03
「おい、苗字。ちょっとツラ貸せ」
放課後の教室。
開け放たれたドアからそう無作法に言い放ったのは松田だった。
ホームルームを終えたばかりの教室が一瞬水を打ったように静まり返り、それからあちこちでヒソヒソと話す声がする。
名前は注目を浴びてしまったことを苦々しく思いながら彼のもとに近寄った。
「……なに?怖いんだけど」
ていうかみんな怖がってるんだけど、とは言えなかった。
最近松田や萩原とは校内で会えば話す程度の仲にはなったが、彼らも名前も違う意味で悪目立ちしやすいのがネックだった。
「この後用事は?」
「ないよ。部活もしてないし」
「よし。じゃあジャージ持ってついて来い」
「は?え、ちょっと」
さっさと踵を返してしまった松田を、言われた通りジャージとバッグを持って追いかける。
「ねえ、なんなの?」
「お前バスケ経験は?」
「え?」
「バスケ」
さっきから一体なんだというのか。
バスケといえば、手が大きいからと親にやらされた習い事の一つだ。小さい頃から背が高かったからというのもある。
「小中やってたけど……」
「マジで?最高かよ」
「は?」
ニヤリと悪い顔で笑う松田に、名前はいい加減意味がわからないと顔を顰めた。
「ていうか本当にどこ行くの?」
「賭けバスケ」
は?とまた気の抜けた声が出た。
彼に連れて行かれたのは学校からそう離れていないところにある大きな公園だった。
中にはきちんと整備されたバスケットコートがあり、ストリートバスケができるようになっている。
「賭けバスケって……あの人たちと?」
名前の視線の先にいるのはコート内でドリブルをしているスキンヘッドの男だ。
その傍らでは金髪とパンチパーマの二人がストレッチをしている。いや、ガラ悪いな?
「おー。ちなみに受けたのはハギな」
「萩原くんって意外と悪いよね」
「俺より極悪だぞ、ヤツは」
ふふ、とつい笑いが零れる名前だが、もしかしてメンバーに数えられているのだろうかと我に返る。
「……え、私は無理だよ?」
「あ?何言ってんだ、ここまで来て」
「いやいや、無理でしょ常識的に考えて」
女一人なんて、即削られるに決まってる。
「大丈夫だって。アイツらバスケには真面目だから」
「彼らの何を知ってんの?」
名前が思わずツッコむと、背後から「あー来た来た」と萩原の声がした。
はい苗字さんの分、と飛んできたのはペットボトルのスポーツドリンクだ。
「ハギ、コイツ経験者」
「え、マジで?」
萩原がキラキラと目を輝かせる。
それを見た名前は、これは逃がしてもらえそうにないと肩を落とすのだった。
そうして始まってしまった賭けバスケだが、意外にも真面目な3on3となった。
相手はガラが悪いだけでプレーは至ってクリーンで、目立ったファールもなくフェアプレーに徹している。
かといって女子だからと名前に遠慮することもなく、なんて真面目なんだと彼女は感心した。いや、金賭けてるけど。
「いやお前、安定感がすげぇな…?」
「やっぱなー。手が大きいとハンドリング得意そうだと思ったけど、バッチリじゃん」
しかも経験者って俺らツイてるー、と萩原がにんまり笑う。
名前はパスも正確でキャッチミスもなく、彼らにとって理想的な助っ人となったようだ。
彼らも経験者なのか、あるいは運動神経が抜群にいいだけなのか、腕に自信があっただろう相手チームを圧倒している。
「ッしゃあ!」
最後は松田が難なくロングシュートを決めて、こちらの勝利が決まった。
「おっしゃ、儲けた儲けた」
「……悪っ」
「だろ?」
半目の名前が見つめる先では、萩原が千円札の束を慣れた手つきで数えている。その姿は高校生ながらに、優男を装ったインテリヤクザに見えなくもない。
