07


「喫茶店でアルバイト?」

この男は何を言っているんだろう?という顔でナマエが見つめるが、視線の先の降谷はコーヒーを飲みながら涼しい顔で続けた。

「ああ、だから今より忙しくなるし、図書館への送迎も当分できないだろう。図書館くらいならバスで行けるだろうが、他の場所へ出掛ける時はこれを使ってくれ」

そう言って彼が手渡してきたのは、三冊の冊子だ。どれも同じデザインで、表紙にはカード会社の社名と「タクシーチケット」の文字が印字されている。

「タクチケ…!」
「…言い方が俗っぽいな。まぁ君のおかげで車のメンテナンス代も浮いて助かってるし、それは遠慮せず使ってくれていい」

冊子をパラパラめくって観察しながら、ナマエは「仕事で仕事するって大変だね」と同情するように呟いた。
普段から潜入捜査官として忙しくしている彼が突然アルバイトを始めるというなら、それが潜入の一環だというのは一目瞭然だった。

「本当は君が車を持てるのが一番いいんだが、免許を取るのもまだ不安だろう」
「まーね。日常生活に支障はないけど、遠近感や距離感が掴みにくいのと視界が狭いのは、運転にどう影響するかわからなくてちょっと怖いよ」

さすがに元軍人の自分が警察のご厄介になるのだけは避けたい、とナマエは思った。
この世界の車は魅力的だが、その分あちらの車に比べてスピードも速いし凶器になるリスクも大きい。片目に慣れたばかりのナマエには荷が重いだろう。

「移動手段は公共交通機関とタクシーが中心になるな。バスは乗ったことがあるからいいとして、電車はわかりそうか?」

今度練習するか、と降谷が呟くが、さすがにこの年になって保護者同伴というのも情けなさすぎる。「事前に調べるから大丈夫だよ」とナマエは返した。

「そうか…。ちなみに働くのはポアロという喫茶店だ。上階は探偵事務所で、僕はそこの毛利先生に弟子入りする形になる」

へぇ、とナマエが目を瞬かせる。公安捜査官に犯罪組織のスパイに喫茶店店員、おまけに探偵とは。常々器用な男だとは思っていたが、ナマエが思う以上に優秀なのだろう。

「まぁ…頑張ってね」
「同情するなら、君も常連としてポアロに通ってくれないか」
「え?」
「君の協力を得るにも、移動手段が安定しない現状で離れて過ごすのは合理性に欠ける。今後は安室透として動くことも多くなるし、なるべく近くにいてほしいんだが」

すました顔で言う降谷だが、言っていることはなかなかに冷酷だ。
犯罪組織に潜入する彼がナマエを内外問わず近くに置いていれば、その分彼女が組織の人間の目に留まるリスクも高まる。
それでもそのリスクを取るということは、彼にとってのナマエはあくまで使い勝手のいい協力者に過ぎず、庇護対象ではないということだ。

「わかった、そうする」

ナマエ自身、守られることには慣れていないからそれで構わない。相変わらず理性的な降谷は、ナマエにとっては十分好感の持てる人物だった。




***




「えっ、安室さんの親戚の方ですか!?」

ナマエを見て大きな目を丸くしているのは、安室透の同僚である榎本梓という女性だ。
数回出勤してすっかりポアロに溶け込んだ安室は、この日ポアロや探偵事務所の面々にナマエを紹介するため、彼女を店に連れて来ていた。

「ええ。といっても遠い親戚ですが…。ご両親を亡くされたばかりで、本人も病気で右目の視力を失ってしまって…。頼るところがなくて気の毒なので、今は同じマンションの別の部屋に住んでもらって、たまに面倒を見ているんです」

半分くらい本当のこととはいえ、なかなかにヘビーな設定である。

「ナマエ・ミョウジです。よろしく」

そう言って右手を差し出すナマエに、梓はパアッと顔を明るくしてそれを握った。

「榎本梓です!梓って呼んでください!」
「私もナマエでいいよ、梓ちゃん」
「ナマエさんも安室さんも、色の感じは違うけど同じ金髪に青い目だし、美男美女だし…はー、血ってすごいですねぇ」

感心したように梓が言う。ナマエは内心、血は繋がってないけど、と苦笑した。

「それで梓さん、出勤前に毛利さんのところにもご挨拶に伺いたいんですが、いいですか?」
「もちろんです!まだシフトの時間まで余裕ありますもんね」
「ありがとうございます。では行ってきます」

そう言って店を出た安室に連れられて向かったのは、階段を上ったところにある毛利探偵事務所だ。
ノックして「毛利先生、安室です!失礼しますー」と明るく声を掛けた安室は、返事を待たずにそのドアを開けた。

