03


キュラソーの様子がおかしい、と彼女は思った。

彼女の所属は警視庁公安部。風見の下につく捜査官の一人だ。
公安に配属されたのはほんの数ヶ月前で、警察学校時代の同期である諸伏と二人で組むことが多い。

そんな彼女は貴重な女性捜査官として、配属早々犯罪組織の元幹部でもある協力者、キュラソーの管理を一任されていた。
しかしキュラソーは警戒心が強く言葉数も少なく、その心の内を明かさない。協力を要請されれば応じるが、風見とも必要最低限の会話しか交わしていないようだった。
外出するのはせいぜい食料品や日用品の買い出し程度で、自宅も物がほとんどなく生活感が窺えなかった。

キュラソーの精神面を懸念した彼女は、上司である風見に相談した。
そしてその次にキュラソーのもとを訪れた時―――なんとその雰囲気と生活ぶりが一変していた。

「免許?」
「ええ。新しい戸籍になってから持っていなかったから、免許が欲しいわ。それから安物で構わないから車も」

聞くと、どうやら友人たちを乗せて出かけたいらしい。友人なんていたのか?と彼女は驚きを隠せない。

「協力者としての報酬だけじゃ賄いきれないから…申し訳ないけどお願いできるかしら」
「も、もちろんです。上司にそう伝えます」

これは誰だ。そう思ってしまった彼女を責められる者はいないだろう。
キュラソーの態度は以前とは比べ物にならないほど柔らかく、まるで別人のようだった。

「あの……前回ここに来てから今日までの間に、何があったんでしょうか?」

思わずそう問いかけると、キュラソーはそのオッドアイを瞬かせて、それから柔らかく細めた。

「会えずにいた子たちに会えて、新しい友達もできたの。ようやくちゃんと生きていこうと思えたわ」

その表情からはかつての鋭さも、昏さも窺えない。
それを見た彼女は風見に相談してよかったと、上司の手腕に尊敬の念を抱くのだった。




***




「新しい友達か。ナマエのことかな」
「ナマエ?」

翌日、運転席に座る諸伏に前日の出来事を報告した彼女は、そこで飛び出した名前に首を傾げた。

「それって、たまに現場に介入してる…?」
「ああ、それは証拠がないからなんとも言えないんだけど……まぁそうだな」

脳裏に浮かぶのは、「降谷さん、きっとまたナマエさんです」と慌てた様子で電話する上司の姿だ。公安に配属されて数ヶ月のうちに幾度か目にした光景である。

ちなみに降谷とは彼女や諸伏の同期で、現在はゼロに配属されているエリート捜査官だ。彼女は接触できる立場にないが、風見や諸伏と行動を共にする中で遠目に見かけたことはある。
そして警察学校時代から密かに憧れ続けている存在でもあった。

「キュラソーとは東都水族館の件で一回会ってるはずだし、他の人間よりは接しやすいと思ったんじゃないかな」
「……そのナマエっていう人、何者なの?」
「あー、うん。なんて説明したらいいかな」

ハンドルを握る諸伏が困った様子で頭を掻く。

「あ、降谷はわかるよな?」
「えっ、あ、もちろん」
「これは降谷も隠してないし、届け出もしてるから言っていいと思うんだけど」

進行方向を見つめながら、諸伏の口元が弧を描いた。

「ナマエは降谷の婚約者なんだよ」

婚約者。言葉の意味を理解した瞬間に、彼女の思考は真っ白に染まった。

「最近指輪のお返しに腕時計もらったみたいでさー、こないだめちゃくちゃ嬉しそうに自慢されたよ」

あいつナマエにベタ惚れだから、と楽しげに話す声がどこか遠くに聞こえる。

降谷零に婚約者?警察学校時代の硬派な姿しか知らない彼女には想像すらできない。
彼にいつか追いつきたくて、できることならその隣に立ちたくてここまで頑張ってきたのに、その原動力だった淡い恋心が一瞬にして打ち砕かれた気がした。―――もっともそんなのは、降谷には迷惑極まりない感情なのだろうが。

「―――さん?」
「あっ、ううん…そうなんだ……」

ハッと現実に引き戻される。
というか婚約者なのはわかったが、婚約者が現場に介入するとはどういう状況だろう。

ナマエという人物は上司である風見が困惑するほど、いつも完璧に現場を制圧して公安に花を持たせてくれる。証拠は何一つ残っていないらしいが、捜査官の間ではすっかり助っ人として定着してしまっていた。
それが降谷の婚約者?何者だと聞いてその答えを得たはずなのに、余計に意味がわからなくなってしまったじゃないか。

「あの子ちょっと特殊だからキュラソーとも話が合うと思うし……あっ」

ふいに諸伏の声色が鋭くなり、彼女はその視線の先を追った。少し先の区画から、濛々と黒煙が上がっている。火事だろうか。

「ごめん、しっかり掴まってて!」
「了解!」

後は警視庁に戻るだけだった車体を脇道に滑り込ませ、諸伏が煙の出所に向けてハンドルを切る。
人通りのない細い路地を走行し、やがて現場付近の通りに出た。

「あそこだ」

通り沿いの民家から火の手が上がり、少し離れたところにはすでに大勢の野次馬が集まっている。消防車も到着しているが、火の勢いが強すぎて放水が追いつかないようだった。
離れた場所に車を停め、二人は人混みをかき分けて現場に向かう。

「諸伏君、中にまだ人がいるみたい!」
「!」

野次馬の中に、炎に向かって手を伸ばしながら泣き叫ぶ女性を見つける。どうやら子供が二人取り残されているらしい。

「応援を待ってる暇はないな。オレが行くよ」
「え?あっ、待って!」

二人が放水中の消防隊員に声をかけようと駆け寄ったところで、民家の玄関ドアがバンッと弾け飛んだ。
そして二人の横を一陣の風が吹き抜けたかと思うと、それを追いかけるように炎が勢いよく噴き出した。―――バックドラフトだ。