名前はスポーツドリンクを飲みながらじっとりとした視線を萩原に向けるが、彼は振り向くといつも通り緩く笑った。
「三人でパーッとメシでも食おうぜー」
その力の抜けた笑みを見ると、こちらまで気が抜けてしまうから不思議だ。
名前はハァ、とため息をついてから辺りを見渡し、視界に入ったものを「あ」と指差した。
「私あれがいい。クレープ屋さん」
「女子か?」
「女子なんだけど?」
松田からのこの扱い、ちょっと物申したい。
「いいじゃんスポーツの後の甘いもん。俺は苗字さんに賛成ー」
松田の肩を抱いて歩き出した萩原に、彼は「げぇ」と声を漏らす。
「松田くん甘いの苦手?食事系もあるよ」
ワゴン車を利用した移動式のクレープ屋に向かい、メニューを見ながら名前は松田に示してみせた。
「ほら、あの辺」
「あー……じゃあツナ」
消去法で注文したらしい松田だが、いざ食べてみれば「わりとイケんじゃん」と頬を緩ませていた。
しかし賭けバスケで勝ってクレープ屋で買い食いとは。
青春しているようなしていないような、なんとも微妙な心境になる名前だった。
***
仕事を終えて帰宅した名前は、早々に服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。
(今日もなんか嫌な雰囲気だったな)
熱いお湯を被りながら思い起こすのは、今日のスタジオでの光景だ。
先日控室前で嫌味を言っていた二人組のモデルは、どうあっても名前が嫌いらしい。
二人は自分たちの撮影が終わったからとわざわざ彼女がいるスタジオに見学に来て、その撮影風景をクスクス笑って眺めていたのだ。
今思い出しても腹が立つ、と名前はワシャワシャと乱雑に髪を洗う。
その様子を見ていた兼倉が「あの子たちと何かあった?」と聞いてくれたが、名前は何もないと答えた。だって実際に何もない。
嫌味を言われる程度ならよくあることだし、忙しい社長に負担を掛けるほどでもない。
彼女は苛立ちを飲み込んで、今日の撮影ノルマを終えたのだった。
シャワーを終えた名前は、その顔に再びメイクを施す。時間があるので髪も軽く巻いた。
今日は前々から松田に「メシ行こう」と誘われていた日だ。
居酒屋でテンションが上がっていた名前を、今度は美味しい日本料理の店に連れて行ってくれるらしい。
(楽しみだなー)
そろそろ家を出ようかと思ったところで、タイミングよくスマートフォンが鳴る。松田からの電話だった。
「もしもし」
『終わった?』
「うん。ちょうど家出ようとしてたとこ」
そう答えると、電話の向こうで不自然な間が空いた。
「陣平?」
『…あー、悪ぃ。今日無理になった』
思わず「えっ」と声が漏れる。聞くと、どうやら仕事が入ってしまったらしい。
(仕事……)
帰国してから、松田の仕事内容についてはあえて触れないようにしていた。
所属がかつて萩原から聞いたものと変わっていないのであれば、彼はこれから爆弾の解体に向かうということだ。
『今日中に終わるかどうかもわかんねぇし、また埋め合わせするわ』
彼の声色はいつもと変わらない。
それでもドクンと嫌な音を立てて弾む心臓に、名前は耳に当てたスマートフォンをぎゅっと握り締めた。
「終わったら、連絡くれる?」
『あ?だから今日は』
「何時になってもいい。寝てるかもしれないし、メールでもいいから」
とにかく連絡してほしいと続けた名前に、松田は一拍置いて『わかった』と答える。
通話が終わって暗転した画面をじっと見つめながら、名前はひどく落ち着かない気持ちでいた。
仕事なんて彼にとってはいつものことだ。名前が帰国する前も、帰国してからも、こうして突然出動することなんてきっと何度もあっただろう。
それでも、意識してしまえばこんなにも心に囚われてしまう。
(大丈夫だよね?)
