04
その日名前は一人で帰ろうとして、下駄箱の靴に一枚の紙が乗っていることに気付いた。
二つ折りのそれを開くと何やら文字が書いてある。
『放課後屋上に来てください』
やや崩れた字体は男子のものと思われたが、名前はそれを悪い呼び出しと判断した。
小学生の頃から手のことをからかわれ続けた彼女は、残念ながら意味もなく因縁をつけられるのに慣れすぎていた。
(こわ。無視しよ)
その呼び出しに他の目的がある可能性など考えもしない。
名前はその紙を持ったまま靴を履き替え、昇降口を出た。
「わっ」
不意の突風に煽られて、手に持っていた紙が飛んでいく。
しまった、と名前は慌ててそれを追いかけた。あれにはバッチリ『苗字さん』という宛名があるのだ。
なんとか追いついて拾い上げたところで、どこからかカチャカチャと金属音のようなものが聞こえてくる。
校舎の陰を覗き込むと、そこにいたのは松田だった。
「……何やってんの?」
「うおっ」
原付をいじっていたらしい松田が体を跳ねさせる。
「なんだ苗字かよ……先公かと思ったぜ」
「ここ、学校の敷地内だけど」
「バレたら許可取るわ」
「順番逆じゃない?」
うるせーな、と面倒臭そうに呟く松田の顔には、ガーゼや絆創膏が至るところに貼られている。
「え、顔どうしたの」
「昨日他校生と喧嘩した」
そう言いながら松田は原付の分解を再開する。喧嘩っ早いとは聞いていたが、どうやら本当にその通りらしい。
先程から目線でしかこちらを見ない松田が気になり、名前はその顔を覗き込んだ。
「なんでこっち向かないの?」
「うわっ」
再び体を跳ねさせた松田が、思いっきり反対方向に顔を逸らす。
「お前な、それやめろ……心臓に悪ぃ」
「ちょっと一回こっち向いて」
何か隠してる。そう思った名前が距離を詰めると、松田は数秒その体勢のまま沈黙した後、ヤケクソのようにこちらを向いた。
「……だーっクソ、こーなっとんの!」
イーっと松田が歯を見せる。驚いたことに、そのうち一か所が空洞になっていた。
「えっ、歯がない」
「殴られて折れた。差し歯確定だわ」
「うそ」
目を丸くしてそれを見つめていた名前が、ふいにプッと吹き出す。
「…ふっ、あははっ、どうしよ、面白いっ」
「あー笑え笑え」
「だって松田くん…ふふっ…か、可愛い」
半目で睨まれても全く迫力がなかった。
さすがの彼にも照れがあるのか、ムスッとしながらも頬がうっすら赤く染まっている。
「…見たからには道連れだ。これ持ってろ」
「ふふ…っ、え、なに」
松田に手渡されたのは取り外したらしい原付の部品だ。風で転がると困るらしい。
これと、これと、これも、と容赦なく手渡されてあっという間に両手がいっぱいになる。
「手がデカいといっぱい持てていいな」
「え、イジってる?」
「なんでだよ。人よりたくさんの物が掴めるんだからすげーだろ。自信持てや」
名前は一瞬きょとんとして、やがて言葉の意味を飲み込んでふにゃりと頬が緩むのを感じた。
だらしなく緩んだ表情が松田に見えないよう、俯いて地面に視線を落とす。
「……そういうことサラッと言えるの、カッコいいなあ」
「あ?」
「萩原くんばっかり優しい人扱いされてるけど、松田くんも本当は優しいよね。やっぱり協調性の有無って大きいな」
「褒めてんのか貶してんのかどっちなんだテメーは」
「褒めてるし、協調性身に着けようってアドバイスしてる」
「余計なお世話すぎだろ」
軽口を叩きながら気恥ずかしさを誤魔化していると、松田が今思いついたというように「あ」と声を上げる。
「つーかお前指細いから、表面積とか体積とかで考えたら負けてねーじゃん俺」
「どういう比べ方?」
ふ、と名前が笑いを零している間に、手に持っていた部品がどんどん回収されていく。
名前には何をやっているのかよくわからない程の早さで修理が終わり、手のひらがすっかり軽くなった。
「これで終わり?もう行っていい?」
「おー、サンキュ」
「じゃあまた明日」
足早にその場を離れ、校門へと向かう。
顔を上げないようにして急いでいると、「あ、苗字さん」と声がかかって慌てて足を止めた。
「萩原くん」
「悪ぃけど、陣平ちゃん見なかった?」
「あの………あっち」
俯きがちに今来た方を指差せば、萩原が「ん?」と顔を覗き込んでくる。
「どしたの苗字さん。顔赤くね?」
「ん゛っ」
隠したかったところを指摘され、思わず腕で覆って顔を逸らした。
「え、なになに。あっもしかして告られでもした?」
「な……ないない。絶対ない」
「そ?苗字さん美人だし、あり得るっしょ」
「ないよ手デカいし。ごめんもう行くね」
早口でそう言って、今度こそ帰ろうと小走りで校門へと向かう。
その背後で、名前のポケットから落ちた紙切れを萩原が拾い上げていた。
