手・覆面レスラー・重量挙げの選手など、陰で前職として挙げられた職業はもはや数え切れない。
言葉の意味はわからないにしても、噂になっていたことは透も知っているようだった。
「うーん。お母さんね、ここから遠く離れたところで生まれたんだけど、そこでずっと家の手伝いをしてたの」
「お料理とか?」
「どちらかというとお掃除かな」
そう答えると透は「お掃除屋さんか」と納得したように頷いた。
「じゃあボクのおじいちゃんおばあちゃんも遠くにいる?」
「うん。遠すぎて会えないけど、もし会えたらきっと透も大好きになると思う」
「ふーん」
今はさほど興味もなさそうだが、どちらの祖父母もいないというのはそのうち寂しく思うのかもしれない。ナマエはふとそう考えた。
「じゃあ、お母さんが力持ちで足が速いのはどうして?」
「ふふ、それは小さい頃から家族と戦いごっこしてたからかな」
「ボクもそうすれば強くなる?」
灰青色の目に期待の色が滲み、ナマエはどう答えるべきかと頭を捻る。
「えっと……お母さんとっても強くなったけど、とっても大変だったし、痛い思いもたくさんしたの。だから透に同じことをさせたいとは思わないな」
途端に落胆した様子の透を見て、ナマエは思わず苦笑した。それからフォローするように、努めて優しく笑いかける。
「強くなるだけなら、やり方は他にもたくさんあるよ。また一緒に考えよっか」
「……うん」
***
『ひろさん』
ノートを開いて二ページ目の一番上に、透は不格好な平仮名でそう書いた。
ちなみに一ページ目には『おかあさん』と題して、すでに"お掃除屋さん"の格好をしているナマエが描かれている。
その日、透は仕事の合間に遊びに来た諸伏を、好きなものノートの二人目に選んだ。
「なんでも聞いてくれ」と笑う諸伏に透が一つ目の質問をしようとしたところで、ナマエが不意に立ち上がる。
「ごめん、ヒロ。透と一緒に留守番お願いできる?」
「え?いいけど……」
「五分で戻るから」
そう言ってナマエが玄関で履いたのはパンプスではなくショートブーツだ。
玄関まで見送った二人はそれを目にして、諸伏は「もしかして」という顔をし、透は連れて行ってもらえないことに少し不満そうな顔をした。
ナマエが出ていくのを見届けて、諸伏は傍らの透に話しかける。
「透はこういう時、いつもお母さんと一緒に行くのか?」
「うん」
「じゃあ、お母さんがお外でどんなことしてるか知ってるよな。……オレだけにこっそり教えてくれないか?」
「ううん、それはナイショだからダメだよ」
「うっ…そうかぁー……さすが徹底してる」
年長でここまで秘密が守れる子もそうはいないだろう。
さすが二人の子だと肩を落としながらリビングに戻り、諸伏は質問の再開を促した。
「えっと、ヒロさんはお父さんのお友達なの?お母さんのお友達なの?」
「うーん、それは両方だな。お父さんとは子供の頃からの付き合いだし、お母さんには命を助けてもらったし」
正直に話すと、透が「え」と目を丸くする。
「お母さんが助けたの?仮面ヤイバーみたいに?」
「おっ、そうそう。今だってたくさん人助けしてるだろ?ヒーローみたいに強くてカッコいいと思わないか?」
「うん、おもう」
「だろ?」
自分のことのように誇らしげに語る諸伏は、透が同意したことでさらに嬉しそうに頬を緩めた。
すると透もまた「じゃあこれ知ってる?」と自慢げに口を開く。
「お母さんはお母さんになる前、お掃除屋さんだったんだって」
「掃除?ああ、掃除?掃除ね……ああ、うん…そうなんだ……」
なんてことを話したんだと思いつつ、子供のために分厚いオブラートに包んだナマエを微笑ましく思わないでもない。諸伏はなんとも複雑そうな表情を浮かべて頷いた。
