08


ナマエは目の前に広がる光景に、大きな目を真ん丸にして驚いていた。

「これが……」

これが家電量販店!

あまりの感動に後半は言葉にならなかった。

「そんなに驚きますか……」

隣では安室が苦笑している。
今日は杯戸町の家電量販店に、ナマエのスマートフォンを買いに来たのだ。

「雑誌では見てたけど、すごい…本当に機械だらけ…」
「機械って」

その表現に安室が吹き出した。ナマエはそれも気にならないほど夢中になって辺りを見渡していた。

「ついに手に入るんだ…情報端末」
「………ッッ」

いよいよ腹を抱えて安室が震え出す。

視界に入るのはどれもナマエがいた世界にはなかった物ばかりだ。
こちらに来て知識だけはたっぷり仕入れてあるが、まだ手に取ったこともない。

特にスマートフォンをはじめとする通信機器に憧れはあるものの、情報漏洩やセキュリティホールなどネガティブな情報も仕入れてしまったせいで変な緊張感もある。
絶対に取説を完全暗記してから使おうとナマエは決めていた。

「おすすめはこの辺ですね。僕と同じキャリアなので、使い方も教えられますし」
「じゃあそれにする」

機種にこだわるほど使用感の違いがわからないナマエは即決だ。
微妙な違いにあれこれ悩むより、早く手に取って観察したい欲の方が強い。

「色はどうしますか?カバーを付ければ見えなくなりますが」

ちなみに僕は白です、と言いながら安室が示した先には、白、黒、シルバー、青、赤の見本が並んでいる。

ナマエの視線は赤いスマートフォンに釘付けになった。赤と黒のグラデーションのような微妙な色合いは、見ようによっては焔のようにも見える。

思わずそれに手を伸ばしたナマエだったが、目の前にすっと現れた安室の手がそれを取り上げた。

「え?」
「赤以外で選びましょう」
「なんで?」
「赤以外ならどれでもいいですよ」

答えになってない。
ちなみに僕は白です、と安室が続けるがそれはさっきも聞いた。

「………じゃあ、白で」

不満げにたっぷり間を空けてから言ったナマエに、安室は満足そうに頷いた。




***




念願のスマートフォンを手に入れた翌日。ナマエはポアロでコーヒーと読書を楽しんでいた。
読書といっても、今読んでいるのは某総合科学ジャーナル。世界各国の科学者による最新の論文が掲載されている雑誌だ。

「ちょっと毛利先生に差し入れに行ってきます」

安室が梓に声をかけ、サンドイッチの皿を手にポアロを出ていく。

ナマエは安室がポアロでバイトを始めた具体的な目的までは聞いていないが、彼は毛利によく差し入れをする。それもポケットマネーでだ。それが目的に関わることなのかはわからないが、つくづくマメな男だとナマエは思う。

しばらくすると安室やコナンたちが車で出ていくのが窓越しに見える。

(え?バイトは大丈夫なの?バイトは)

かなり自由にやっているように見えるが、バイトってこういうものなのかな…?と軍でしか働いたことのないナマエは頭を捻った。
まぁいいか、と論文に視線を落とす。DNAによる個人情報管理システムの研究が非常に興味深い。

そしてナマエが次に顔を上げたのは、毛利探偵事務所で人が死んだと知らされた時だった。




***




毛利探偵事務所のトイレで男性が拳銃自殺したらしく、ナマエも安室に呼ばれて仕方なく現場検証に立ち会った。
事情聴取が終わると現場にいた女性を安室が送ることになったが、RX-7はあいにく後部座席が狭い。ナマエは一足先にタクシーで帰宅することになった。

マンションから少し離れたところでタクシーを降りたナマエは、コンビニで自動車雑誌の最新号と新聞を購入した。降谷の立場を思うとマンションに直接タクシーで乗りつけるわけにもいかないので、ここからは徒歩だ。

(あ、今日満月か)

道理で明るいと思った、とナマエはまん丸なそれを見上げる。どこの世界も月の形状は同じらしい。

ナマエは満月が美しいだとか、何か不思議なことが起こりそうだとか、そんなことを考えるほどロマンチストではない。
同じ月の満ち欠けでも、月の引力と潮汐の関係について考える方がよっぽど楽しいと思える人間だった。

そんなナマエが満月の日に彼と出会ったのは、運命でも必然でもなんでもなく、ただの偶然だったとしか言いようがない。

(……ん?)

