09


「まさか君の中央行きが先に決まるとはな」

聞こえてきた低く柔らかい声に、ナマエはそれが夢だとすぐに察した。

「私の方が要領がいいのかも。ロイは敵も作りやすいし」
「なるほど、耳が痛い」

肩をすくめたロイに、ナマエが可笑しそうに笑う。これはいつの光景だろう。

「私は北方司令部の方がやりやすかったよ、気温的に」
「よく言う。君の氷が気温ごときに左右されるはずがないだろう」
「ふふ、バレた?」

二人がいるのは夕焼けの差し込む執務室だ。椅子に座るロイの隣で、ナマエは窓枠にもたれて立っている。

「私のセントラル行きも、ロイの足掛かりにしてよ」
「ああ、そうさせてもらおう」
「一足先に待ってるから」
「私もすぐに行くさ」

挑戦的な目で見上げてくるロイを、ナマエも口元に笑みを乗せて見つめ返した。

「ところでナマエ、今回はこのまま北方にとんぼ返りか?」
「明日には発つよ」
「ふむ、ではまだ一晩残っているわけだ」

顎に手をやって頷くロイに、ナマエはげんなりとした表情を浮かべる。

「いいことを聞いた、みたいな顔やめて」
「実際にそうだからな、仕方ない」
「もぐり込んで来たら蹴り出すよ」
「それも悪くない」
「リザー!」
「くっ、ナマエ、それは卑怯だろう!」

ロイが慌てて立ち上がり、副官がすぐさま飛び込んで来るのではと身を固くする。
その様子を見たナマエが、プッと吹き出す。

「ふは、ごめん。リザならさっき出てくの見たよ」

口元に手を当てて笑うナマエに、ロイは詰めていた息を吐き出して脱力した。
それから笑う彼女に視線を向け、切れ長の目元を柔らかく細める。

「ああ…やはり君のアウイナイトの瞳は、夕焼けによく映えるな」

一歩距離を詰めて、黒曜石のような瞳がナマエの青い瞳をじっと見つめた。

「赤く染まった金髪も綺麗だ」

彼の大きな手がナマエの髪を優しく撫でる。ナマエもそれに身を任せるように目を伏せて―――それから「その手には乗るか」と手の甲を抓り上げるまでが、二人のお約束だった。




***




目を覚まして、ナマエは横たわったまま大きくため息をついた。

(なんで、こんな夢……)

両手で視界を覆うが、見たばかりの光景はそう簡単には消えてくれない。彼を守った時点で覚悟は決めていたはずなのに、自分の弱さが嫌になる。

「ナマエ」

降谷の声に手をどけると、彼は和室の入口からこちらを覗き込んでいた。

「……おはよう、零」
「ああ、おはよう」

朝食できてるぞ、という声に促され、ナマエは重い体を起こした。

「僕はこのままポアロだが、君も行けるか?」
「うん。でも米花図書館も行ってみたい」

それは先日蘭から教えてもらった図書館だった。ポアロからは少し歩くらしいが、ナマエなら特に苦にはならないだろう。

「わかった。とりあえず、食べ終わったら一緒に出よう」
「はーい」

こんな日は読書でも研究でも勉強でもいいから、何かにひたすら没頭するに限る。
ナマエは重い頭を振ってため息をついた。




***




ポアロで本を一冊読み終えたナマエは、そのタイミングで図書館に向かうことにした。
少し歩くと言われた通り確かに距離はあるが、普段から鍛えているナマエには散歩程度の感覚だ。
それでも、今朝見た夢のせいか少し足が重い。

(ロイは、どうなったのかな)

それは、努めて考えないようにしていたことだった。
自分が目の前から消えて、彼はどうしただろうか。怒っただろうか。それとも、悲しんだだろうか。

彼の副官や部下たちが支えてくれるだろうから大丈夫、そう自分に言い聞かせていたが、同じ士官学校の同期であるヒューズを喪った時の彼の憔悴ぶりを見ているだけに、なんとも言えない。