したばかりのメイクを落とす気にも、巻いたばかりの髪を洗う気にもなれない。
とはいえ何かしてなければ気が狂いそうだ。名前はあえて普段通り過ごすことにした。
しかし手にローションパックをしたり、クリームでマッサージしたりと、いつも通りのケアをしている間も名前の気持ちは落ち着かなかった。
キューティクルオイルを爪の間に塗り込んで揉み込みながらも、その視線はうんともすんとも言わないスマートフォンに向いている。
雑誌を開いてもテレビをつけても、内容が全く頭に入ってこなかった。
ふと時間を確認すれば、あれから二時間は経っている。
(……大丈夫、だよね)
萩原くん、と縋るように彼の名前を呼ぶ。
こんな時彼に笑い飛ばしてもらえたら、どんな不安もどこかへ消えてしまうのに。
ローテーブルに突っ伏した名前は、仕事の疲れからか次第に眠気に誘われていった。
***
名前ちゃん。
低い声にそう呼ばれた気がして、名前は重い瞼を持ち上げた。
視界に入る時計は日付が変わる少し前の時間を指している。
(もう、そんなに経ったんだ)
突っ伏していたローテーブルから体を起こすと、固まってしまった腰や背中がパキパキと音を立てた。
「んん」
ググッと伸びをして、スマートフォンのランプが点滅していることに気付く。
「あっ、メール」
ランプの色は未読メールの存在を示す色だ。
慌てて確認すれば、もちろん送信者は松田だった。届いたのは今から十分ほど前らしい。
『終わった』
その短い一言で全身から力が抜けていく。よかった、と長いため息が出た。
「お疲れ様、と」
メールを返し、メイクを落として軽くシャワーを浴びようと立ち上がる。
すると脱衣所に入る直前で、ローテーブルに置かれたスマートフォンが振動を響かせた。この長さは電話だ。
慌てて戻った名前がディスプレイを確認すると、それは予想通り松田からの電話だった。
「もしもし」
『今出てこれるか』
「え?」
前置きなしに言われた言葉に目を瞬かせる。
『下にいるから』
下?と首を傾げた名前だったが、ハッとして部屋のカーテンを開ける。
エントランス側に面したその窓からは、下に停まる見慣れない車がよく見えた。
その傍らには人影があり、そこから細い煙が上っている。
「す、すぐ行く!」
スマートフォンを握り締めたまま名前は部屋を飛び出した。
マンションのエントランスを出れば、そこには車にもたれるようにして紫煙を燻らせる松田の姿がある。
エントランスの灯りに照らされた彼は、相変わらず黒いスーツに暗色のネクタイという喪服のような出で立ちだ。
「……ふ、急ぎすぎ」
煙を吐き出した松田が、息を切らせた彼女の姿を見て小さく笑う。
それを見た途端急に気恥ずかしくなった名前は、乱れた髪を整えながら彼に近づいた。
「…お疲れ様」
「おう」
「寝てたらどうするつもりだったの?」
「そりゃ帰るだろ」
ちょうど通り道だったと言いながら、松田は名前に「ん」と何かを差し出した。
名前が咄嗟に受け取ったそれは温かい缶コーヒーだった。
「ありがとう」
お礼を言う名前だったが、彼女は普段から缶を開けるのに手を使わない。
部屋に戻ったら飲もうと両手で暖を取っていると、松田の手が再びそれを奪い取った。
え、と目を丸くした名前の視線がそれを追いかける。松田は煙草を口に咥えたまま、缶のプルタブを開けてからもう一度彼女に手渡した。
「あ、ありがとう……」
「手がかかるな、姫サマは」
意地の悪い笑みにも反論できず、苦笑してからそれに口をつける。
口の中に広がったまろやかな甘みに、名前はホッと息をついた。
「カフェオレ派なの、覚えてた?」
「たまたまだろ」
そっけない返しに、名前も「ふうん」と短く返す。
「仕事、疲れた?」
「楽勝。始めるまでに時間食っただけ」
「そっか」
仕事の内容までは聞こうとしない名前に、松田もまた気付いているのだろう。その話はそこで終わり、二人の間に沈黙が落ちた。
カフェオレで温まりながら、名前は松田が吐き出す煙をぼんやりと見つめる。
萩原くんも煙草吸ってた?と聞きたい気もするが、帰国してから松田の前でその名前を口にしたことはない。
(きっと、それにも気付いてるんだろうな)
あれからもう四年だ。彼の死を受け入れていないわけではない。
それでもなぜか、松田の前ではそれを考えたくなかった。言葉にしなければまた三人でいられるような、そんな幻想を抱いているのかもしれない。
ふと煙が途切れ、松田を見れば携帯灰皿に吸い殻を入れるところだった。
「じゃ、行くわ」
一服ついでに寄っただけだったらしい。
うん、と名前が頷けば、「さっさと寝ろよ」とだけ言って松田は車に乗り込んだ。
テールランプが遠ざかっていくのを眺める名前の手の中で、缶のカフェオレがまだほのかに熱を持っていた。
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