02


自室のベッドで目を覚ましたナマエは、リビングから感じる気配に体を起こした。
部屋を出ると、カウンター越しに見慣れた金髪が見える。

「零、帰ってたんだ」
「ああ、おはよう。食べたら少し寝るよ」

どうやら帰宅早々朝食の準備をしてくれているらしい。久々に彼の料理が食べられると、ナマエは嬉しそうにキッチンを覗き込んだ。

彼が使っているお玉や菜箸は、先日伊達にもらったプレゼントに入っていたものだ。
カウンターには食後のコーヒー用に諸伏からもらったマグカップが用意されているし、ナマエが今着ているのも松田にもらったルームウェアだ。
ふふ、と笑いを零したナマエに、降谷がちらりと視線を寄越す。

「随分と機嫌がいいな」
「この前のこと思い出したの。楽しかったなって」
「ああ……あんなに飲んだの、何年ぶりだろ」

彼もまた思い出したようで、口元に笑みが浮かんだ。
あの飲み会は結局朝方まで続き、最後は全員フラフラだった。ナマエが三人を送って帰ってくると、降谷が珍しく床で寝落ちしていて驚いたものだ。

「早く次の誕生日来ないかな」
「はは、気が早いな」

ナマエの中で、毎年の誕生日に彼らを集めるのはすでに決定事項になっている。
彼女は三人と一緒にいる時の降谷が、どれほど自然体でどれほど楽しそうに過ごすかをもう知ってしまった。
その姿を見た彼女が二度目を待ち遠しく思うのも、また自然なことだった。




***




「あー、やっぱり美味しい」

着替えを済ませてテーブルに向かい合い、出来たての味噌汁を口に運んだナマエが幸せそうに唸る。
降谷はそれに「大袈裟だな」と小さく笑った。

「前に零が言ってた、作る側の人間は他の人の手料理が嬉しいってやつ。わかるようになったよ」

それは初めての料理を諸伏に振る舞うきっかけとなった安室のセリフだった。

「だろ?だから僕は君の料理がいつも嬉しいんだ」
「ふふ、そんな風に言われちゃうと手抜きできないなぁ」
「手抜きでもいいさ。君は充分頑張ってくれてるよ」

降谷の言葉にナマエの目尻がふにゃりと下がる。この男は本当に、欲しい言葉をよくわかっている。

「ナマエ」

ふいに、改まった様子で降谷が切り出す。

「実は君に頼みたいことがあるんだ」

眉根を寄せた険しい表情からは、本当は頼みたくないという本心が透けて見えた。つまり仕事関係だろう。

「なに?なんでも言って」

どんな頼みも受け入れ準備万端のナマエが、笑みを浮かべて次の言葉を待つ。すると降谷は「キュラソーを覚えているか」と彼女に問いかけた。
キュラソー、と口の中で転がして、ナマエが視線を上向ける。聞き覚えがあるような、ないような。

「以前、君が東都水族館の観覧車を蹴り倒したのがノックリストを守るためだったとヒロから聞いた」
「あーそれは確か、ノックリストの持ち主が観覧車に乗る子供たちを助けようとしてたからで……あ」
「ああ。そのノックリストの持ち主がキュラソーだ」

確かにそんな名前だった気がする、とナマエは頷いた。
そして厳密には、彼女はノックリストを持っていたのではなく記憶していたらしい。

「彼女から得た情報のおかげで組織の中核に迫れた。公安は彼女に戸籍と住居を与えた上で協力者として登録し、組織壊滅までの間、彼女を警護していたんだ」
「へえ」
「組織の件も片付いたから、彼女も監視の目を解かれて日常生活に戻れる……はずだったんだけど」
「なにか心配事でもあるの?」

ああ、とため息まじりに降谷は続ける。

「様子見に女性捜査官を向かわせても、会話をする気があまりないらしくて。外出も最低限だし、欲しい物も言わない。しかし協力者として登録した以上、公安は彼女の心身の健康に気を配る必要がある」

降谷はそこで、言いにくそうに一度言葉を切った。

「……彼女は以前、観覧車の一件で君に改めてお礼が言いたいと言っていたようだから、君になら普通に接するんじゃないかと思ったんだ」

ナマエは記憶を掘り起こし、あの日のキュラソーの様子を思い浮かべた。
腹に穴が空いた状態でも、子供たちを助けに向かおうとしていた彼女。そんな彼女が普通の人間らしい生活を送るにあたって、何か気がかりがあるのだとしたら、それは―――

