15
東都水族館の一件から一夜明けて、降谷は浅い睡眠から覚醒した。
体を起こすと、隣の布団ではナマエがまだ眠っている。それを起こさないようベッドから下りて、身支度と朝食の準備を済ませた。
(今日はポアロと、その後に本庁か)
登庁したら昨日の報告書を作成しなくては。
一日のスケジュールを確認したところで、和室から衣擦れの音がした。ナマエが起きたのだろう。ドアを開けると、体を起こした彼女の後ろ姿が見える。
「ナマエ、おはよう」
その背中に声をかけるが、返事がない。俯いているようにも見えるので、まだ寝ぼけているのだろうか。
「ナマエ?」
話しかけながら正面に回り込んで、降谷は瞠目した。
「おい……大丈夫か?」
ゆっくり顔を上げた彼女と視線が絡む。
「顔、真っ赤だぞ」
ナマエの顔は見たこともないほど紅潮していて、開き切らない目には涙の膜が張っているようにも見えた。
「……れい」
ぽつりと漏れた声はひどく掠れていて、いつになくか細い。
「…悪い、ちょっと触る」
一言断って触れた額は驚くほど熱く、しっとりと汗ばんでいた。呼吸も浅く、吐息すら熱い。
慌てて体温計で体温を測れば、ピピッという電子音とともにかなり高い数値が表示された。
「これは、病院に行った方がいいな」
彼女の戸籍はすでに作成済みだし、保険証もある。時期的に風邪の可能性が高いだろうが、万一ということもあるだろう。
しかし彼女は緩慢な動きで首を振った。
「……病院、嫌なのか?」
こく、と頷く。
「でもな…僕はこれからポアロだし」
そう言うと、彼女の瞳が小さく揺れる。体調が悪いと孤独感を覚えるというし、一人になるのが寂しいのだろうか。
(風見でも呼ぶか…?)
面識はない上に彼女を住まわせていることを知らせていないので、相当驚かれるだろうが。
まぁ彼なら大丈夫だろう、と降谷が部下に対して無責任なことを考えたところで、ナマエが彼の服をきゅ、と掴んだ。
「ん?」
「………」
口元が小さく動いている。降谷が耳元を近づけると、彼女は「一人で大丈夫」と枯れた声で言った。
降谷には、こうなった原因に心当たりがないわけではない。
彼女は昨日タンクトップ一枚だったし、帰りの車内でくしゃみもしていた。その時は降谷自身Tシャツ一枚だったので服を貸すこともできず、なおかつ彼女は首都高のカーチェイスで傷ついた車体を直しておきたいと、修理を済ませてから帰宅したのだ。
つまり、降谷は少し責任を感じていた。
「ナマエ、僕の部下を呼ぼうか。信頼のおける男だし面倒見もいい」
ナマエはゆっくりと首を振る。それから口元が小さく「めいわく」と動いたのがわかった。
どうやら自分の体調不良で周囲を動かしてしまうことに引け目を感じるらしい。
降谷としては、むしろこれだけガラッと環境が変わって、よくここまで風邪一つ引かずに過ごせたものだと感心すらしていたのだが。
「……ちょっと待っててくれ」
横になっているように言い残して和室を出る。取り出したのは安室名義のスマートフォンだ。
『もしもし、安室さん?』
電話をかけた先は梓だった。
「梓さん、おはようございます」
『おはようございます。どうかしたんですか?』
「あの、実はナマエが熱を出してしまって…」
そう告げると、電話の向こうで梓が『えっ』と声を上げた。
『大丈夫なんですか!?』
「それが結構しんどそうで…できればついていてあげたいんですが」
遠慮がちに言う安室に、梓は大きく『もちろんです!』と答える。
『今日はマスターもいるので、ナマエさんについていてあげてください』
「いいんですか?よかった。ありがとうございます」
それから一言二言交わして電話を切り、和室に戻る。横になっているよう伝えたはずだが、ナマエはそのままの体勢でぼんやりしていた。