そして五分後、ナマエは宣言通りの時間に戻ってきた。
その後も透の質問は続いたが、結局ノートの二ページ目には、武器を持ったナマエに守られる頼りない諸伏の姿が描かれたのだった。
***
『じんぺい』
三ページ目にそう書き込んだ透は、松田と二人で週末の遊園地を訪れていた。
松田は口が悪くガサツだが、こうして遊びに連れ出してくれるので透にとっても大好きな友達だ。
アトラクションの待ち時間に肩車してくれたり、顔出しパネルで一緒に写真を撮ったりと、松田は嫌そうな顔をしながらも透の要望を次々に叶えてくれる。
そしてゴーカートの待ち時間で、透は松田に質問することにした。
「あ?俺のこと?」
「うん。じんぺーはどんなお仕事してるの?ただのおまわりさんじゃないって、お母さん言ってたよ」
手始めに松田の仕事について聞くと、説明が難しいのか彼は面倒臭そうに頬を掻いた。
「あー……なんつーのかな、悪者が仕掛けた爆弾をやっつける仕事っつーか」
「! 爆弾!?やっつけられるの?」
爆弾といえば、子供にとっては悪者が使う武器の代表格だ。
それをやっつけるという松田に、透は尊敬のこもった眼差しを向けた。
「おー、楽勝よ」
「じんぺーすごい!」
「よしもっと褒めろ。つかお前、諸伏と伊達はさん付けなのに俺だけ呼び捨てだよな?」
「じんぺーはいいかと思って」
「あ?このやろー」
頭頂部を拳でぐりぐりされて、透が笑いながら「いたい」と呻く。
傍から見れば完全に幼児虐待である。
「あ、じんぺー知ってた?ヒロさん、お母さんに助けられたんだって」
「知ってるよ。俺もそうだしな」
「えっ、そうなの?」
「おー」
目を丸くする透の頭の中で、"お掃除屋さん"の母がどんどん正義のヒーローになっていく。
「でもな透、お前のとーちゃんだっていっぱい人助けしてんだぞ」
「お父さんが?お父さんはこうむいんだよ」
何度も言われた言葉を繰り返す透に、松田はフッと口元を緩めた。
「公務員にも色々あんの。お巡りさんだって公務員だからな」
「じんぺーもこうむいん?」
「そうそう。しかもお前のとーちゃんなんてな、国に命捧げたんかっつーレベルの正義オタクなんだぞ」
「ん…?」
言葉の意味がわからず透が首を傾げる。
それを見た松田はポリポリと頭を掻いてから、「デカくなったらわかるわ、多分」と適当にまとめた。
「そういえばじんぺー」
「ん?」
「じんぺーは結婚しないの?」
「あ?」
その時のじんぺーはちょっと怖かった、とのちに透は語る。
そして三ページ目に描かれたのは、爆弾のお化けと戦う松田の姿だった。
***
『だてさん』
そう書かれた四ページ目を見せると、伊達は厳つい顔に満面の笑みを浮かべて透の頭を撫でた。
「おーそうかそうか、好きなものか!嬉しいなこりゃあ」
柔らかい金髪をテーブル越しにワシワシと撫でつけられ、透は頭を揺らしながら「わっ、わっ」と声を漏らす。
その日は伊達が仕事の合間に会ってくれることになって、ナマエと透、伊達の三人で警視庁近くのファミレスを訪れていた。
「なんでも好きなもの食えよ」と言いながらニカッと笑う伊達に、透は遠慮なく好物のざるそばを注文する。
「相変わらず渋いな、好みが」
「和食好きは零譲りかな」
「ちがうよ、お父さんはうどん派だもん。ボクはそば派」
そうかそうかと快活に笑ってから、伊達は透の質問を促した。
「あのね、伊達さん。じんぺーが、伊達さんは丈夫だから絶対死なないって言ってたんだけど、それほんと?」
「ぶはっ、そんなこと言ったのかあの野郎」
「うん」
伊達は腕を組んで「うーん」と唸り、言葉を探す。
「まー色々修羅場もあったけどこうして生きてるしなあ」
