後日談
※ほぼハガレンサイドの話(捏造)
※戦争描写、ロイ×主人公要素あり


ドンッ、と壁に打ち付けられた拳が苛立たしげな音を立てる。

「……大佐」

諌めるように呼ぶ副官の視線の先で、ロイは奥歯をギリギリと噛み締めていた。
耐えるように細く吐き出したため息すら、苛立ちで震えているのがわかる。

「大、」
「すまない、中尉。しばらく一人にしてくれないか」
「…承知しました」

部屋を出た中尉の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
ロイは再び強く壁を打った。

「……くそッ」

ホムンクルスとの最終決戦が終わり、早くも五日が経った。
戦いによって瓦礫の山となった中央司令部も、優秀な錬金術師たちの手によって元通りに建て直されている。
とはいえ瓦礫の撤去に二日、巨大な錬成陣の構築に丸一日、必要な材料を陣に運び込むのに二日かかり、ようやく完成したのが今日だった。

将校の執務室には優先して調度品が配されたが、ロイがいるこの場所には何も置かれていない。
空っぽな執務室は、使う者がいないことを表していた。

「ナマエ……ッ」

ここは、彼女の執務室だ。

ロイを突き飛ばした後、ナマエは彼の代わりに人体錬成の錬成陣を踏んだ。
そしてロイは、目の前でナマエが消えていくのをただ見ていることしかできなかった。
伸ばした手の先で、触れ合うことなく霧散した彼女の指先が脳裏に焼き付いて離れない。

(君がいたから、私は……)

彼女の花がほころぶような笑顔も、軍務に向かう真剣な表情も、なにもかも鮮明に思い出せる。
半身を失ったような強い喪失感は日に日に増すばかりだった。

(君が共に歩んでくれたからこそ、立ち止まらずにここまで来れたんだ)

「……ナマエ、私はこれからどうすればいいんだ?」

虚ろな空間に問いかけても、答えてくれる声はない。

(前にも後ろにも進めないこの感覚……覚えがある)

瞼を強く閉じれば、かつて彼女と共に立った凄惨な戦場が思い起こされる。
―――イシュヴァール殲滅戦。
思えば、彼女の弱さを見たのはあの時が最初で最後だった。

辺りに漂う硝煙と、焼け焦げた人の臭い。土は血を吸い、絶えずどこかで叫び声が響く。
かつて人であったはずのものが、ただの赤い染みと化しているのも幾度となく見た。
そこで行われていたのは戦争ではなく、一方的な殺戮だ。ただ死を与えるだけの日々に、そこにいた誰もが人殺しの目をしていた。

そしてそれは、彼女も例外ではなかった。

「ナマエ?」

逃げ惑うイシュヴァール人に機械的に炎を浴びせながら、戦場を進んでいた時。
暑く乾燥した気候に似つかわしくない冷気を感じ、その先に見えた金色の髪にロイは思わず声をかけていた。

「……ロイ」

長い髪をなびかせながら、ゆっくりとナマエが振り向く。
そして彼女のターコイズブルーの瞳が昏く濁っているのを見て、ロイはもう何度目かわからない絶望を覚えた。

(ああ……彼女もまた、人殺しの目になってしまった)

ナマエの向こう側では、辺り一帯を氷が覆っているのが見える。
氷の表面には冷やされた水蒸気が白い靄となって漂い、幻想的な光景がかえって恐ろしかった。

「…すごいでしょう、これ」

憔悴しきった表情のナマエが、自身が作り出した景色を眺めながらぽつりと呟く。

「空気中の水分だけじゃ足りないから、彼らの体内にある水分も利用したの」
「……ナマエ」
「成人男性なら、体の60%は水分だから。 ……でもこんなに上手くいくなんて、思ってもみなかったな」

そもそも、やろうと思ったこともなかったし。そう言ってナマエは自嘲するように笑う。

「この気温だし放っておけば溶けるけど、それまでには全身の組織が壊死するから――」
「ナマエ」

先程より強い口調で名前を呼べば、こちらを見たナマエと視線が絡んだ。
その目は泣きそうに揺れていたが、渇き切った眼球に涙の気配は見られない。

「……逃げてって願いながら、この手で殺し続けるの」

彼女が持ち上げた両手は小刻みに震えている。

「ねえ、ロイ……」

―――私たち、まだ人間なのかな?

消え入りそうな声で呟かれた言葉に、ロイは咄嗟に彼女の腕を引いていた。
もう一方の手で後頭部を押さえつけ、噛みつくように唇を重ねる。
強張った体を抱きすくめながら、角度を変えて何度も何度も繰り返した。

戦場の片隅で、無数の死体に囲まれながら女の唇を貪るなんて狂気の沙汰だ。
そう思いながらも、ロイ自身その唇の温かさに、自分が人間に戻っていくのを感じていた。

やがて息の上がったナマエにドンと胸を叩かれ、その体を解放する。

「……っ、」

荒い息を吐きながら、彼女の瞳からはぽろりと生理的な涙が零れた。

「あ……」

それは次第に量を増して、ぼろぼろと頬を濡らし始める。ナマエは呆然とした様子で頬に手をやり、濡れた手のひらをじっと見つめた。

「……まだ、人間だったみたい」

そう言って彼女が浮かべた笑顔はひどく歪で、おそらくそれを見たロイも酷い顔をしていたに違いない。

「…ナマエ、立ち止まるな。ここで立ち止まったら、心まで死んでしまう」
「……うん」

それは戦争などではなく虐殺で、間違いなくその場にいる全ての人間にとって最悪な日々だった。
自分が人間なのか化け物なのか、その境目が曖昧になる中で、ナマエとロイはお互いを人として繋ぎ止めるために依存し合った。