「うん、わかった。行ってみるね」
「……ありがとう」

快諾したナマエに、降谷はまだ気まずそうな表情を浮かべている。ナマエが首を傾げると、彼は少し躊躇ってから口を開いた。

「その、ごめん。キュラソーが君にお礼を言いたがってると聞いたのに、僕のところで話を止めてたから」
「組織の件から遠ざけておきたかったんでしょう?わかってるよ」
「え、ああ……」

間髪入れず返したナマエの言葉に、降谷が目を瞬かせる。彼の優しさを知るナマエが、優しさ故に隠していたことを責めるはずもない。

「本当にナマエには敵わないな……あ、ご飯温め直してくる」
「ううん、このままでいい。美味しいよ」

すっかり冷めてしまった味噌汁を相変わらず美味しそうに飲むナマエに、降谷は眉尻を下げて「ありがとう」と笑った。




***




朝食後、降谷から聞いた住所をマップアプリで表示させながら、ナマエは早速キュラソーの住むマンションへと向かった。
そして辿り着いたのは、小綺麗な単身用のマンションだった。

部屋番号を確認してから、ドア横のインターホンを鳴らす。
少ししてガチャリと開いたドアから顔を覗かせたキュラソーに、ナマエは笑いかけた。

「久しぶり。私のこと覚えてる?」

問いかけられたキュラソーは、その神秘的なオッドアイをぱちりと瞬かせる。

「…ええ、もちろん覚えてるわ」
「それはよかった。早速だけど、ちょっと私と出かけない?」
「出かける?」
「うん。あなたを連れて行きたいところがあるの」

そう言うとキュラソーは数秒沈黙した後で、「準備するわ」と少しだけ表情を緩めた。



準備を終えたキュラソーと歩き出すと、彼女は早速観覧車の件を切り出した。

「あの時はありがとう。おかげで子供たちは怪我もなかったって聞いたわ」
「どういたしまして」
「足は大丈夫だったの?」
「私、頑丈だから」

そう言って笑ってみせると、彼女もまた「いいことね」と小さく笑う。

「それで、どこに向かってるの?」
「駅だよ。私、電車乗ったことなくて。一度乗ってみたかったの」
「…言えた義理じゃないけど、あなたも大概変わってるわね」
「ふふ、よく言われる」

キュラソーを抱えて高所を走るのは簡単だが、せっかくだからゆっくり話しながら向かうのもいい。そう思ったナマエは、彼女と二人で駅へと向かった。
駅に着いてからはキュラソーに切符の買い方や改札の通り方を教えてもらいつつ、いちいち静かに感動しながらホームに立つ。

「ここに立ってると目の前にドアが来るの?すごい運転技術だね」
「今まで疑問に思ったこともなかったわ」

キョロキョロしながら目を輝かせるナマエにもすっかり慣れたようで、キュラソーはその都度律儀に返してくれる。

平日の午前中、通勤ラッシュをとうに過ぎた時間帯ということもあってホームの人影はまばらだ。
そしてその中で、やけにふらつきながら歩く一人の男に二人は目を留めた。
体調が優れないのか顔色が悪く、今にも倒れ込みそうな頼りない足取りだ。

「!」

その時、男の膝がガクリと折れ、そのままホームの端から足を踏み外した。
このままでは線路に落下するとキュラソーが足に力を籠めた次の瞬間、隣のナマエが一瞬掻き消え、その次の瞬間には男を抱えて元の場所に立っていた。

「え、あなた今……」
「えっと…この場合どうすればいいの?」

ナマエはベンチに男を座らせ、キュラソーに問いかける。ハッとしたキュラソーが駅員を呼び、駆け付けた駅員がぐったりした男を見て救急車を手配した。
ナマエとキュラソーは男が救急隊員に運ばれていくところまで見届けて、次の電車を待つべく再びホームに立った。

「相変わらず人助けしてるのね。感心だわ」
「うーん…あの頃は人助けしてたとは言えないかな。取引でしか動かなかったから」
「今は違うの?」
「今は……警察が少しでも暇になればいいと思ってる、かな」

