後日談(「君が僕の力になる」後)


心地よく眠っていたところに、顔をぺろりと舐められて思わず眉根が寄る。

「……んん」

ダメ押しのようにもう一度ぺろりと舐められて、ナマエは重い瞼を押し上げた。

「…もう……」

目の前に広がる顔に、仕方ないなという表情で笑いかける。
クリーム色のふわふわとした毛に手を伸ばすと、嬉しそうにすり寄ってきた。

「ハロ、おはよ」
「アン!」

待ってましたとばかりに遠慮なくぺろぺろ舐めてくるのは、つい最近同居人に加わった子犬のハロだ。
可愛く付きまとわれて根負けした降谷が連れ帰ってきた時は、東方司令部のブラックハヤテ号を思い出して大はしゃぎしてしまったものだ。

「…零、帰ってきてないんだ」

隣のローベッドが使われた痕跡はない。
スマートフォンを取り出すが、彼からの連絡はなかった。徹夜で働いているのだろう。
カーテンを開ければ雲一つない晴れ空が見える。

「天気はよし。ご飯食べたら散歩行こうか、ハロ」
「アンッ」

嬉しそうに部屋中を走り回るハロを見て、ナマエもまた笑顔で降谷のギターを避難させるのだった。




***




「ねー見て見てハロ」
「……ア…ン…?」

一通り近所を散歩してから向かったのは小さな公園だ。
目立たない木陰で少佐の土人形を錬成してみたナマエだったが、それを見たハロは怯えたように後ずさる。

「えっ、怖くないよ?」

おかしいな、癒されると思ったのに。と、続いてその隣に実物大のブラックハヤテ号を錬成する。
今度はおそるおそる近づいたハロが、すんすんと匂いを嗅いで周りをウロウロと歩き回った。

「ふふ、こっちは気になる?」

二匹とも同じくらいの大きさだ。
これでブラックハヤテ号が動けば相当可愛い光景になるな、とナマエは頬を緩めた。

「ホォー…、器用だな」

背後から突然聞こえた声に、ナマエがハッとして振り返る。全く気付かなかった。

「え、あ……赤井さん?」
「偶然通りかかってな」

いつだったか、東都水族館の観覧車で会った男だ。確かFBIだったか。

(……見られた?)

錬成反応に気付かれたかと身構えるが、彼は警戒しつつ近寄ってきたハロを意外にも優しい手つきで撫でている。
土人形についてこれ以上言及するつもりはないようで、どうやら錬成の瞬間を見られたわけではないらしいとナマエは息を吐いた。

「先の作戦で、ジンとウォッカがいた拠点を制圧したと聞いた」
「あ、はい」

あれはFBIやCIAとの共同戦線だったと聞いている。彼もまた作戦に加わっていた一人なのだろう。

「俺もしばらくあの組織に潜入していたんだが、ジンとは浅からぬ因縁があってな」
「それは…すみません?」

因縁のある相手なら自分で決着をつけたかったのかもしれない。思わず謝罪のような言葉が出た。

「いや、作戦には納得していた。君の手腕も聞いていたし、任せてよかったよ」
「はあ…」
「そこで提案なんだが…」

ハロを撫でる手を止めた赤井が、言葉を切って立ち上がる。
ナマエもまた彼を見上げた。

「公安の協力者から、FBIの協力者に乗り換えるつもりはないか」

えっ、と目を瞬かせたナマエに、赤井は小さく笑みを浮かべる。

「君ならアメリカでも十分やっていける。知識欲も旺盛で、勤勉だしな」
「……ん?」
「料理も上手いし、一人で住むのが不安なら俺のところに来てくれても構わん」
「んん?」

彼と会うのは水族館以来二回目のはずだ。
ナマエの知識欲も料理ができることも、なんで知っているのだろう。誰かから聞いたにしては、自分で見たような口ぶりだ。

「私のこと…よくご存知ですね?」
「それなりにな。ホームズで好きなエピソードは「技師の親指」だったか」
「んんん…?」

そんなこと、どこで話しただろうか。
ホームズトークなんて、工藤邸でコナンと沖矢と―――

「え?」

ナマエが突拍子もない可能性に思い至って目を丸くしたところで、赤井が名刺を差し出してきた。

「返事はいつでもいい。気軽に連絡してきてくれ」

思わず反射で受け取ってしまったナマエにフッと笑って、赤井が踵を返す。
あっという間に見えなくなった背中を見つめながら、ナマエはぽつりと呟いた。

「……断りそびれた」




***




正午を回ってしばらくした頃、仕事を終えた降谷がようやく自宅に到着する。
睡眠時間が絶対的に足りていない頭にぼんやりと靄がかかるが、なんとか振り払ってドアを開けた。
ナマエとハロの顔を見て、何か食べて、それから少し眠らせてもらえればもう何も言うことはない。

「ただいま」

声をかけるが、いつもなら即座に駆け寄ってくるハロと、その後を笑顔でついてくるナマエが今日は現れない。

「ナマエ?」

上着を脱ぎ、ネクタイを外しながら再度声をかける。やはり返事はなかった。

(……もしかして)

降谷がそっと和室を覗くと、そこには予想通りの姿があった。

ローベッドの上で丸くなって眠るナマエに、同じく丸まったハロが寄り添うようにして眠っている。
少し開いた窓からは穏やかな風が流れ込み、ナマエの金髪をふわふわと弄んでいた。

ふっと笑いを零した降谷が、自身のスマートフォンを取り出してカメラを起動する。
スピーカーを指で塞いで撮影すれば、一人と一匹の姿が音もなく切り取られた。

(たまらないな、これ)

それは仕事で疲れた体にじんわりと染み渡る、なんとも癒される光景だった。

「ん?」

ふと、枕元に置かれた一枚の紙が目に入る。名刺のようだ。
そしてそこに印字された名前を目にした瞬間、降谷は無意識のうちにそれをグシャリと握り潰していた。

(……あ、しまった)

勝手にこんなことをしてしまってはマナー違反だろう。と頭では思うものの、赤井の名刺をわざわざ広げて皺を伸ばす気にはなれそうもない。
降谷はそれをこっそり処分することにして、スラックスのポケットにしまい込んだ。

「……ん、零…?」
「あ、起こしたか。ごめん」

ううん、とゆっくり首を振りながら、ナマエがハロを起こさないようそっと体を起こす。

「…おかえり」
「ああ、ただいま」

ハロに配慮して小声で笑い合ってから、ナマエが枕元に視線を落とした。

「……あれ?名刺がない」
「名刺?」
「赤井さんにもらったんだけど…」
「へえ。何か伝言があれば、僕が伝えておくけど」

素知らぬ顔でそう言えば、ナマエがぱちりと目を瞬かせる。

「じゃあ…お話もったいないですが、お断りしますって伝えてもらえる?」
「……何を言われたんだ?」

思わず声のトーンが少し下がった。
ナマエはそれに首を傾げて、そうとは知らずに爆弾を落とした。

「FBIの協力者としてアメリカに来ないかって」

ピシリ、と降谷の体が硬直する。

「ホォー…」
「零?」
「わかった。一言一句違わず、必ず、僕の口から伝えておこう」

だから君は、何もしなくていい。何も。
一語ずつ強調するように、降谷はゆっくりとそう告げた。
そしてその威圧感のある笑顔に、ナマエは意味もわからず再び首を傾げるのだった。


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