「なんだお前か」
「ああ、お昼時にすみません」

中ではエプロンをつけた少女が料理を配膳していて、ソファに座った小さな男の子がそれを受け取るところだった。安室に応えたのは、奥のデスクに座っている男性だ。

「なんの用…って、依頼人か!?」

男性がデスクから身を乗り出す。

「いえ、ご期待に沿えずすみません…。僕の遠い親戚の女性なんですが、先生にご紹介したいと思いまして」

ナマエが一歩前に出ると、男性が「おほっ、綺麗なお姉すわーん!」と目を輝かせた。安室の親戚というのが興味を引いたのか、少女も少年もこちらを見ている。

三人に向けて安室が話したのは、先ほど梓にも話したものと同じ内容だった。
両親を亡くし、自身もまた病気で右目の視力を失ったという不遇の女性。安室と同じマンションの別の部屋に住み、たまに彼に面倒を見てもらいながら過ごしているという設定だ。

「一人にするのが心配なので、たまにポアロにも顔を出してもらおうとは思ってるんですが…。先生にも何かご迷惑をおかけするかもしれないので、紹介をと」
「なるほどな、そういうことなら任せておけぃ!」

自身の胸をドンと叩いた男性がナマエに近づき、その手を握り締めた。

「ちょっ、お父さん…!」
「お嬢さん、私は名探偵の毛利小五郎。こっちが娘の蘭で、あっちは居候のコナンです。何かお困りのことがありましたら、なんなりとこの名探偵にお申し付けください」

キリッと凛々しく引き締められた表情に、ナマエもふっと微笑んで返す。

「ナマエ・ミョウジといいます。ナマエと呼んでください、毛利さん」

蘭ちゃんと、コナンくんもよろしくね。
残る二人にも目線をやりながら話しかけると、それぞれ礼儀正しく返してくれる。ナマエの手を握り締めたままの毛利は、「くぅっ、可憐だ…!」と悶えていた。それを蘭が引き剥がした。

「ナマエさん、何か困ったことがあったらなんでも言ってくださいね。父はあんなですけど、一応探偵としてはちゃんとしてるので」
「ありがとう、蘭ちゃん。……あ、早速なんだけど、一つ聞いてもいいかな」

ナマエが思いついたように言うと、蘭が「なんですか?」と首を傾げる。

「本を読むのが好きなんだけど、この辺りに徒歩でも行けるような図書館ってあるかな?杯戸町の大きい図書館は透の車で行ったことあるんだけど…」

安室はなるべくポアロで過ごせばいいという考えだったが、喫茶店で長居というのも気まずいものがあるし、何より時間がもったいない。
蘭に問いかけるナマエを、安室も特に口出しせず見守っていた。

「杯戸町の図書館よりは小さいですけど、米花図書館がありますよ。徒歩だとちょっと歩くんですけど…」
「お姉さんはどんな本が好きなの?」

ソファから降りたコナンが、ナマエに近づいて問いかける。

「うーん、なんでも読むよ。実用書もファンタジーも、ミステリーも」
「ミステリー好きなの?」
「好きだよ。シャーロック・ホームズとか面白かったかな」

あ、という顔をした蘭が止める間もなく、コナンがくわっと目を剥いた。

「ホームズ!?好きなの?」
「え、うん」
「どの話が一番好き!?よかったらこの近くに大きな書斎のある家が、いてっ」

突然マシンガンのように話し始めたコナンに毛利の拳骨が落ちる。「ナマエさんが困ってるじゃねーか!」と叱る彼にコナンは半目で謝った。

「早速仲良くなれそうでよかったです。じゃあナマエ、僕はポアロに出勤しますが…あなたはどうします?」

にこやかに笑う安室の言葉に、蘭が「よかったら今からお昼なので食べて行ってください」と申し出てくれた。ナマエはそれをありがたく受け、ポアロに向かう安室を見送った。

「ナマエさんの目って、病気で見えなくなったんだっけ?」

食事を取りながら、左に座るコナンの質問に答える。

「うん、そうだよ。急だったからなかなか慣れなくて」
「なんていう病気?」
「んん…なんだったかな。両親を亡くしてすぐだったから、その辺りの記憶が曖昧で」
「ふーん」

なんだか不思議な子だな、とコナンを見ながらナマエは思った。
小学一年生だと彼は言ったが、ナマエを観察するように見る視線は子供のそれではない。時折鋭ささえ感じるその目線は、かつての小さな友人を思い起こさせた(小さいは禁句だが)。

(なんか気になるな、コナンくん)

ナマエは自身の関心が彼に向くのを感じていた。


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