26
それから降谷は、ナマエを知る人に彼女は国に帰ったのだと報告した。
惜しむ声も、寂しがる声も多かった。
それだけ彼女は、知らず知らずのうちにこの町に馴染んでいたのだろう。
「よし、綺麗にしてやるからな」
馴染みのコイン洗車場で、愛車を隅々まで丁寧に洗う。こうやって手作業で車を洗うのも、久しぶりのことだった。
彼女が錬金術であっという間に新車同様にしてしまったのも、その瞬間だけ見れば簡単そうに見えた。それでもそこに至るまでにどれだけの本や雑誌を読み込み、構造を調べ、検証していたのかを降谷は知っている。
車が汚れるたび、傷つくたび、壊れるたびに、彼女がすぐに直してくれた。
そしてそれを見た降谷が嬉しそうに笑うのを、満足げな表情で見守るのだ。
(本当に、いい拾い物だった)
有用な能力を持ち、科学者としての知性と高い身体能力を兼ね備えた元軍人。行く宛てがなく、基本的に従順なのも都合がよかった。
あんなに理想的な境遇の「協力者」には、もうお目にかかれないだろう。
そこまで考えて、降谷は車を洗う手を止めた。
(…俯瞰することにこだわり過ぎるのは僕の悪い癖だな)
客観的に見れば、彼女は単に都合がいいだけの協力者だ。使い勝手がよく、捨てやすい。
でも自分にとって、本当に彼女はそれだけの存在だったのだろうか。
それだけの相手なら、設定通り他に部屋を借りてそこに突っ込んでおけばよかったのに。
(僕は……。いや、やめよう。もう会うこともないんだ)
思考の海に沈みそうになるのを頭を振って誤魔化し、車体の泡を洗い流す。
彼女が消えて、すでに一ヶ月が経とうとしていた。
***
その日、安室は一人でポアロの買い出しに出ていた。買うものが少量のため、やってきたのは近所のスーパーだ。
食料品売場をまわり、梓に頼まれたものを次々にカゴに入れていく。そして赤ワインをカゴに入れたところで、ふとその手が止まった。
ワインの隣はウイスキーのコーナーだ。
バーボンとスコッチを飲み比べながら、バーボンが好きだと笑う顔が思い浮かぶ。
(…もう一ヶ月だぞ。そろそろ忘れろ)
ご丁寧にもウイスキーコーナーにはおすすめのつまみとしてチョコレートやドライフルーツまで陳列されていて、彼の記憶を刺激した。
(勘弁してくれ)
晩酌をした日、突然抱き着いてきた彼女はすでに姿を消すことを決めてたのだろうか。その答えさえ、もう確かめようがない。
会計と袋詰めを済ませ、ポアロへの道を歩きながら安室は長いため息を吐く。
一ヶ月もあれば、人は慣れる。
生活リズムもすっかり彼女が来る前のものに戻ったし、彼女が残した服や化粧品も全て処分した。初期化されたスマートフォンも解約して、彼女のことを思い出す機会も減った。夢を見たのだってあの一回きりだ。
それなのに、ふとした瞬間に蘇る記憶に翻弄されている自分が、どうしようもなく情けなくて仕方ない。
ポアロに着くと、安室は店のドアが開け放たれているのに気づいた。換気でもしているのだろか。
店中に入ると梓の明るく弾んだ声が聞こえてくる。
店内の客が全て帰ったところで買い出しに出たはずだが、その後来客があったらしい。
「……たんですね、ナマエさん!」
聞こえた名前に、安室は弾かれたように顔を上げた。
入口から少し入ったところで、こちらに背を向けて梓と話しているのは長身の女性だ。髪は金髪だが、安室と同じくらいの短さに切り揃えられている。
安室は手に持っていた買い物袋を床に落とした。調味料やワインが耳障りな音を立て、それに気づいた女性が振り返る。
「…あ、とお―――」
言葉は最後まで続かなかった。
強く腕を引かれた女性が、安室の腕の中で「えっ?」と小さく声を漏らす。抜け出そうともがくのを力任せに押さえ込んで、安室は長いため息をついた。
「…透?」
ナマエが窺うように名前を呼ぶ。彼女と話していた梓も、息を呑んでこちらを見つめているのがわかる。
安室はもう一つため息をついてから、その場を誤魔化すために彼女から離れた。
「あっ、すみません…久しぶりに会ったので感極まっちゃって」
