05


例によって深夜、日付が変わるギリギリの時間にナマエと降谷は連れ立って区役所を訪れ、夜間窓口に婚姻届を提出した。

「こういうのって次の日の受理になるの?」
「いや、不備がなければ提出日だよ」
「ふーん」

ということはもう夫婦になったのか。いざなってみると大した実感もないな、と思いつつ、ナマエは降谷とともに駐車場に向かう。

駐車場には灯りもなく、ほのかな月明かりだけが頼りない光源だった。
広い駐車場の端にぽつんと白い車が停まっていて、降谷が助手席側のドアを開ける。

「ありがとう」

この流れるようなエスコートにも、すっかり慣れてしまった。
お礼を言って乗り込んだナマエが降谷を見上げると、いつもすぐにドアを閉めるはずの彼はまだそこにいた。

「零?―――ん」

長身を屈めた彼が助手席の背もたれに左手をつき、覆い被さるようにしてそっと唇を触れ合わせてくる。
下唇を甘く食まれ、薄く開いた隙間にぬるりと舌が入り込んできた。

「!」

こんな、誰が来るともわからないところで。
ナマエが彼の胸元を押し返そうと上げた左手が、大きな手にぱしりと捕まった。

「ん、ふ……っ、ん!?」

手首を掴む手がするりと上に滑り、薬指に着けていた婚約指輪を抜き去っていく。
なんで、と咎めようとしたナマエの舌が集中しろと言わんばかりにじゅっと吸い上げられ、彼女はピクリと体を跳ねさせた。
続けざまに上顎の弱いところを厚い舌でゆっくりとなぞられ、背筋に走った甘い痺れに力が抜ける。は、と合間に息を吸うのがやっとだった。

解放された左手で降谷の上着をぎゅっと掴むと、なぜか彼が優しい手つきでそれを外す。

―――さっきから、なんなの。

息も絶え絶えに口内を蹂躙されながら、ナマエは霞がかった頭の隅でツッコんだ。

すると指先に硬いものが触れ、先程抜き取られた指輪が着け直されるのがわかる。それから終わりを知らせるように舌先が音を立てて軽く吸われ、ようやく唇が離れていった。

「っ……なに…?」

呼吸を整えながら非難めいた視線を向けると、降谷は楽しげに笑った。
そして彼が体を起こすのと同時に背もたれについていた左手も離れていき―――そこが一瞬きらりと光るのが見えてナマエは「あっ」と声を上げる。

慌てて自身の左手を確認すると、そこには見慣れた婚約指輪と、その下に重ねづけされたもう一つの指輪が存在を主張していた。

「今日、仕事の合間に受け取ってきたんだ」

それはオーダーしておいた結婚指輪だった。降谷の左手薬指にも全く同じデザインのものが着けられていて、曇りのないプラチナが白い輝きを放っている。一体いつの間に着けたのか。

降谷はその左手でナマエの左手を掬い取り、指先で指輪をなぞると柔らかく微笑んだ。

「帰ろうか、奥さん」

月を背にしたその笑みに一瞬見惚れてから、ナマエは顔にじわりと熱が上るのを感じた。
ペラペラの紙切れなんかより、彼の一言の方がよっぽど実感をくれる。

「……うん」

緩んだ顔で笑い返した後で、ナマエはかろうじて「でも演出が過剰」とツッコんだ。




***




自動ドアを抜け、銀行を後にしたナマエは明るく照りつける太陽に目を細める。
それから手元の通帳に目を落とし、そこに印字された名前に笑みを零した。

(降谷ナマエ、かぁ……ふふ)

名義変更の手続きをし、新しい氏名が印字されたそれが妙に特別なもののように思える。
ナマエはそれを肩に提げたトートバッグに大切そうにしまった。

(でも身分証はどうしようかな)

手続きの際、ナマエは具現化して名前の部分をいじった免許証を提示した。しかし言うまでもなく彼女は無免許だ。
降谷、もとい零も彼女がそうやって具現化した免許証を利用することに何も言わないが、警察官の妻となった人間がこれからもこんなことでいいのだろうか。
もっと言えば高所移動の際にビルの屋上を通り抜けるのも建造物侵入だし、対外的にバレていないだけで犯罪のオンパレードである。

(……ま、いっか)

基本的に面倒臭いことが嫌いな彼女は、言われてから考えようと思考を放棄した。「バレなければいい」という考えはいまだ彼女の根底にあるのだった。

その時、銀行に隣接したホテルの駐車場から猛スピードで車が駆け抜けていった。
危うく対向車線に飛び出しかけたのをすんでのところで回避したそれが、あっという間に遠ざかっていく。

何をそんなに急いでいるのかと思ったところで、それを追いかけるようにホテルから飛び出してきた人物がいた。

「くそっ、間に合わねー!」

息を切らしながら焦ったように叫ぶのは、度々メディアを騒がせている高校生探偵だ。

「新一くん?」
「…あっ、ナマエさん!」

振り向いた新一がナマエを認めて目を輝かせた。それからナマエに向かって両手をバッと差し出した彼は、何かに気付いたように「あっ」と声を漏らして固まった。

「ん?……ああ」

行動の意味がわかってしまったナマエが、意地の悪い笑みを浮かべる。どうやら彼はコナンの時の癖で、無意識に"抱っこ"を要求してしまったらしい。
"絶"をしたナマエが距離を詰めて新一を担ぎ上げ、見えなくなった車を追いかける。

「小学生も高校生も、大して変わらないよ」
「い、いや…今のは忘れてほしい…切実に」

肩に軽々と担がれながら、新一は力なく項垂れている。ナマエからは見えないが、おそらく羞恥に顔を赤く染めているのだろう。
ナマエはふふっと笑って、「それであの車がどうしたの?」と問いかけた。

