04
しばらくノートパソコンに向かっていた降谷は、眉間をぐっと揉み解してから後ろを振り向いた。
彼のローベッドでは、ごろんと横になったナマエが漢字辞典片手に新聞を読んでいる。
寝る時以外は彼女の布団は畳んでいるし、この部屋にソファなんて気の利いたものはない。彼女の定位置はもっぱらそのベッドの上だった。
「ナマエ」
「ん?」
名前を呼べばすぐに返事が返ってくる。図書館にいた時ほど集中しているわけではないようだ。
「少し聞いてもいいか」
「いいよ」
辞典を閉じ、体を起こしたナマエがベッドの上に座る。
彼女を慣れさせるために自宅でも安室透の皮をかぶっていた降谷だが、結局彼女に「外に出たらちゃんと切り替えられるから普通にしてて」と何度も説得され、それを受け入れていた。
降谷を「上官」と呼んだ彼女は普段恐ろしく聞き分けがいいが、我を通してもいいと判断したことはなかなか譲らない。
「初めて聞いた時から気になってたんだが」
「うん」
「禁忌って具体的になんなんだ?」
化け物とやらに彼女が一体何をやらされたのか、一度聞いてみたいとは思っていた。金を作るのも禁忌の一つとは言っていたが、おそらくそれではないだろう。
しかしそれは彼女の片目と居場所を奪うほどのものだ。安易に聞いていいものなのだろうかと、少し躊躇する気持ちもある。
もし彼女が言い淀むようならすぐに撤回しようと様子を窺うが、ナマエの表情は変わらなかった。
「一、人を作るべからず」
彼女の澄んだ声は、狭い部屋によく通った。
「二、金を作るべからず。三、軍に忠誠を誓うべし。…国家錬金術師として軍属となった錬金術師に課せられる、三大制限だよ」
「人を、作る……?」
あまりに乱暴な言葉に思わず眉根が寄るのがわかる。降谷のその表情を見て、彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「人体の構成物質ってわりと単純で、人体錬成も理論上は不可能じゃないの。…それなのに成功したケースがないのは、きっと命と等価交換できるものなんて存在しないってことなんだろうね」
それでも、と彼女は続ける。
「どんなに禁忌としても、人体錬成を行う錬金術師は後を絶たない。死んだわが子、友人、仲間、親、恋人……大切な誰かを生き返らせる術があるなら、それに賭けたいと思ってしまうものなのかも」
死んだ友人。死んだ仲間。
降谷はナマエの死角で拳を握り締めた。生き返らせる術がもし自分の目の前にぶら下がっていたとして、果たしてその時自分はどうするだろか。
「人体錬成を行った者は、成功か失敗かを問わず必ずその代償を支払わせられる。真理の扉を開き、その中にある膨大な知識を覗き見るための通行料として」
「…ならやっぱり、ナマエが強制されたというのもその人体錬成か」
肯定するようにナマエは微笑む。
「結果は見てないけど、失敗しただろうね」
成功するはずのないもののために、彼女は片目の視力と居場所を奪われた。車の上に落ちてきた時、どうして彼女はあんなに冷静でいられたのだろうと降谷は疑問に思う。
それを察してか、ナマエは話し続けた。
「代償は、思い上がった人間に正しい絶望を与えるためのもの。子供を蘇らせようとした母親が子供を産めない体になったり、母親を蘇らせようとした子供がたった一人の弟と、立ち上がるための足を失ったりね。だから多分私が持っていかれたのは、彼の隣という居場所と、彼の行く道を見守るための目……っていうことになるのかな」
「彼?」
降谷が聞き返すと、ナマエの表情がふわりと優しくなった。
「ロイって言って士官学校時代の同期なの。一緒に戦争を経験して、一緒に上を目指して、戦友みたいな存在だった。…お互いいつまでも独りだったら結婚するか、なんて言われたりして」
話しながら、ナマエがくすくすと笑う。
その男のことを思い浮かべているのだろう。それは降谷が見たことのない表情だった。
「…本当はロイが、人体錬成をさせられるはずだった」
その時のことを思い出したのか、ナマエの眉尻が切なそうに下がる。
「迂闊にも私が人質にされて、ロイが錬成陣に引きずり込まれそうになって……気付いたら、無我夢中でロイを突き飛ばして陣の中に飛び込んでた」
それではその男は、目の前でナマエが消えるところを見たのだろう。共に戦い、結婚の話までした大切な女の消える瞬間を。
「それは……辛いな」
「私はロイを守れたし、ロイには背中を預けられる優秀な部下も仲間もいるし、大丈夫」
――あとは、ここで頑張って生きなきゃね。
そう言って笑うナマエに、降谷はようやく彼女の覚悟が理解できた気がした。
***
降谷の質問に答え終えたナマエは、再びベッドに寝転んで新聞を読んでいる。わからない漢字は辞典で調べ、その字の成り立ちまで読み込んでいるようだ。
降谷は彼女の視界に入るよう、新聞の上に一枚の紙を置いた。
「…ん?なにこれ」
そこには三文字の漢字が書かれている。早速一文字ずつ読み上げようとする彼女より先に、降谷が答えを告げた。
「ふるや、れい。降谷が苗字で零が名前。…僕の本当の名前だ」
ぽかんとした顔で見上げてくる彼女に、思わず吹き出しそうになる。
「二人の時はこの名前で呼んでくれていい」
「え、別にいいのに透で。呼び慣れたし」
「は?」
思わぬ返しに今度は降谷が瞠目した。なんだこの女。人がせっかく本名を…と喉元まで出かかったところでグッと飲み込み、「別に強制はしない」とその場を離れた。危ない。そんなことを言ったらまるで本名で呼んでほしいみたいじゃないか。
キッチンで二人分のコーヒーを淹れ、再び和室に戻る。
チラッと横目で窺った彼女は、意外にもまだ名前の書かれた紙を見つめているようだ。それによく見ると、口元が小さく動いている。
あ、と降谷は目を瞬いた。彼女は何回も繰り返し「れい」と呟いている。
これはまさか、練習しているのでは。
思わずホッコリしてしまった自分をごまかすように、降谷はコーヒーを口に運んだ。
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