ふっと小さく吹き出したキュラソーが、「なにそれ」と可笑しそうに目を細めた。

「壮大な夢ね」
「動機はそうでもないよ。ただ、大切な人との時間が欲しいだけだから」

その言葉に一瞬きょとんとした表情を浮かべたキュラソーだったが、一拍置いて「なるほど」と頷く。
ナマエが彼女の視線を追うと、自身の左手薬指に輝く婚約指輪へと辿り着いた。

そこに電車が到着し、二人で乗り込む。座席は空いていたが二人とも座らず、吊り革を掴んでドア付近に立った。
そして電車が動き出したところで、キュラソーがおもむろに口を開く。

「警察官で、私に会いに来るようにあなたに言える人間ね。私が知っている人だと風見っていう眼鏡の彼と、あとはバーボンだった彼くらいだわ」
「風見さんではないよ」
「それ、もう答えよ」

ふふ、と笑うキュラソーにつられてナマエも笑う。

「素敵な指輪ね」
「ありがとう。外に出る時は必ず身に着けるようにって言われてるの」
「あら、そんなに独占欲が強い男だとは思わなかったわ」

独占欲?と首を傾げたナマエに、キュラソーが答える。

「あなたに他の男が近づかないように、牽制してるのよ」

言葉の意味を飲み込んで、ナマエの目尻がじわりと赤く染まった。「そうなのかな」とぽつりと呟くナマエをキュラソーは意外そうに見つめる。

「あなたも心配だったら何か贈ったら?半返しっていう文化もあるみたいだし」

心配とは、降谷に他の女が近づいたら、という心配だろうか。試しに想像してみて、ナマエは胸の辺りがぎゅっと締め付けられるように痛むのを感じた。

「………検討します」

思わず俯いたナマエの耳に、キュラソーの微かな笑い声が届いた。




***




「米花町……初めて来たわ」
「私も久しぶりに来た」

米花町で電車を降りた二人は、町並みを眺めながら歩道を進む。天気もよく、近くの公園からは子供たちの笑い声が聞こえてくる。
ナマエがその公園に足を踏み入れると、キュラソーもまたその後ろをついてきた。

「あっ!」

ベンチに座ってゲーム機のようなものを覗き込んでいた三人のうち、カチューシャをつけた少女が顔を上げてナマエに気付く。

「コナン君のお友達のお姉さんだ!」

その声につられて傍らの少年二人も顔を上げ、そのうちそばかすの少年が同じように「あっ」と声を上げた。そういえば、体格のいい少年とは初対面だ。

「こんにちは。今日はみんなのお友達を連れてきたの」

そう言ってナマエが体をずらすと、呆然とした様子で立ち尽くしているキュラソーが彼らの視界に映る。

「あ!水族館の時のお姉さん!」
「わー!お久しぶりです!」
「あの時の姉ちゃんじゃねーか!」

口々に騒ぎながら、三人はキュラソーを囲むように駆け寄った。

「あ……」
「今日は一緒に遊べるんですか!?」
「みんなでサッカーしようよ!歩美ボール持ってくるー!」
「あっ、待ってください歩美ちゃん!」
「オレ、博士んとこから姉ちゃんの分もオヤツもらってくるな!ここで待ってろよ!」

怒涛の勢いでまくし立てたかと思ったら、また勢いよく散っていく子供たちにナマエが思わず吹き出した。

「ふふっ、相変わらず元気な子たちだね」
「……まさか、あの子たちに会わせに?」

うん、と頷きながら、ナマエは彼らが走り去った方向を見つめる。

「キュラソーがいなかったら、私があの観覧車に手を出すことはなかった。間違いなく、あの子たちを助けたのはキュラソーだよ」
「………」
「組織ももうないんだし…友達同士、会うのを躊躇う理由はないんじゃない?」
「……でも、私は」

キュラソーの目は戸惑うように揺れている。組織の一員として生きてきた自分に後ろめたさがあるのだろう。

「あの子たちは何も知らないし、知らせる必要もない。でもまぁ…最低限健康的で人間らしい生活ができてないと、子供のお手本にはなれないよね」

そう言って笑ってみせると、キュラソーは諦めたようにため息をついた。

「……そうね」
「あの子たちが戻ってきたら、記憶が戻ったことも教えてあげなきゃ。きっと喜ぶよ」
「ええ。まずは自己紹介をするわ」

そう言う彼女の表情は晴れやかで、どこまでも穏やかだった。


prevnext

back