25


「む、やはりフルヤ殿!」

これは夢だ。降谷は瞬時に判断した。
彼の目の前ににゅっと現れた男の顔は、彼自身氷像や人形で幾度となく目にしたことがあった。

「先日の働きは見事でございました。いや、これで軍属でないというのが惜しまれますな!」

眼前の筋骨隆々とした男は、まるで自分のことのように誇らしげに語る。
身長は降谷と同程度なのに、そのはち切れんばかりの肉体が彼を巨漢たらしめていた。

「おや、我輩としたことがこれは失敬。大佐の元へ向かわれるところでしたか」

大佐、と降谷が繰り返そうとするが、言葉にならない。
どうやらこの夢では言葉を発することができないらしい。自分の夢だというのに不便なものだ。

「大佐でしたら執務室でしょう。場所はもうお分かりですな」

わからない、と返したい降谷だったが、「では我輩はこれで!」と去っていく男を見送った後、自分の足が勝手に動き出すのを感じた。
どうやら夢の中の降谷は自分の行くべきところをわかっているらしい。

執務室と思われるドアの前に立ったところで、中から話し声が聞こえてノックしようとした手を止める。

「こちらにもお目通し願います、ミョウジ大佐」
「持って来るなら一度にまとめてくれない?」
「まぁそうおっしゃらず」

大体さぁ…とブツブツ呟くのは、降谷もよく知った声だった。
降谷がそのままの体勢でいると、ドアに近づく気配を感じて体が勝手に横にずれる。

「それでは失礼します」

ピシッと敬礼してからドアを閉めた男が、そこに立つ降谷に気付いた。

「ああ、これはフルヤ殿。大佐にご用でしたか」

私は行きますので、どうぞお入りください。そう言いながら降谷に軽く会釈し、男が立ち去っていく。

再びドアの前に立った降谷は、今後は躊躇うことなく三回ノックした。

「どうぞ」

ドア越しに聞こえるのは、紛れもなく彼女の声だ。
耳に届いたそれに色々な思いが過ぎる降谷だったが、夢の中の降谷は一拍も待ってはくれなかった。

ドアを開くと、書類の積まれたデスクに向かう彼女の姿が見える。

言いたいことが山ほどあるのに声が出ない。すぐに駆け寄りたいのに、自分の意思では足も動かせない。
そんな降谷のもどかしさを知ってか知らずか、書類に視線を落としていた彼女の顔が上がる。

「あ」

いつか降谷が間近で眺めた、コバルトブルーの瞳が彼を捉える。

「零!」

嬉しそうに彼女が笑う。花がほころぶようなそれに、降谷は胸が締め付けられるような鈍い痛みを覚えた。

「来てたんだ」

立ち上がった彼女が、こちらに駆け寄ってくる。
それを目線で追うが、不意にその光景が遠ざかるような錯覚を覚えて、降谷は焦った。

「    」

視界がぐにゃりと揺らぎ、彼女の言葉も聞こえなくなる。視界の端から白く染まり、やがて彼女の姿も白く塗り潰される。
待ってくれ。まだ、何も――




***




目を覚ました降谷は、自分が天井に向かって手を伸ばしているのに気付いて嘆息した。

(夢でまで、僕は何を……)

