04


「ただいまー」

日付が変わるギリギリの時間。
疲れ果てた降谷が二日ぶりに帰宅すると、部屋にはまだ煌々と電気が点いていた。

「おかえりー」

ナマエの声がくぐもって聞こえる。どうやら入浴中らしい。
本庁を出る前に連絡を入れておいたので、キッチンにはいつでも温められる状態で夕食が準備されている。

降谷はネクタイを外して上着を脱いでから、左手首の腕時計を外した。
シンプルでオンオフ問わず合わせやすいそれは、婚約指輪のお返しとしてナマエから贈られたものだ。

―――外ではなるべく着けててね。理由は多分、零と同じだから。

指輪に比べれば牽制として弱いが、彼女なりにいつも身に着けていられるものを一生懸命考えてくれたんだろう。
恥ずかしそうに手渡してきた彼女の姿を思い出すと、思わず口元が緩んでしまう。

腕時計を定位置に置いてリビングを見渡せば、壁際には大きなダンボールが鎮座していて、ローテーブルの下には一冊のノートが落ちているのが見えた。

なんとなく気になって、降谷はテーブル下のノートを拾う。
ナマエはひらがなとカタカナこそ読めるが、漢字はまだまだ微妙だ。そして書く方は全くできないので、ノートをどう使っているのか疑問に思ったのだ。

「!」

表紙をめくると、一ページ目に「ナマエ」という字がいくつも並んでいて驚いた。書く機会もないしスマホもあるし、なんて言っていたのに、こっそり練習していたらしい。
下にはアルファベットで書いた名前もあって、何度も書いては消した痕跡に努力の跡が窺えた。

単純明快なハンター文字で育ってきた彼女にとって、この世界の文字はさぞ難しいことだろう。
微笑ましく思った降谷がふっと笑みを零し、次のページをめくる。そしてそこにあった文字の羅列に、降谷は雷が落ちたような衝撃を覚えた。

(……こ、これは…!)

ノートを持つ手に思わず力が入る。
そこに書かれていたのは「ふるや」「フルヤ」「Furuya」「降谷」―――つまり彼女がこれから名乗ることになる姓だった。
二人で決めた入籍日を間近に控え、新しい氏名を自分で書けるよう練習していたようだ。

降谷は咄嗟に取り出したスマートフォンでそのページを撮影した。万一見たことがバレて、この可愛すぎる代物を証拠隠滅されてしまっては困る。
無事に激写した降谷はノートを元の位置に戻し、そっと息を吐いた。どうしよう、ときめいた。

降谷は疲れの残る足取りで脱衣所に向かい、入浴中のナマエに声をかける。

「ナマエ、もう出るのか?」
「ん?んー、さっき入ったからもうちょっと浸かりたいな。先にご飯食べててくれる?」

どうやら降谷が早く風呂に入りたいのだと思ったらしい。まあ、あながち間違ってはいない。
降谷はワイシャツを脱ぎ、続いて靴下を脱ぎながら再び口を開いた。

「僕も入っていいか?」
「えっ!?」
「実はかなり疲れてて……早く湯船に浸かりたいんだ」
「えっ、あの、じゃあ私……」

ザバッと水音が聞こえる。慌てて出ようとしているようだ。降谷はスラックスのベルトを引き抜き、ホックに手をかける。

「いや、そのままでいいよ。一緒に入ろう」
「え、えっ、ちょっ」

脱ぎ終えた降谷が答えを待たずにドアに触れると、またザブンと水音が聞こえた。
ドアを開ければ、咄嗟に湯船に戻ったらしいナマエの姿が靄の向こうに見えた。顔を両手で覆って、首筋まで真っ赤に染めている。
降谷の裸なんてもう何度も見ているのに、相変わらずの照れようだった。

正直言って長身の男女二人で同じ浴槽に浸かるのは窮屈すぎるだろうが、そこはまあ、貴重な癒しのために我慢してもらおう。
そんなことを考えながら、降谷は笑顔でドアを閉めた。