正面に回り、「ナマエ」と声をかける。
「ポアロ、休んできたから。昼過ぎには登庁するけど、それまではここにいられる」
顔を上げたナマエは、困ったようにへにゃりと眉尻を下げた。
「迷惑なんかじゃないから、気にしないでくれ」
唇をぎゅっと引き結んでしまった彼女を見て、どうすれば遠慮しないでいてくれるのだろうかと降谷は思案する。
(……ああ、そうだ)
いつかナマエがしてくれたことを思い出した降谷は、その頭を優しく抱え込んだ。彼女の肩がピクッと小さく跳ねる。
「よしよし」
自分と似ているようで少し違う、サラサラの金髪を撫でる。ナマエが抵抗する様子はない。
「我慢しなくていい。ここは君の居場所でもあるからな」
等価交換で与えた居場所ではあるが、降谷にとって二人での生活はすっかり日常と化している。
おずおずと手を上げたナマエが、降谷のシャツをそっと掴んだ。
「一人じゃない。大丈夫だ」
柔らかい金髪に頬を寄せたまま、「よしよし」と撫で続ける。彼女が小さく頷いたのを肩の辺りに感じて、降谷はふっと笑みを零した。
***
「それじゃ行ってくるけど…薬で熱を下げただけだから無理はするなよ」
「ん」
朝と昼の二回、6時間空けて解熱剤を飲んだナマエは、ひとまず微熱程度にまで回復していた。
声は相変わらず枯れているが、食欲は少し出てきたようでお粥なら食べられる。
頷いたナマエを見て目元を柔らかく緩めた降谷が、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「行ってきます」
彼が出ていくのを見送って、ナマエは撫でられたところに手を触れる。
(…零って、あんな感じだったっけ)
いつもより距離感が近いというか、なんというか。
体調が悪いからといって甘えすぎただろうか…?と首を傾げながらも、ナマエの心中は穏やかだった。
和室に戻り、布団にぱたりと倒れ込む。思い出すのは、彼がくれた言葉だ。
(一人じゃないって、嬉しいなぁ)
ナマエはこの世界に来てから、人との繋がりを希薄に感じていた。ここで生きていくと覚悟しても、どこか壁を一枚隔てたところから世界を見ている自覚があったのだ。
降谷の言葉を何度も何度も反芻して、ナマエはだらしなく頬を緩めた。
それから鼻先まで布団をかぶり、スマートフォンで最新のニュースを確認する。
「あ」
目に留まったのは、ナマエもよく知る人物の記事だ。
(快斗くん、予告状出したんだ)
予告の日時は一週間後で、狙うは鈴木財閥が所有する「プリンセス・ブルー」と呼ばれるティアラだ。
鈴木財閥の相談役である鈴木次郎吉からの誘いに乗る形で出された予告状らしい。
動画のURLをタップすると、朝流れたらしいニュースの動画が再生される。
『…鈴木財閥の所有する「プリンセス・ブルー」は、ふんだんに散りばめられたダイヤモンドの中央に大粒のアウイナイトが埋め込まれた逸品で……』
アウイナイト、とナマエが繰り返す。
それはかつて、ロイが彼女の瞳に例えた宝石の名だった。
『希少性の高いアウイナイトは0.1カラットに満たないものが一般的で、今回のティアラに使われている5カラットのアウイナイトは世界的に見ても前代未聞の……』
紹介された画像には、コバルトブルーの宝石が埋め込まれた豪奢なティアラが映っていた。
(……綺麗)
目を引くのはセンターにあしらわれた大粒のアウイナイトだが、全体にバランスよく散りばめられた小粒のそれもダイヤと上手く引き立て合っている。
これが自分の瞳に似ているとは、ナマエにはどうしても思えない。それでもその鮮やかな青に、ナマエの視線はすっかり釘付けになっていた。
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