戦争が終わって二人の関係が戦友に昇華されても、互いが無二の存在であったことには変わりない。

(……まだ、何も伝えられていない)

がらんどうの執務室で、ロイは壁を殴り付けた拳を開く。そこに握られていたのは鈍い輝きを湛えた赤い石だ。
ティム・マルコーに「復興に役立ててほしい」と手渡された賢者の石を見ながら、瞬時に人体錬成の陣が思い浮かんでしまったことに自嘲する。

(人体錬成だけはやらないと決めていながら、このザマだ)

人体錬成なんていうものは、成功しない。
しかし彼は、鋼の錬金術師が弟の体を取り戻す瞬間を見てしまった。そして手元には賢者の石がある。

(……私は馬鹿だ)

こんなことを考えていると知ったら、ナマエはきっと怒るだろう。
しかし怒られてもいいから会いたいと思ってしまうのは、最早どうしようもないのかもしれない。

思考を振り切るように石を強く握り込んだところで、ロイの背後でゴトリと固い音がした。
ハッとして振り向いた彼の視界に飛び込んできたのは、国家錬金術師の証である銀時計だ。

床に落ちているそれを見て、ロイは即座に軍服に手を当てる。

(私の物ではない)

では一体、どこから?

一瞬の逡巡の後、ロイは賢者の石をポケットに入れてからそれを拾い上げた。
その重さも質感も、ジャラリと鳴る鎖の音も、ロイの物と寸分違わない。間違いなく本物だ。

時計の蓋を開けてみると、文字盤の縁がわずかに浮いている。

(細工されているな)

文字盤を外すと、小さく折り畳まれた紙がムーブメントに差し込まれているのがわかった。そしてそれを手に取って広げ、ロイは思わず呼吸を止めた。

それは写真だった。
そしてそこに写っているのはナマエとロイだ。それはナマエのセントラル行きが決まった後、彼女が訪れた東方司令部で撮影したものだった。
ナマエの肩を抱くロイも、笑顔のナマエも、そしてロイの手を抓り上げる彼女の右手も。なにもかもが記憶と変わらない。

「これは……ナマエの銀時計なのか」

彼女とともに消えたはずの銀時計が、今ここにある。
そしてそれはある可能性を示唆していた。
ナマエもまた、どこかに存在しているという可能性を。

「…ナマエが生きている?」

まさか、そんな夢のような話があり得るのだろうか。
それに真理の扉を通った者は、全く別の場所に落とされることも少なくないと聞く。生きていたとしても会えるとは限らない。
むしろこの時計をここに届けたのが彼女なのだとしたら、もう会えないからこその選択だと見るべきだろう。

それでも。

「彼女は生きている」

その可能性を考えるだけで、冷え切っていた心臓がようやく温まり、今まさに動き出したかのような錯覚を抱く。

「……これは」

ふと写真を裏返して、ロイはそれに気付いた。
そして発火布を取り出して装着し、指先に小さな火を灯して―――彼は笑った。

少ししてナマエの執務室を出たロイは、ドアの傍らに立つ存在に気付く。

「中尉」
「差し出がましくも、お待ちしていました」
「いや、ありがとう」

ロイはナマエの銀時計を外套のポケットに仕舞い、彼女に告げた。

「中尉。彼らを集めてくれるか」
「! それでは……」

部下たちを集めるよう伝えたロイに、中尉の表情に期待の色が滲む。

「ああ、これからまた忙しくなる。ついてこい!」

了解する副官の声を背に聞きながら、ロイは外套を翻して歩き出した。




***




「ナマエ?」

降谷の声に、キッチンに立つナマエがハッと顔を上げた。

「あ……ごめん。ボーッとしてた」
「レモン片手にか」

ナマエの左手には、スライスするつもりで用意したレモンが握られている。

「うん…ちょっと、あっちでのこと思い出しちゃって」
「あっち?元の世界か」

レモンをまな板に置いたナマエが、うん、と頷く。

「国家錬金術師の証である銀時計。私のはね、動かないようにしてあったの。零も多分、私の荷物を検めて気付いたと思うけど」

ナマエがそう言うと、降谷はバツが悪そうに頭を掻いた。
同居するにあたって荷物を調べられるのは予測済みだ。それを彼女が責めることはない。

「中には、ロイと撮った写真が入れてあった」
「……ああ」

観念した降谷が、それを見たことを認めて頷いた。

「私にとって銀時計は、国家錬金術師としての誇りでも、ただの時計でもなかったの。あれは背中を押してくれるお守りで……遺書でもあった」
「遺書?」
「うん。もし私が死んだ時に、誰かがそれをロイに届けてくれるようにって」
「なるほど、あぶり出しか」

時計に入っていたのは写真だけだ。それとレモンとを関連付けて、彼はあっという間に答えを導き出してしまった。

「そう、写真の裏にね」

あの写真の裏には、あぶり出しで浮かび上がるメッセージが隠されている。
ロイもきっとすぐに気付いただろう。
それは戦争で死を間近に感じた彼女が、いつ訪れるともわからない理不尽な別れに備えて仕込んだものだった。

「なんて書いたか、聞いてもいいか」
「うん、別に大したことは書いてないから」

ふふっと笑って、ナマエが遠くを見るように目を細める。思い起こすのは、あの凄惨な戦場で自分を支えてくれた男の姿だ。
彼ならきっと、こんな言葉がなくても歩き続けるのだろうけど。

「"立ち止まるな"―――昔、ロイがくれた言葉だよ」


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