***




「あれ、届いたんだな」
「……うん、夕方に」

すっかり疲れの取れた表情で、風呂上がりの肌を輝かせながら食事を取る降谷が、リビングの隅に置かれたダンボールを見る。
一方のナマエは乾ききらない髪を一つにまとめ、向かい側で疲れ切った様子で頬杖をついている。げんなりした表情だが、その頬はまだほのかに紅潮していた。

「じゃあ明日、ヒロ連れてくるから」

何時になるかはわからないけど。そう続けた降谷にナマエが力なく頷いた。

「予定もないし、何時でも大丈夫だよ」

答えながらもなかなか目が合わない彼女に、降谷が苦笑する。こうして拗ねる姿を見れるのも自分の特権ではあるが。

「ナマエ、さっきはごめん。意地悪しすぎた」
「……別に」
「機嫌直してくれないか?今日はせっかく一緒に寝れるんだし」

二人が一緒に寝られるのは、こうしてタイミングが合った時くらいだ。これを逃せば次はいつになるかわからない。
それはナマエもよくわかっているのか、拗ねた表情のまま沈黙した。

「それとも、別々の方がいいか?」

答えをわかっている降谷が、あえてそう聞く。するとナマエは頬杖をやめて、据わった目で降谷を睨みつけた。―――頬が赤いままなので迫力はないが。

「……一緒に寝る」

案の定そう答えたナマエに降谷が満足そうに笑う。これ以上拗ねさせないよう、寝る時は大人しくしていよう。そう考えた降谷だったが、まあ正直自信はなかった。




***




「えっ、字の練習?」
「ああ。しかも僕の苗字なんて可愛いだろ」
「羨ましすぎる……オレナマエの字なんて見たことないんだけど」

エレベーターで上階に向かう降谷と諸伏の手には、様々な機材の入ったケースやバッグが提げられている。
スーツ姿に大荷物という異様な風体も、深夜ということもあり人目につくことはない。

「画像に残しといた」
「さすがゼロ。抜け目ない」

後で見せてな、と諸伏が言ったところでエレベーターの上昇が止まり、目当ての階に到着した。
エレベーターを降り、自宅のドアの前に立った降谷が鍵を取り出す。

「遅くなっちゃったな。ナマエ起きてる?」
「さっきメール来たから起きてるはず」

小声で話しながら鍵穴に差し込み、ガチャンと音を立てて解錠した。内開きのドアを開けば案の定電気は点いている。

「ただいま」
「お邪魔しまーす」

声をかけながらドアを閉め、靴を脱ぐ。
するとリビングへと繋がるドアが開き、「おかえり」という声とともにナマエが姿を現した。

「!」
「えっ」
「見て見て。零が言ってた通り、これが一番生地が綺麗」

嬉しそうに微笑んで、その場でくるりと回ってみせる。彼女の動きに合わせて白い布地がふわりと揺れた。

ナマエがその身に纏っているのは手配しておいたウエディングドレスだ。胸元からすとんと落ちる上品なエンパイアラインが彼女の背の高さを引き立て、惜しげもなく晒されたデコルテが眩しい。
長い黒髪は右サイドに流されていて、白い首筋が露わになっていた。

「……控えめに言って女神かな?」
「これは同意せざるを得ない…」

二人は大きく頷いた。

「ふふ、ビックリした?早く着たくて我慢できなかったの」

零のも準備できてるよ、とナマエはリビングに戻る。
二人がそれに続くと、掃き出し窓のカーテンレールに四つのハンガーが引っ掛けられていた。二着はタキシードで、残る二着はデザインの異なる純白のドレスだ。