「しゅらば?」
「危ないこともたくさんあったってことだ」
「ふーん」
体が大きく力も強い伊達が弱っている姿は、透にも想像できなかった。「じんぺー嘘ついてなかった」と透は納得した。
「その中の一回は、透のお母さんに助けられたんだぞ」
「え、伊達さんも?」
「おう」
ナマエが素手で車を止めたと聞いて隣の母を見上げるが、彼女は微笑むだけだった。
「お母さんって、やっぱり強いんだ」
「まあ強いわな。でも凄さで言ったらゼロ…、お前のお父さんも負けてねぇぞ」
「すごさ?」
「おう。俺は運動にも勉強にも自信がある方なんだが、お前のお父さんには一度も勝ったことがねぇんだ」
腕相撲も勝てない、と言い切った伊達に透は目を丸くした。
「ほ、ほんと…?伊達さんが?」
「あいつは人の皮をかぶったゴリラだぞ」
「え!?」
「伊達くん、透が信じてる」
「おっと悪ぃ」と伊達が片手を立てて謝るが、透の頭の中はゴリラでいっぱいだ。
なんとかゴリラを振り切って描いたのは、ページからはみ出しそうなほど大きな伊達の笑顔だった。
***
『きゅらそー』
透が目の前の女性をそう呼べるようになったのはごく最近だ。
それまでは髪や目の色から"白いお姉さん"と呼んでいて、最近ようやく滑舌が追いついてきたのだ。
「それで、透。私に質問って?」
「キュラソーはどんなお仕事してるの?」
「うーん…お巡りさんのお手伝い、かしら」
少し考えてから答えたキュラソーに、透は大きな目をさらに見開いた。
「おまわりさんがいっぱいだ!」
「え?」
透は好きなものノートを一ページ目からめくり、キュラソーに説明する。
「お父さんとヒロさんはこうむいんで、じんぺーと伊達さんはおまわりさん」
「…本当。いっぱいね」
これは話を逸らした方がいいのだろうかとキュラソーは考え、話題を変えた。
「透は大きくなったら何になりたいの?」
「ボク?ボクは……こうむいんかな」
「あら、そうなの」
うん、と透が頷いたところで、二人に留守番を任せていたナマエが帰ってくる。
「お母さん、おかえり!」
「ただいま」
ナマエは玄関でショートブーツを脱ぐと、リビングでノートを広げたままの二人に話しかけた。
「どう?透。お話聞けた?」
「キュラソーのお仕事聞いたよ」
「透の将来の夢も聞いたわ」
二人から返ってきた言葉にぱちりと目を瞬かせてから、ナマエが「透の夢」と繰り返す。
「この前は確か、陣平と一緒に爆弾倒すって言ってたけど」
「今はね、こうむいん」
「あれ、もう変わったの?」
子供の夢はすぐに変わるな、とナマエは可笑しそうに笑った。
「もう変えない。お父さんみたいになる」
「……お?」
「あら」
その力強い宣言に、二人は思わず口元に手を添える。
「お父さんいっぱい人助けしてるし、伊達さんよりすごいんだって。やっぱりお父さんが一番かっこいい」
「……それ、お父さんすっごく喜ぶと思う」
ナマエがふにゃりと目尻を下げてそう言うと、キュラソーも微笑みながら同意した。
ちなみにキュラソーのページには、「お巡りさんのお手伝い」から一周回って「お巡りさん姿のキュラソー」がでかでかと描かれた。
***
その後、好きなものノートはりんごや犬、仮面ヤイバーなど、透が好きだと思うもので見る見るうちに埋まっていった。
そして残った最後のページに、透が書き込んだのは『おとうさん』だ。
しかし書いたのはその文字だけで、肝心の似顔絵はなかなか描き始められなかった。描こうにも、その父本人となかなか話ができなかったからだ。
本当は二ページ目に描きたかった『おとうさん』だが、透の父である零は忙しく、まともな休日もない。