その手で前髪をクシャッと握り締めてから体を起こす。素肌に掛けていた布団が滑り落ちていった。

右側を見下ろしても、彼女の眠る布団はない。それだけで部屋がずいぶんと広く感じる。

彼女が消えて一週間が経った。
もう二人分の朝食を準備する必要もない。彼女と住む前のように服を着ずに寝ることだってできるし、何日家を空けようが何も心配事はない。

気楽な一人暮らしに戻っただけなのに、どうしてこんなにも気が重いのだろう。



「安室さーん、外の掃き掃除お願いできますか?」
「あっはい、わかりました」

客足がまばらになった平日夕方。箒と塵取りを手に店外に出た安室は、店前の落ち葉や砂利を掃き集める。

「あのー、すみません」

声をかけられ、「はい?」と体を起こすと、そこにいたのは学ラン姿の男子高校生だった。その顔は安室の記憶にはない。

「安室さんですよね?」
「そうですが…」

これ、と差し出されたのは一枚の封筒だ。それは真っ白で、見える面には何も書かれていない。

「渡してくれって頼まれたんで」
「え?頼まれたって、誰に…」
「ちゃんと読んであげてくださいね。じゃっ!」

少年は質問には答えず背を向けてしまった。
少し離れたところで待っていたらしい女子高生が「用事終わったの?」と話しかけ、彼がそれに「おー」と返しながら並んで歩いていくのが見える。

受け取った封筒を裏返してみるが、そこにも何も書かれていない。安室はそれを二つに折ってからポケットに仕舞い、掃き掃除を再開した。




***




帰宅して着替えようとしたところで、ポケットに入れたままだった封筒の存在を思い出す。
ダイニングチェアに座り、降谷はその中身を検めた。
中には折り畳まれた紙が入っているだけだった。厚さ的に枚数は三枚ほどだろうか。

それを取り出して開いた降谷は、まず目に飛び込んだ『零へ』という二文字に瞠目した。
こんな手紙を書けるのは彼女しかいない。

『零へ これは私がもしいなくなった場合に、あなたに届けてもらうよう友人に託したものです。彼には一週間ほど様子を見てと伝えてあるので、今はもう月末かな』

(友人…あの少年か。いつの間に…)

降谷がナマエの書く文字を目にするのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
スマートフォンを与えてからはもっぱらメールだったし、記憶にあるのは降谷が作った五十音表を片手にひらがなの練習をする姿や、漢字辞書を見ながら書き取りをしている姿だ。

彼女らしくお手本をそのまま覚えたらしいその字体は、印刷のように綺麗な漢字と、降谷の字によく似たひらがなで構成されている。

(……感謝の言葉ばっかりだな)

文章は降谷の車に落ちた日に彼が彼女を拾ったことと、不自由ない衣食住を与えたことへの感謝から始まっていた。
それから、一人じゃないと言われて嬉しかったこと。その言葉のおかげで、この世界にいていいのだと思えたこと。ナマエは降谷が与えたあらゆることに感謝していた。

その後には、能力と知識の全てを降谷のために使うと言いながら、あまり役立てた気がしないとも書かれている。

(愛車はいつも新車同様だったし、無茶ぶりにもかなり応えてもらったが)

つい最近、部屋までずいぶん綺麗になってしまった。立つ鳥跡を濁さずとは言うが、跡を清めすぎだろう。

彼女はこれから自分がどうなるかわからないと書いていた。もしかしたら二度と会えないかもしれないし、何事もなく戻れるかもしれないと。それならこの手紙も無駄になるね、と冗談っぽく続けている。
彼女が何をしたのかは知らないが、降谷には全然笑えなかった。

(…事前に相談くらいできないのか)

何も言わなかったということは、降谷にはどうにもできない問題ということだ。それはわかっているのに、思わず心の中で毒づいてしまう。

最後の一枚は、なぜか豆知識や雑学で埋め尽くされていた。山のように本を読んだ彼女は、そこで得た知識を降谷に少しでも残しておきたいらしい。

「……ふ、」

思わず小さく笑みが零れた。残念だ。全部知ってる。

手紙を持ってキッチンに向かった降谷は、缶詰の空き容器をシンクに置き、その中に手紙を破り入れた。

(…バカだな。こんな機密情報だらけの手紙、残しておけるわけがないだろう)

小さく千切られた手紙にライターで火をつける。
灯された炎が紙片の上を踊り、見る見るうちに黒い炭に姿を変えていく。

彼女がこの世界で生きた痕跡が消えていくのを、降谷はただ見つめていた。


prevnext

back