「わっ」

咄嗟に両腕で顔を覆うが、炎はまだ遠いというのに熱がここまで届いてくる。こうなってしまっては中の人間の生存は絶望的だろう。

「ナマエ!?」

完全に諦めかけた彼女の耳に、驚いたような諸伏の声が届く。それにハッと顔を上げ、背後を振り向いている彼の視線の先を追う。
そこに立っていたのは、二人の子供を抱えた長身の女性だった。

「あ、ヒロ。いたんだ」

場違いなほど穏やかに微笑んだ女性が、泣き叫んでいた母親と思しき女性に子供を手渡す。それから一言二言交わして、何度も頭を下げる母親や子供たちに手を振ってからこちらに向き直った。

「仕事中?お疲れ様」
「いや、もう終わって戻るところ。……じゃなくて!」
「ね、見て。せっかく陣平が買ってくれたのに焦げちゃった」
「松田もわかってくれると思うよ。…って、そうじゃなくて!…あーいや、もういいや」

女性のマイペースぶりに諦めたらしい諸伏が肩を落とす。女性は焦げてしまったコートの裾を残念そうに見つめていた。

(この人が、ナマエ……)

熱風に揺らめく長い黒髪と、同じく黒い瞳。馴染みのある色彩なのに、作り物のように整った容貌が日本人離れした雰囲気を漂わせている。
この女性がたびたび現場に介入しては公安の手助けをしているナマエという人物で、そして降谷零の婚約者でもあるらしい。

ふとナマエが目線を上げ、こちらに向かってふっと微笑んだ。見惚れていたことに気づかれたかと、思わずドキリとする。

「あなたもお巡りさん?」
「あ……」
「オレやゼロと警察学校で同期だった人だよ。今はオレと同じ所属」

代わりに紹介してくれた諸伏に、ナマエが長い睫毛に縁取られた瞳をぱちりと瞬かせ、それから嬉しそうに笑みを深めた。

「そうなんだ。じゃあ陣平や伊達くんも知ってる?」
「え、あ、はい……」

陣平とは松田のことだろうし、伊達は彼らの班長だ。咄嗟に頷いた彼女に、ナマエが近づいてその手を取った。

「えっ」
「また同期の人に会えて嬉しいな。私はナマエ=ゾルディック。これからもヒロや零をよろしくね」

間近で見る美しい笑顔に思わず頬に朱が―――走りそうになって、違和感に「ん?」と首を傾げる。

「ゾルディック…?」
「うん。じゃあヒロ、また連絡するね」
「えっ、ナマエ!?」

諸伏が呼び止めようとするが、ナマエは手を振りながら背を向けてしまう。
その存在感が急激に希薄になったような気がして彼女は目を擦るが、次に目を開けたときにはもうその姿は見えなかった。

「まったく…相変わらず神出鬼没だな。じゃあ、オレらも行こうか」

現場では未だ放水が続いているが、逃げ遅れた人ももういないようだし、間もなく応援も到着するはずだ。ここにいてもできることはないだろうと諸伏が促す。

「あの…諸伏君。ゾルディックって」
「あーそれなぁ。あの子、身内と判断すると簡単に名乗るからな」

どう説明しようか考えているのだろう。諸伏は困ったように頭を掻いている。
その姿を見ながら、彼女は上手く働かない頭で無理矢理思考を巡らせた。

公安の仕事を一人であっさり奪えるほどの実力者で、人形のように整った美貌の持ち主。そして燃え盛る炎の中から無傷で人を救出する手腕。
何より、彼女が名乗った「ゾルディック」というファミリーネーム。

彼女は自身が失恋したばかりということも忘れて、少女のように胸を高鳴らせた。

「えっと……ハンターハンターっていう漫画、知ってる?」
「つまりあの人は本物のナマエ=ゾルディックっていうこと?」

食い気味に問いかけた彼女に、諸伏は目を丸くして「うおっ」と体を仰け反らせる。

「いや、まぁそうなんだけど……理解早すぎない?」
「逆トリしてきたの?」
「えっ?なんて?」

聞き馴染みのない単語に諸伏が聞き返すが、彼女は構わずに続けた。

「つまり降谷君のところに、ナマエ=ゾルディックが逆トリしてきたってことだよね?」

逆トリ…?なんの逆…?
ピンとこない諸伏が首を傾げながら「ナマエと最初に会ったのは多分オレだけど」と返す。
すると彼女は「えっ!?」と目を剥いた。

「諸伏君のところに逆トリしてきたナマエ=ゾルディックが、降谷君と結婚するの!?」

どうやら余計に衝撃を与える情報だったらしい。結局諸伏は、車に戻ってナマエとの出会いを一から説明する羽目になってしまった。
状況がわからないが、要するにまたナマエのファン…のようなものが誕生したということなのだろう、と諸伏は遠い目をする。

「相変わらず罪深いぞ、ナマエさん……」

頭を抱えた諸伏の呟きは、逆トリとやらについて熱く語る同僚に届くことはなかった。
しかし彼女が語る逆トリのセオリーである「別れ」や「悲恋」はあの二人には当てはまらない。ナマエに帰る当てはなく、だからこそ二人は家族となる道を選んだのだから。

(しかも、確実に世界最強の夫婦だしなぁ)

ナマエの強さにばかり目が行きがちだが、降谷も大概ゴリラだし、言うまでもなく優秀な男だ。あの二人なら、悲しみが訪れる前に原因から根こそぎ排除しそうである。

想像して思わず吹き出しながら、諸伏は今度こそ警視庁に車を走らせた。


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