後日談
※結婚済み、子供あり
※松田の所属部署不明


夢うつつに、名前は頬に優しく触れるものを感じた。
一度だけ啄むようにそっと触れた後、今度は大きく温かな手が髪を撫でる。

生後半年になる娘は名前の隣で静かに寝ているし、別室で寝ていた彼が起きたのだろう。
どんな顔で撫でているのか見てみたい気もするが、薄目を開けた瞬間に撫でるのをやめてしまいそうだ。
もう少しだけ、その優しい手に身を委ねていたい。そう思った名前は、もうしばらく微睡みの端に留まることにした。

「―――――」

ぽつりと、小さな呟きが落ちる。
え?と思った時には、彼は衣擦れの音とともに寝室を出て行ってしまった。

名前はゆっくりと瞼を上げ、ぱちりと瞬きをする。今のはなんだろう。
「いつもありがとな」とも、「めっちゃ寝てるな」とも聞こえたし、彼ならそのどちらもあり得そうだ。

ふと視線を落とせば、隣にはピッタリとくっつくようにして娘が眠っている。
横向きのまま寝ていた体はすっかり固まってしまっていて、早く起き上がってグッと伸びをしたい。しかし下手に動けば娘を起こしてしまいかねない。

寝室の外からはカチャカチャと食器の音が聞こえている。
きっと二人を起こさないよう、一人で食事を済ませて出ていくつもりなのだろう。

(見送りくらいはしたいな)

名前は娘が起きないよう、横になったままじりじりと少しずつ後退した。
娘との間に空間ができるとすかさずそこに毛布を置き、さらに少しずつ後退する。
いけるか、と思ったところで娘がすぅっと大きく息を吸うのがわかって、咄嗟にピタリと動きを止めた。

―――目を開けませんように。

その祈りが通じたのか、吸った息をゆっくり吐き出した娘が、再び規則正しく寝息を立て始める。
よし、と心の中でガッツポーズをしてから、ゆっくりと布団を抜け出した。正直これだけで一仕事終えた感がある。

音を立てないようにドアを開ければ、そこに見えたのは今にも出て行きそうな後ろ姿だ。
名前はそっとドアを閉め、音もなく近づいてスーツの裾を引いた。

「おわっ」

バッと振り返ったところに慌てて「しーっ」と指を立てる。そうすれば青みがかった瞳が呆れたように細められた。

「いや、それなら驚かせんじゃねぇよ……」
「ごめんごめん」

悪戯っぽく笑ってから、名前は緩く結ばれたネクタイを一度ほどいて締め直す。
どうせ緩めるからといつも適当に結んで出ていくくせに、陣平は「やめろ」とも言わずにされるがままだ。
名前が締め直した日は絶対に緩めず、帰るまできちんと整ったままにしているのを名前は知っている。この男はそういうところが可愛いのだと、名前は思わず頬を緩ませた。

「何ニヤけてんだよ」
「んーん、別に。はい、できた」

胸元をポンポンと叩いてみせれば、陣平が「おう」と短く答える。
それから名前は胸元に添えた手はそのままに、グッと背伸びをして無防備な唇に自身のそれを押し当てた。
突然のキスに一瞬目を丸くしてから、陣平は照れ隠しのように眉根を寄せる。

「……んだよ。いつもはしねぇじゃん」
「でも好きでしょ?こういうの」
「めちゃくちゃ好きだわ」

ふふっと笑う名前を、陣平が力いっぱい抱き締めた。
ぎゅうぎゅうと抱き締められながら「うっ」と苦しげな声が出るが、腕の力は緩まない。

「お前な、今夜は覚悟しとけよ」
「ええ…期待はしないでよ……」
「うるせぇ。俺が死ぬ気で寝かしつける」

何もかも娘次第だと思って答えたのに、陣平はそれすらどうにかするつもりらしい。
「それなら文句ねぇだろ」と続けたこの男、実際に育児まで器用にこなすのだ。なんとも頼もしい父親である。

「じゃ、行ってくるな」
「ん、行ってらっしゃい」

体が離されると同時に降ってきた唇を受け止め、出勤していく陣平を見送った。

さて、この隙に自分も朝食を。と思った名前だったが、そう思い通りにいかないのが子育てである。
タイミングよく聞こえてきた泣き声に寝室のドアを開けると、うつぶせになった娘が泣きながら布団から這い出そうとしていた。

「はいはい、ごめんね。一緒にご飯食べよ」

縦抱きにしてリビングに戻るが、うろうろ歩き回ってみてもなかなか泣き止まない。
しかし名前が「ほら」と壁に掛けられた額縁を指差せば、娘は不思議なほどすっと泣き止んだ。

「綺麗だよね。これが結婚式ので、これが去年の同じ日の」

それから名前はキャビネットの上に置かれた卓上カレンダーを確認し、「多分、来月にはまた届くよ」と続ける。

二つの額縁に収められているのは、どちらも陣平が撮影した花束の写真だ。
これまでに二度贈られたそれは、贈り主の立場を考えて保存することはできなかった。その代わりに写真に収めて飾っているのだが、どうやら娘は色とりどりのこの写真がお気に入りのようだ。
父親と同じく青みがかった真ん丸の瞳が、食い入るように写真を見つめている。

ふと、部屋着のポケットの中でスマートフォンが震え、名前はそれを取り出した。

「兼倉さん、こんにちはー。ふふっ、元気ですよ。さっきまで泣いてましたけど」

スピーカーにしますね、と声をかけて画面をタップすれば、娘の名前を呼ぶ甘ったるい声が聞こえてくる。
娘はそれにきょとんと目を丸くしたあと、応えるように声を上げた。

「兼倉さんの声が聞けて嬉しいみたい。また遊びに行きますね」

妊娠がわかってから仕事もずっと休みっぱなしなのに、まるで親戚のように接してくれる兼倉には頭が上がらない。
スピーカーから聞こえる嬉しそうな彼女の声に応えながら、名前は目の前に飾られた写真をそっと撫でた。

(……元気にしてるかな)

レースカーテン越しに差し込む柔らかな日差しが、二枚の写真を優しく照らしている。
花束のリボンには同系色のペンで小さなサインが施されているが、それはこうして目の前で見なければわからないほどにさりげない。

(あれから一度も会えてないもんなぁ)

名前の脳裏に浮かぶのは、いつの間にかポアロから姿を消していた金髪の男だ。
マスターも店を辞めた彼のことはわからないようだったし、彼を見かけたという話も全く聞かない。

それでも、こうして年に一度届く花束が彼の無事を知らせてくれる。陣平も「花より肉寄越せ」と文句を言いつつ、なんだかんだで楽しみにしているようだ。
リボンのサインが数字のゼロであることを知っているのは、名前の知る限りたった三人だけ。
いつかその三人が顔を合わせる時が来るのかどうかは―――今はまだ誰にもわからない。


prevnext

back