「あ」

ふと背後から声が聞こえて、ナマエは振り向いた。
そこにいたのは10代半ばか後半くらいの少年だ。彼は自分が漏らした声に焦ったのか、「やべ」と口元に手を当てていた。

(…見たことのある顔だな)

記憶を掘り起こそうとしたナマエだったが、不意に目の前が暗くなったような感じがして軽くよろめく。

「あぶねっ」

彼が咄嗟に左腕を掴んでくれたおかげで、無様に座り込まずに済んだ。

「…ごめん、ありがとう。ちょっと目眩が…」
「顔色わりーぞ」

ちゃんと寝たはずなのにな、とナマエはため息をつく。
夢見がよかったと言うべきか、悪かったと言うべきか。どちらにせよずいぶん引きずってしまっているようだ。

「えーと、もう大丈夫。図書館もすぐそこだし」
「あ、図書館行くの?じゃあ付き合うわ」
「え?」

ナマエが顔を上げると、少年はニカッと笑って「俺も用事あるから」と言った。

「ああ…キッドか」
「は!?」

道理で見覚えがあると思った。声も同じだ。
一人で納得するナマエをよそに、少年は慌てた様子で「え?はっ?」と言葉にならない声を上げていた。




***




読書スペースの一番端のテーブルで、積み上げられた本を横目に見ながら黒羽快斗は項垂れていた。

「あー、なんでバレたんだろ」

図書館ということで小声だが、彼の右隣に座るナマエにはちゃんと聞こえている。

「だって声同じだし、衣装着てる以外に変装はしてなかったし。いつもあれでバレないの?」
「バレないんだよ」

へぇ、と返しながらもナマエの視線は開いた本に向けられている。快斗は悔しそうに唇を尖らせた。

「くそ、不覚」
「それで?」
「ん?」
「用事あったんでしょ?」

ちらりと視線を向けたナマエに、快斗が「あー」と唸る。

「こないだハンググライダー直してもらったし、お礼言いたくて。本当はさりげなくお礼するつもりだったけど、バレたし普通に言うわ」

ありがとう、ナマエさん。そう照れくさそうに言った快斗に、ナマエは目を瞬かせた。

「律儀な子だね」
「…子供扱いやめろよ」
「え、多分一回りくらい離れてるよ?」
「マジ?」

ぽかんと目を丸くした快斗に思わず笑みが零れる。

「ふふ、もう29歳だよ私」
「見えねー……」

そう言いながら再び項垂れた快斗だったが、ふと思い出したように顔を上げた。

「それで、どうやって直したんだ?あれ」
「気になる?」
「気になるだろ」

確か怪盗キッドはマジックのようなトリックを多用するんだったか。そう思い至ったナマエは、「手品みたいなものだよ」と答えた。

「嘘だな」

あっさりバレた。

「タネがあるかどうかくらい見ればわかるぜ」
「ふーん、そういうものなんだ」

納得したナマエは、「じゃあ内緒」と答えを変更した。

「うわ、卑怯者」
「なんとでも言ってください。言えないものは言えないの」

この世界に来た時、もし快斗の元に落ちていたのなら抵抗なく話していただろう。
しかしナマエは降谷の元に落ち、降谷と取引をした。何が降谷の不利益となるかわからない状況で勝手なことはできない。

(ハンググライダー直したのも勝手なことに入るかな)

まぁあれは人助けだからいいか、と一人で結論づける。

結局快斗に明かすことはなかったが、どうやら懐かれたようで連絡先は交換した。
今のところナマエのスマートフォンに入っている連絡先は安室名義のものと快斗だけだ。安室は取引相手だからカウントしないとして、これは友達第一号ということだろうか。

(やっぱり夢見、よかったのかな)

朝感じた鉛のような体の重さは、いつの間にかなくなっていた。


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