本編後IF(前編)
深夜、降谷家の寝室は闇に包まれ、透の寝息だけが微かに聞こえている。
父親である零はこの日も仕事のため不在にしており、寝室にいるのは透とナマエのみだ。
睡眠時のナマエは特に気を張るでもなく熟睡しているが、それはどれだけ深い眠りについていてもわずかな変化に反応できるからに他ならない。
そんなナマエが音もなく飛び起きたのは、寝室の時計が午前二時を指したのとほぼ同時だった。
彼女は眠る透を守るようにして姿勢を低くし、寝室のある一点をじっと見つめる。
そこには闇が広がるだけで、ほんのわずかな気配の揺らぎすらありはしない。
それでもナマエには、そこに"何"がいるのかがよくわかっていた。
「出ておいで」
暗闇に話しかけるナマエの声は穏やかで優しい。しかしそこには微塵の油断も見受けられない。
彼女は殺意も敵意も抱いてはいないが、この世界においてはおよそ不釣り合いなほどに強く警戒していた。
「……どうしたの?」
再び優しく問いかけたナマエに応えるように、暗闇から多数の何かが高速で飛来する。
ナマエはそれを具現化したナイフで危なげなく弾きながら、ここでようやくじわりと殺気を滲ませた。
飛んできた物のほとんどが、背後で静かに眠る透を狙っていたからだ。
ナマエは手にしていた小ぶりなダガーナイフを消すと、刃渡りの長いコンバットナイフを具現化してすっと目を細める。
「……ねえ、次にこの子を狙ったら殺すよ」
イルミ、とナマエがその名を呼ぶと、暗闇からするりと溶け出すように長髪の男が姿を現した。
「あーよかった。鈍ってないみたいで」
零と同程度の長身に、猫を思わせる大きな黒い瞳。
ニコリともせず無表情のまま話すその男は、確かにナマエの弟であるイルミ=ゾルディックだった。
「久しぶり、姉さん」
よっ、と言わんばかりに片手を上げたイルミに、ナマエは応えず殺気を漂わせる。
それに少しの間沈黙してから、イルミは「つれないなぁ」と手を下ろした。
そして下ろした手で指差したのは、ナマエの背後にあるベッドの膨らみだ。
「ねえ、"それ"何?」
無遠慮な指の先には、何も知らずに眠る透がいた。
「私の息子」
「へえ、そうなんだ」
感心したように返すイルミを、ナマエは微動だにせずじっと見つめている。
瞬き一つしないイルミの瞳と視線が絡むこと数秒。ようやく不穏な空気を霧散させたイルミが、仕方ないと言いたげに肩を竦めた。
「わかったわかった、手は出さない。それよりせっかく来たんだから相手してよ」
お土産もあるよ、とイルミが取り出したのはレザーケースに収まった一本のナイフだ。
ナマエはそれに視線を向けてから短くため息をつくと、具現化していたナイフを消して殺気をしまった。
「…飲み物くらいは出すけど、その前に針全部拾って」
ベッド周辺にはイルミが投げつけた無数の針が落ちている。
イルミはその言葉に、表情筋を一ミリたりとも動かさないまま「げ」と呟いた。
***
「あ、中期のちょっと癖強めのやつだ」
「会えたら渡せって親父が」
「本当?嬉しいな」
イルミをダイニングチェアに座らせ、電気ケトルでお湯を沸かしながらナマエが手にしているのは一本のベンズナイフだ。
お土産として手渡されたこれは、どうやら父が持たせたものらしい。
喜ぶナマエだったが、もちろん殺傷能力が高すぎるのでこちらでは鑑賞用一択だ。
沸いたお湯でコーヒーを淹れてイルミに差し出すと、彼はそれをまじまじと見つめた。
「まさか姉さんにコーヒーを淹れてもらう日が来るとはね」
「粉にお湯注いだだけのインスタントだよ」
「オレ、お湯の沸かし方知らないけど」
「だよね。私も知らなかった」
ふふ、と笑いながらナマエもイルミの正面に腰掛ける。
「それで、どうやって来たの?」
「ちょうど都合のいい能力者見つけてさ」
そう言ってイルミは左手の甲をナマエに見せた。"凝"をすればそこには「23」の文字が浮かんで見える。
イルミの説明によると、今回の訪問は対象として設定した人物のもとへ人を飛ばすことができる特質系念能力によるものらしい。
飛んだ後は対象から半径100メートル以上離れることはできず、滞在時間は一律24時間。時間経過後は強制的に帰還させられるそうだ。
特定の人物まで飛ぶというと、確かグリードアイランドに似たようなカードがあったな、とナマエはすっかりおぼろげになった記憶を掘り起こした。
「世界まで越えるなんて優秀だね」
「世界?」
どうやらそこには気付いていないらしいイルミに、ここが元いた場所とは別の世界であることを話す。
念能力者がいないことやハンターハンターという漫画の存在まで説明すれば、彼は家族にしかわからない程度に目を丸くして「へえ」と反応してみせた。