「それが……」

新一は声のトーンを落とし、苦々しげに話し出した。

どうやらあの車には爆弾が積まれていて、運転手はこのまま警視庁に突っ込むつもりらしい。実行直前に気付いた新一が自爆テロを未然に防ごうと奮闘したが、振り切られてしまったようだ。

「ふーん。運転も荒かったし、ちょっとやそっとの振動じゃ爆発しないよね?」
「え?ああ、まあ水銀レバー付きではないと思うけど」
「タイマーは?」
「ないだろーな」

犯人の動機に興味はないし、それだけ聞ければ充分だ。
視線の先に件の車を捉えたところで、ナマエは新一を降ろしてバッグを託し、「避難誘導と通報だけよろしく」と言い残して再び地面を蹴った。

追いついたナマエは車の上に着地すると、運転席側のドアをメリッとむしり取る。そして揃えた両足で運転手を蹴りつけながら侵入し、見よう見まねでブレーキを踏んでサイドブレーキを引き、車を止めた。

「……はっ?」

蹴られた勢いで助手席側に倒れ込んでいた男が、何が起こったのかわからないという顔で目を丸くしている。
ナマエはそれに優しく笑いかけてから男の胸倉を掴んで引きずり、"円"と"発"と"隠"を同時に展開しつつ車を降りた。

今回、"発"によって生成したドームは車をギリギリ覆う程度の極小サイズだ。同時に"隠"でオーラを隠しているので、具現化した上空の刃物もドームもナマエ以外には見えていない。

ナマエは混乱した様子の男を先にドームから放り投げ、すぐ近くに人や車がないことを確認してから自らもそこを離れる。

直後、地響きのような音を立てながら車が潰れ、ひしゃげ、無数の穴が空き、やがて轟音とともに爆発した。
しかしその爆風も爆炎もドームの中に留められ、外に漏れることはない。
そして刃物が全て落ち終わったところで、パチンと風船のような音を立ててドームが弾ける。と同時に、中に溜め込まれていた煙や炎が辺りに噴き出した。

ナマエは爆風でバサバサと暴れる髪を押さえながら、周囲を見渡す。
さほど威力の強い爆弾ではなかったようで、数台の車が爆風に煽られた程度で済んだようだ。

新一が駆け寄ってくるのを視界の端に捉えながら、ナマエはへたり込んだ男の目の前に立って両手を宙空にかざす。
瞬時に具現化された手袋が両手を覆い、同時に数本の結束バンドが手の中に現れた。

「じゃ、拘束しますね」

楽しげに笑うナマエを、男は青褪めた表情で見上げていた。




***




「お礼、本当にこれだけでいいのかよ?」

新一の問いかけに、ナマエはご馳走された缶コーヒーを口に運びながら「いいのいいの」と答える。

「警視庁に突っ込まれたら私も困るし」
「…まあ、それもそうか」

二人の視線の先では爆散した車体の回収や、現場検証が行われている。
結局ナマエは男を追跡したのも自爆テロを未然に防いだのも、最終的に男を拘束したのも新一ということにして、聴取など面倒なことは全て彼に丸投げした。
それを面倒がらずに快諾してくれた辺りが彼の目立ちたがり屋たる所以だろう。

「そういえばナマエさんって刃物以外も具現化できるのか?」
「手袋と結束バンドはわりと最近だね。指紋残したくないし、手早く拘束したいから」
「……やっぱり、公安の助っ人ってナマエさんだよな」

その言葉にナマエがきょとんとした表情で首を傾げる。

「風見さんにでも会った?」
「他の現場で」
「ふーん。でもそこは一応否定しておこうかな。警察や探偵らしく、ちゃんと証拠を突きつけてもらわないと」

ふふ、と笑うナマエに、新一が半目で彼女を見た。

「相変わらずの暗躍体質だよな……」
「ありがとう」
「褒めてねーっての」

呆れたように呟いた新一が、ふと「あ」と零す。

「もしかして籍入れた?降谷さんと」

彼の視線の先にあるのは重ねづけされた二本の指輪だ。

「昨日ね」
「へー、おめでとう」

嬉しそうに祝福してくれた新一に、ナマエもまた笑顔で「ありがとう」と返した。

「その婚約指輪、最初から重ねづけ前提で選んだんだろうな」
「え、そうなの?」
「ああ、多分ブランドもシリーズも同じだと思うぜ」

へえ、とさすがの観察眼に感心する。
二本の厚みが、ここの意匠が、と細かく分析する新一にナマエもまたうんうんと頷きながらそれを聞いた。
結婚指輪はこれがいいと零が提案してきたものを採用したので、ナマエも詳しくは知らなかった。

「結婚指輪ができたら婚約指輪は外すパターンが多いって聞くけど……外させる気がないんだろうな、コレ」

その言葉に、ナマエはキュラソーに言われたことを思い出す。
それが零の独占欲によるものなら、彼女が嬉しく思わないはずがなかった。

「ふふ…そんなこと聞いちゃったら、外す気もなくなるね」

空になった缶を自販機横のゴミ箱に捨て、ナマエが「さて」と切り出す。

「私は帰るよ」
「今日はありがとう、ナマエさん」
「どういたしまして。新一くんも蘭ちゃんと仲良くね」

途端にボッと赤面した新一に笑いかけて、ナマエはその場を離れた。
ずっと"絶"をしたままでいたので、新一の目にはナマエが急激に存在感をなくしていくように見えたことだろう。

そのまま建造物侵入上等で近くのビルを駆け上がり、相変わらず明るく照らす太陽に目を細める。
左手を持ち上げて眺めれば、陽光を浴びたダイヤがいつも以上に美しく輝いて見えた。


prevnext

back