ナマエがマンション近くの公園に差し掛かった時、公園の方からバサッと羽音のようなものが聞こえた。
鳥だろうかと思ったナマエだったが、続いて何かが落ちるドサリという音に足を止めた。

(なんだろう)

彼女が足の向きを変えて、音が聞こえた方に向かったのは完全な好奇心だ。

やがて月明かりに照らされた公園内に足を踏み入れると、木の陰に何かがいるのが見える。満月から姿を隠すようにしているのは、どうやら人間のようだ。

ナマエは念のため足音を消して近づくが、不意に風が吹いたことで手元のビニール袋がカサリと音を立ててしまう。
人影がバッとこちらを向き、ナマエもそれに合わせて歩みを止めた。

どちらも動かないまま数秒が経過するが、やがて沈黙に耐えかねたのか、その人物が木の陰から歩み出た。

月明かりに照らされたその全容に、ナマエがぱちりと目を瞬かせる。

「…満月にも劣らぬ美しき黄金色に目を奪われ、レディをお待たせしてしまったことをお許しください」

歯の浮くようなセリフを吐いて現れたのは、純白に身を包んだ一人の男だった。
白いスーツにマントとシルクハットを合わせ、目元のモノクルに知的な光を宿したその男の姿は、ナマエも新聞で見たことがあった。

「…怪盗キッド?」

その名を呼ばれ、男の口元が妖しく弧を描く。

「いくら満月が見守っているとはいえ、闇夜の散歩は感心しませんよ……お嬢さん」

キザなセリフと甘い声に、キッドファンの女性であれば思わずため息を零すところだろう。
しかしあいにく、ナマエは昔からキザな言い回しには耐性があった。

「もうお嬢さんっていう歳でもないし…。ところであなた、怪我でもしてる?」
「…え?」

先ほどから風に乗って届く焦げたような匂いに、ナマエは彼が何かのトラブルに巻き込まれたのではと問いかけた。

「いえ、特には……」

質問の意図が読めないのだろう、キッドが訝しげにこちらを見る。

「じゃあ後ろに隠してるそれが壊れでもした?」

その質問にキッドがハッと息を呑む。夜目の利くナマエには、彼の背後で木に立て掛けられたハンググライダーがよく見えていた。
一瞬の沈黙が流れるが、正直ナマエはそれを見た時からウズウズしていてもう衝動が抑えられそうになかった。

「…ねぇ、ごめん、それ見せてくれないかな。だってそれで空を飛ぶんでしょう?あーいいなぁ…私飛行機にもまだ乗ったことないし、空を飛ぶって想像できないんだよね…。ね、お願い、触らない!触らないからちょっとだけ見せて!」

最後はもはや懇願するような声色になり、両手を合わせて拝むような体勢でキッドを見る。
それに呆気に取られた彼だったが、「お願い!」という再度の追撃に折れたのか「……少しだけですよ」と渋々そこからどいた。

「ありがとう!」

ナマエはそれに駆け寄ると、触らないという約束を守りながらしげしげと眺める。月明かりから隠すように置いてあるため見にくいが、彼女は何度も体勢を変えながら熱心に観察した。

「あーなるほど、ここにモーターが…。つくりはわりと単純なんだ。これでよく飛べるなぁ…」

ブツブツ呟きながら観察するナマエにキッドは困惑したように立ち尽くしていたが、少しして「そろそろよろしいですか?」と話しかけてきた。

「あ、うん、ありがとう。とっても勉強になりました」
「それはよかった。では代わりと言ってはなんですが、ここで私と会ったことはどうか内密に」

そう言いながら、キッドは口元に指を立てる。そんなキザな仕草さえよく似合っていた。

「はーい。……あっ、あれ何!?」

ナマエが不意にキッドの背後を指差す。「え?」とつられた彼が振り向いた隙に、ナマエはこっそりハンググライダーに触れた。

「どれですか?」
「あ、ごめんなんでもなかった。じゃあ私は行くね」
「え?ええ」

戸惑うキッドを置いてナマエはその場を立ち去る。少しして背後から小さく「あれ?」という声が聞こえたが、立ち止まりはしない。
故障したらしいモーターを直してあげたのは、ハンググライダーを快く観察させてくれた彼へのささやかなお礼だった。




***




思いがけずキッドのハンググライダーを見ることができて上機嫌なナマエだったが、帰宅早々安室から電話で呼び出された。

どんなトラブルだろうとタクシーを拾って向かったナマエは、まさか新車同様にしたばかりのRX-7がその横っ腹で車を受け止めたなんて思いもしなかった。

「ピッカピカのピッカピカにしたばっかりなのに……なにこれ……」

ベコベコに凹んだ車体側面、散乱した窓ガラス、傷だらけのアルミホイール。現実を直視できず唇を震わせている彼女に、安室は肩をポンと叩きながら「よろしくお願いします」と笑顔で告げた。

(零専属の整備士って、実はかなりのハードワークなのでは?)

ナマエは今更ながらに悟ったのだった。


prevnext

back