03


「ナマエ」
「……ん」

声をかければ、目を数回瞬かせたナマエがすぐに体を起こす。さすが元軍人というべきか、寝起きがいい。

「おはよう、透」
「おはようございます、ナマエ」

ニコリと微笑めば、彼女はげんなりした表情を浮かべてこちらを見た。

「…それ、ヤダって言った」
「それとは?」
「胡散臭い笑顔と丁寧な言葉遣い」

お願いだから普通にしてて…とせっかく起こした体を前方にぺたりと倒して彼女が項垂れる。
それを見た安室が、笑顔を消して深いため息をついた。

「…悪いが、これに慣れてもらわないと一緒に外出もできない」
「なんでだよー、二重人格なの?それともスパイ?」

さらっと当てられて内心動揺するが、表情には出さない。

「詳しくは言えないが、"安室透"はこういう人間だ。理解しろとは言わない。慣れてくれ」
「…ふうん」

どこか可笑しそうに微笑んだナマエが、ローベッドの隣に並べた布団から這い出てくる。
すっと立ち上がると彼女はビシッと姿勢を正して敬礼した。ブーツを履いていれば踵が小気味のいい音を立てただろう。

「軍人たるもの軍務に疑念を抱くべからず。ただ与えられた職務を遂行することこそが存在意義であります」

心得ております、上官殿。

凛々しい表情で言い切ったナマエに、今度は安室がげんなりする番だった。




***




「あ、これ美味しい」
「ありがとうございます。それ、白和えというんですよ。緑の野菜がほうれん草で、オレンジのが人参です」
「へえ。白いのは?」
「豆腐です。大豆の搾り汁を固めた食品ですよ」
「大豆…ああ、わかるよ。昨日の煮物に入ってたやつ」

ナマエは食事中も食材や調理方法の観察をやめない。その見境のない知識欲にもすっかり慣れてしまった安室は、聞かれたことにはなるべく答えてやるようにしていた。

ナマエとの生活を始めて今日で三日目だ。
右目のこともあるので、まずは片目での生活に慣れるのが最優先だと考えていたが、安室の描いていたスケジュールは初日で狂った。

起きて早々、彼女はなんと安室との手合わせを要求したのだ。慣れない視界を体に叩き込むのは実戦が一番だと言って。
もちろんそんなスペースはないので断ったが、そうすると今度は綺麗に拭き上げたブーツでジャグリングのようなことを始めた。
見かねた安室が水の入ったペットボトルを渡すと、彼女は器用にも歩きながらそれを投げ続けた。それからしばらくして「慣れた」と彼女が言ったかと思えば、本当に一切よろめくこともなく生活し始めたのだ。この順応力の高さには安室も感嘆した。

それでも見えない右側に立つと危機感からか手が出るらしく、うっかり殴りかかられたこともある。しかも安室が全て避けるからか、彼女も「当たってないからいいじゃん」と反省してくれない。外でやる前に直してほしい。

知識欲については、これはもう安室が錬金術師という生き物を見誤っていたとしか言いようがない。
五十音表を用意すればすぐに覚え、安室が図書館で借りてきたルビ付きの児童書を一日で山のように読破した(結局何も知らない風見に図書館まで三回往復させた)。
アメストリスの公用語に似ているからと二日目にして英語にまで手を付け始めた時は、「一回休もう」と安室が止める羽目にもなった。
睡眠や食事よりも優先するほどの知識欲に、安室はすっかり圧倒されていた。

「今日はどうします?ルビなしの新聞でも読んでみますか」
「あ、図書館に行ってみたい」
「図書館ですか」
「透も仕事があるだろうし、図書館に一日置いといてくれていいよ」

なるほど、図書館なら新聞や雑誌のバックナンバーも豊富だし、彼女の欲求に対応できるだけの蔵書量も兼ね備えている。
二日間仕事に穴を開けたことも気になっていた安室は、その提案に乗ることにした。

「ではそうしますか」
「やった」
「昼食用のお弁当作りますね」
「え、いいの?玉子焼きとウインナーも入れてくれる?あとブロッコリー」

こちらでの食事を気に入った様子のナマエに、安室は微笑ましげに笑いかけた。




***




仕事を終えた安室が図書館に迎えに行くと、読書スペースに異様な空間を発見した。
その一角だけテーブルの上に本や雑誌が山積みになり、司書や他の客は遠巻きにそれを眺めている。
それだけで全てを察した安室は、本の山に近づいて小声で話しかけた。

「ナマエ」

返事がない。寝ているのだろうか。
テーブルをぐるっと回り込むと、彼女はちゃんと起きて本を読んでいた。

「ナマエ?」

やはり返事はない。自宅で児童書を読んでいた時は、話しかければちゃんと反応があったのに。

「ナマエ、僕です」

彼女の視界に入るよう左側から覗き込むが、やはり反応がない。すごい集中力だ。
仕方ないので肩にトントンと触れると、ようやく彼女が視線だけでこちらを見た。

「……なんだ、透か」
「もう閉館時間です。迎えに来ましたよ」

それを聞いた彼女がようやく本から体を離し、グッと伸びをする。

「ここ、本借りられるんだっけ?」
「ああ…20冊まで借りられるそうですよ」

壁に貼ってある掲示を見て伝えると、彼女は「じゃあ20冊借りてく」と返した。まだ読むのか。

山積みの本を片付けた彼女が選んだ20冊は、ずいぶんジャンルが偏っていた。

「これ、全部自動車関係ですね」
「うん。やっぱり最優先で勉強したいから」
「そうなんですか?」

問いかけると、こちらを見た彼女がふふっと笑う。

「透の車に何かあった時、すぐに直せるようになっておきたいからね」

なるほど、安室のために全ての能力を使うと言った言葉に嘘はないらしい。

「僕専属の整備士ですか。悪くないですね」
「でしょ?期待してて」

自分はまた彼女を見誤っていたのかもしれない、と安室は思った。
一連の行動は単なる無茶や知的探求だけではなく、ここで生きていくという彼女の覚悟の表れでもあるのだろう。
生きる努力を惜しまない彼女が、安室には少し眩しく思えた。


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