ちなみにここへ来た能力は一度に一人しか飛ばせず、発動後はランダムでインターバルが必要となる。
そのため物は試しと、ちょうど手の空いていたイルミに白羽の矢が立ったらしい。
「もう十年近く経つのか。姉さんは変わらないね」
「イルミもね」
「子供がいるってことは結婚したの?」
「うん。……あ、そうだ」
ナマエはスマートフォンを取り出すと、仕事中の零に電話をかける。
コール音が数回鳴って途切れるが、時間が時間なだけに零の声にはどこか心配そうな響きがあった。
『もしもし。どうした、何かあったか?』
「うん、仕事中にごめんね」
ナマエは目の前でコーヒーを飲む弟に視線を向ける。
「なんか、イルミが来ちゃって」
電話の向こうでガタガタッと物音がしたかと思うと、『え?』といつになく戸惑った様子の声が聞こえた。
***
零が帰ってきたのは、それから三時間後のことだった。
電話ではしっかり動揺していたのに、帰宅時にはそれをおくびにも出さず、普段通りの表情でイルミに握手を求めていたのはさすがとしか言いようがない。
「午前二時……あと二十時間ちょっとか」
零には見えていないが、イルミの左手の甲に浮かぶ数字は確かに「20」になっている。
「うん。イルミ、朝ご飯食べたら一緒に出掛ける?」
「まあ他にすることもないし。案内してよ」
いいよ、と答えながらナマエがキッチンに立つ。
するとスーツから着替えた零が「僕がやるよ」とそれを制した。
「せっかく久しぶりに会えたんだ。ゆっくりしててくれ」
そう言ってエプロンを着ける零に、イルミが感心したように頷く。
「へえ。いい奴だね、零って」
「でしょう?」
弟に夫を褒められ、ナマエは嬉しそうに頬を緩めた。
「あ、ナマエ。着替えるなら僕の服好きに使っていいから」
「着替え?」
「ああ。イルミのその格好じゃ目立つだろ」
そういえば彼はこちらでは有名人だ。
納得したナマエはイルミを零の自室に連れていき、適当な服を見繕って着替えさせた。
零と身長も足の長さもさほど変わらないし、サイズも問題なさそうだ。
「わ、似合うね、イルミ」
「そう?」
白いVネックのカットソーに、黒のテーラードジャケット。足元にはトーンを抑えたグレンチェックのパンツを合わせれば、長身を引き立たせるモノトーンカジュアルの完成だ。
コーディネートには合わないかもしれないが、念のためキャップも借りてダイニングに戻る。
「髪結んであげるから、そこ座って」
サラサラとした長髪もイルミの特徴であり、外では目立つ要素の一つだろう。
ダイニングチェアに彼を座らせたナマエは、その長い髪を後頭部で一まとめにした。
「姉さんに結んでもらうなんて初めてだ」
「ふふ、確かにね」
普通の姉弟のようなことは何一つやってこなかった二人だ。
三十路を超えてから弟の髪を結ぶことになるとは、なんとも言えない新鮮みがある。
そうこうしているうちに朝食の準備ができ、零が透を起こしに行く。
そして目を擦りながら起きてきた透は、ダイニングにいる見知らぬ男に目を見開いた。
「……えっ?」
「透、おはよう。この人はお母さんの弟で、透のおじさんだよ」
「やあ、よろしく」
無表情のままヒラヒラと手を振るイルミに、透は灰青色の瞳をまんまるにして驚いている。
「お…おじ……?」
「ああ、イルミでいいよ。オレも透って呼ぶから」
「イルミ……さん」
透にとっては初めて会う親戚だ。
彼はパチパチと目を瞬かせてから、その目をきらりと輝かせた。
「遊びに来たの?」
「うん、まあね」
寝ている透に殺気混じりの針を飛ばしたことなどすでに忘れてイルミは頷く。
「みんな揃ったし、朝食にしよう。透も顔を洗っておいで」
「はーい!」
零に促され、透は普段の数倍元気よく洗面所に駆けていった。
その間に食卓に並ぶのは、ナマエにとってはすっかり見慣れた和朝食だ。イルミは「これは?」「あれは?」と早速零を質問攻めにしている。
全員揃って「いただきます」と手を合わせれば、元も含めてゾルディックが二人混ざっているとは思えないほど和やかな朝食風景となった。
「零、これまだある?」
「ああ、あるよ。気に入ったのか?」
「美味しい。あとで作り方書いて」
そしてそれを使用人に渡すのだろう。
イルミが何度もおかわりしているのは、この家では零くらいしかおかわりしないセロリのきんぴらだ。
セロリの魅力が伝わったのが嬉しいようで零も機嫌がいい。
「イルミは今日の夜までいるから、幼稚園から帰ったらいっぱい遊んでもらおうね」
ナマエがそう言うと、透は頬を興奮気味に紅潮させて「うん!」と頷いた。
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