夜は透が寝てから帰ってくるのが当たり前だし、帰れない日も当たり前にある。朝、タイミングよく会えたと思ってもすぐに出て行ってしまうので、ゆっくり話すことなんてほとんどできなかった。
それでも透は零が大好きで、憧れだ。
話しかけて面倒臭そうにされたこともないし、「後で」と流されたことも一度だってない。限りある時間を大切に使おうとする零の優しさと愛情は、小さな透にもちゃんと伝わっていた。
だからこそ、透はちゃんと話をしてから絵を描きたかったのだ。
そしてその日、母と買い物に行って帰ってくると、透は玄関に揃えられた大きな靴に気が付いた。
「! お父さんだ!」
大慌てで靴を脱いで手を洗い、それからリビングに向かった透の目に飛び込んできたのは、予想通り大好きな父の姿だった。
「透、おかえり」
「お父さん!」
勢いよく飛びかかった透を、零は難なく受け止める。
「今日は夜まで一緒にいられるぞ」
「ほんと!?」
「ああ。僕のことをたくさん調べてくれるんだろ?」
そう言って微笑んだ零に、抱え上げられた透は「やった!」と興奮しきっていた。
これでようやく父と話ができるし、ノートも埋められる。
「よし、じゃあ早速上で遊ぶか」
「うん!」
ウキウキとした足取りで階段を上る透の背後で、零とナマエは笑い合いながら視線を交わしていた。
二階の子供部屋にはボールプールなどの遊具をはじめ、大量の絵本やおもちゃが置かれている。
透はそこでボールプール用の柔らかいボールを使い、零とキャッチボールをするのが好きだった。
「お、また力が強くなったんじゃないか?今のよかったぞ」
「お母さんにコツ教えてもらった」
なるほどな、と零が頷く。
どんな暴投をしても零が軽々キャッチするのが面白く、透はわざと明後日の方向に投げてみせることもあった。
「あ、こら。今のはわざとだな」
「お父さんすごい!」
「はは、このくらい訳ないさ」
透は今度こそ真っ直ぐ投げながら、そういえばと話し出す。
「お母さんもすごいんだよ。この前ね、悪者のスマホを海まで投げたの」
空に光って見えなくなるほど力強く投げ、「今のは東京湾まで飛んだね」と笑った母の姿が思い浮かんだ。
もちろん母は口止め済みだが、父と遊べて舞い上がっている透は完全に失念している。
「……それは不法投棄だな。説教しないと」
「え?」
「いや、なんでもない」
ニッコリ笑った零が、ふんわり山なりにボールを投げ返してくる。それを片手でキャッチすると、零が「上手だ」と満足げに頷いた。
調子に乗った透が回転投げや一本足投げなどオリジナルの投球フォームを編み出し始めたところで、零がふいに話題を変える。
「透。この前の参観日、桜の絵が上手に描けてたな」
「えっ、見に来たの?」
「行かなくても、僕には透のことがなんでもわかるんだ。他の子より力が強いのに誰も泣かせたことがないことも、うさぎの世話を頑張ってることも知ってる」
「すごい!どうしてわかるの?」
「透のお父さんだからな」
幼稚園に来ない零がそこで過ごす自分の姿を知っていることに、透は目をキラキラと輝かせた。
「お父さんすごい…スパイみたい!」
「んっ?」
零が笑顔のままピシリと凍り付く。
誰よりも早く情報を集め、全てを見通す諜報戦のスペシャリスト。やたらと描写が細かい子供向けスパイアニメを見たばかりの透は、父こそスパイではと期待に胸を膨らませた。
このままでは将来の夢が公務員からスパイに変わりそうな勢いである。
そしてそんな裏側を知るはずもない零は、強張った笑顔のまま「スパイでは…ないかな…」と曖昧な答えでお茶を濁すのだった。
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