「よし、じゃあオレはカメラ準備しちゃお」
「僕も着替えるか」

降谷は白とネイビーのタキシードのうち、白いタキシードを手に取って自室に向かう。

今日は二人のウエディングフォトを撮影しようと、かねてから予定していた日だ。
ドレス姿が見たいという男二人のリクエストを、ナマエが快諾したことで実現したのだ。
降谷の顔は写せないものの、降谷と諸伏、そしてナマエが一着ずつ選んだ三着のドレスを彼女に着せられるだけで彼らは満足だった。

「ねえ、ヒロってメイクできる?あと髪も」
「一応一通り借りてきたけど、素人だから期待するなよ」
「やった」

ソファやローテーブルをどかして機材のセッティングを終えた諸伏が、ナマエをダイニングチェアに座らせる。
そこに着替え終わった降谷が出てきて、ナマエはその姿に目を奪われた。
純白のジャケットからはグレーのベストが覗き、ベストより濃いチャコールグレーのネクタイが全体を引き締めている。彼の派手な容姿も相まって、モノトーンなのにどこか華やかな印象だ。

それを見たナマエが、ため息まじりに「格好いい…」と呟く。
ポケットチーフをセットしていた降谷がその声を聞き取り、ふっと柔らかく微笑んだ。

「光栄だな」
「写真に残せないの、もったいないね」
「君を残せれば僕は充分だけど」

その言葉にナマエは「うっ」と目尻を赤く染めた。この男は本当に、そういうことをサラッと言う。

諸伏はナマエの髪を右サイドで緩く編み込むと、白い花の髪飾りをそこに散らした。そして残った一つを降谷のポケットチーフに添え、「おそろい」と笑う。
メイクはベースと口紅程度にして、最後に長い睫毛をホットビューラーで軽くカールさせた。

「うーん。こんな感じか?」
「上手いな、ヒロ」
「実は動画で勉強してきた。さて、撮るか」

リビングの白い壁を背景に二人が並び立つ。
降谷の顔を器用にフレームから外しつつ、構図を変えながら何度もシャッターを切った。

「あ、あれ撮ろう。お姫様抱っこ」
「えっ」

諸伏の提案にナマエが瞠目する。降谷は「了解」と躊躇いなく彼女を抱き上げた。

「ナマエ。目線こっちー」
「ちょ、ちょっと待って」

咄嗟に顔を覆ってしまった両手をおそるおそる外すと、眦を柔らかくした降谷がナマエを優しく見つめている。それを見た彼女はまた両手を戻した。

「こら、ナマエ」

叱りながらも降谷の声にはどこか楽しそうな色がある。ナマエは自分の手のひらに向かって数回深呼吸をし、ようやくそれを外してカメラを見た。

「うん、いい感じだよ二人とも」

シャッターを切りながら諸伏が笑う。
その後もドレスやタキシードを着替えながら撮り続けていれば、数時間後にはさすがにタフな二人にも疲れが滲み始めた。

「こんなもんかな。なんだかんだで300枚近く撮ったんじゃないか?」
「一生分撮ったな」
「はー、疲れた」

諸伏が機材を片付け始めるのに合わせて、ナマエと降谷もまた着替えのために自室へと引っ込む。
そしてナマエがドレスをばさりと脱ぎ捨てたところで、ベッドの上に置いていたスマートフォンが着信を告げた。

(……あれ?ヒロ?)

それはリビングにいるはずの諸伏からのメールだった。件名はなく、本文は『ゼロには内緒な』の一文のみ。
ナマエは首を傾げながら添付されていたファイルを開いた。

「あ」

思わず声が出たナマエの視線の先には、お姫様抱っこをされながら照れくさそうに笑うナマエと、それを優しく見つめる降谷の姿がある。
それを見ながら、ナマエはじわじわと口元が緩んでいくのを感じた。

(ありがとう、ヒロ)

立場上写真に写れない降谷の姿を送ってくれたのは、諸伏がナマエというセキュリティシステムを信頼してくれたからに他ならない。これは命に代えても守らなくては。
ナマエは嬉しさのあまり顔をほころばせ、スマートフォンを胸元で抱き締めた。


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