言いたいことは山ほどあるが、今は仕事中だ。後で覚悟してろよと向けた視線の先で、ナマエがビクッと肩を跳ねさせた。
***
「わっ、全部なくなってる」
ナマエを連れて帰った自宅マンションで、彼女は和室の収納を見てどこか可笑しそうに声を上げた。
「さすがに一ヶ月だからな。全部処分した」
「だよねぇ」
彼女が賢者の石を壊そうとしていたということは、車内で聞いた。それでまた真理の扉を開いてしまったことも。肝心の賢者の石は自力で壊すことはできなかったが、行き帰りの通行料として使われたらしい。
それでもまだ疑問は残っている。
「…向こうに帰れるチャンスだったんじゃないのか」
カーテンを開けて外の景色を見ながら、どこか懐かしそうに目を細めていたナマエがこちらを見る。
「真理にね、一つお願いをしたの」
「お願い?」
うん、と彼女が頷く。
「私の銀時計をロイに届けてほしいって」
そう言いながら、彼女は短くなった自分の髪を撫でた。
「あれが届けば、私が別の場所で生きていることもロイに伝わるはずだから」
ロイが人体錬成をしてしまうかもしれないと、真理に煽られたのだと彼女は言っていた。それを防ぎたかったのだろう。でもそれだけでは質問の答えになっていない。
「質問の答えは?」
「ああ…向こうに帰らないのかってやつね…えっと」
ナマエは言いにくそうに口ごもった。
「うーん…それはまぁ…今の私の居場所はここだって思ったからなんだけど…」
ダメだった?と、ナマエが不安げに降谷を見上げる。それを聞いた降谷は、どこか足りなかったものが満たされていくのを感じていた。
「……ダメじゃない」
ぶっきらぼうな言い方になったが、ナマエは嬉しそうに笑った。
「ところでその髪はどうしたんだ」
長かった金髪が、降谷と同じくらいまで短くなってしまっている。
「ああ、これね。真理に持ってかれたの」
「は?」
「銀時計を向こうに送る対価として。これだけで済んでよかったよ、ほんと」
時計送るだけで目とか腕とか取られちゃたまんないもんねー、とナマエは軽く笑う。
「最後に奪われたのがロイがキレイだって言った髪だなんて、本当に底意地が悪いでしょう?」
そう言って口角を上げるナマエからは、髪を失った怒りも悲しみも読み取れない。
「…わりと平気そうだな」
「うん、髪ならまた伸びるからね」
「それもそうか」
銀時計を託した後、彼女はすぐに戻ってきたつもりだったが、あちらとこちらの時間経過の差で一ヶ月ずれてしまったらしい。
峠道を徒歩で下りてきたところで友人に会い、服を借りて髪を切り揃えてもらったのだと彼女は話した。
「友人って、手紙の?」
「そう。色々助けてもらったの」
それにモヤッとした降谷だったが、なんとか言葉にはせずに留めた。
「頼られたい」だなんて、そんなこっぱずかしいこと言ってたまるか。
「それでね、零。物は相談なんだけど…」
その言葉に既視感を覚えた降谷が、遮るように言う。
「等価交換の取引ならお断りだ」
「え」
ぽかんと口を開けた彼女に、降谷は「さっき自分で言っただろう」と呆れたように続けた。
「取引なんて必要ない。ここは君の居場所でもある」
言葉の意味を理解したのか、ナマエの頬がゆるゆると緩んでいくのがわかる。
それはまるで花がほころぶようで、降谷は彼女から目が離せなかった。
「…うん。ありがとう、零」
窓から差し込む夕日が、アウイナイトに似た彼女の青い瞳と混ざり合う。
それは確かに幻想的な色彩で、降谷はロイという男の気持ちが少しわかってしまった。
そこに降谷のスマートフォンが着信を告げる。
「もしもし…ああ、わかった。すぐに行く」
短い通話を終えると、目の前のナマエがどこか期待したような面持ちでこちらを見ている。
彼女は降谷の言葉を待っていた。
「行けるか、ナマエ」
問いかけた降谷にも、彼女の返事はわかっている。
予想通り嬉しそうに青い目を細めたナマエが、口元に笑みを浮かべた。
「行こう、零」
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