「いや、バッチリ呼び出されてんじゃん?」
おもしれー、これ陣平ちゃんに言ったらどんなリアクションすっかな。
そう呟く彼の笑い声は、逃げるように走る名前には届かなかった。
***
「……え、それは…」
困惑した様子で眉根を寄せた名前に、目の前の兼倉もまた眉尻を下げてため息をついた。
「クライアントの意向なのよ。ホント、名前ちゃんのことを気に入ってくれてるのはありがたいんだけど……」
名前以外のモデルたちが撮影を担当するアパレルライン。
その新作であるクラッチバッグの撮影の一部を名前に任せたいという話だった。
具体的には、クラッチバッグを持つ手元に寄ったカットだ。
そこだけ聞けばパーツモデルである名前に担当が回ってくるのは自然とも思えるが、担当していたモデルたちからしたら仕事を横取りされるようなものだ。
「トラブルの匂いがぷんぷんしますね」
「やっぱりー?ごめんなさいねぇ……あの子たち初日からちょっと怪しいものね…名前ちゃんに対して」
「……気付きますよね、さすがに」
ハァ、とため息をついた名前に、兼倉は申し訳なさそうに箱を一つ取り出した。
「これ、クライアントから。新作のフレグランスですって」
「はあ……香水つけないですけど」
「一応受け取っておいて、形だけでも」
はぁい、と力なく返事をする。
「あの子たちの事務所とも連携してトラブルが起こらないように目を光らせておくから」
「ありがとうございます」
よく見ると兼倉の目元にはクマが刻まれているし、肌も荒れている。長丁場の現場で彼女自身疲れ切っているのだろう。
ここは自力で乗り切らなければと、名前は心の中でひそかに気合いを入れた。
―――のも束の間。
バッグの撮影を終え、いざ帰ろうと控室を出た名前だったが、ドアの鍵を締めているところにドンッと強い衝撃を受けてよろめいた。
肩に掛けていたショルダーバッグが通路の床に落ち、ガチャンと嫌な音がする。
「あっ、ごめんなさーい」
「お先に失礼しまーす」
クスクスと笑いながら、二人のモデルが立ち去っていく。
そしてその場にはフローラル系の強い香りがぶわっと漂った。バッグの中で香水の瓶が割れてしまったのだろう。
名前はその場に立ち尽くしながら、ふるふると肩を震わせていた。もちろん怒りでだ。
「………最っ悪…!」
一気に気分が悪くなったのは、きっと強い香りのせいだけではない。
気持ちを落ち着かせるために長い長いため息をついてから、名前はバッグを片付けるべくその場にしゃがみ込んだ。
***
乾杯した途端あっという間にジョッキを空にした名前に、松田はわかりやすく引いた目を向けた。
「……荒れてんな?」
名前は隣に立つ松田を見上げるが、その目は早くも据わっている。
「荒れてます」
「そんな飲んだら、明日の仕事に響くんじゃねぇの」
「明日はオフです!」
力強く拳を握ってみせた名前に、松田は「あっそ」と呆れた様子で返す。
怒りとストレスが飽和状態になった名前がダメ元で松田を飲みに誘ったところ、少し遅い時間にはなったものの、以前にも来た立ち飲み居酒屋で合流することができたのだった。
名前にも愚痴を吐ける女友達の一人や二人いるのだが、いかんせん既婚者やら遠方やらで誘える相手がいない。
付き合ってくれるのが元彼だけというのはなんとも複雑な気分だが、こうして来てくれた松田には感謝しかなかった。
「それでお気に入りのバッグはダメになるし、シャワー浴びても匂いが取れてない気がするし……何よりそろそろ兼倉さんが倒れちゃいそうだし」
名前は酒の勢いに任せて、苛立ちの原因や愚痴を吐き出し続ける。松田は合間に適当な相槌を打ちつつ、酒を飲んでは紫煙を燻らせていた。
「一応別業種なのに出しゃばられて腹が立つ気持ちもわかるけど、クライアントの意向だし。私や兼倉さんにはどうしようもないし」
「そうだな」
「大体、やたらと下に見てくる感じが腹立つ…!人がさぁ、この手にどれだけの時間とお金をかけてると思ってるのかな!」
バーンと音がつきそうな勢いで手のひらを突き出す。
「……ん?やっぱまだ匂うかな」
シャワーで洗い落としたはずの香りが漂ってきたように感じて、名前は手の匂いをすんすんと嗅ぐ。
するとそこに松田が顔を近づけてきて、思わずビクッと肩が跳ねた。
松田は彼女と同じように手元に鼻先を寄せ、すん、と匂いを嗅ぐ。
「あー、なんか花みてぇな匂いがする」
そう言いながら顔を上げた松田は、名前が固まっているのに気付いてふっと笑った。
「キスされるとでも思ったか」
楽しげに細められた目に見つめられながら、名前は目を丸くしたまま硬直している。
少しして我に返ったように目を瞬かせた彼女は、ふいっと顔を逸らし、「思ってない」と短く答えてジョッキを呷った。
隣で松田がクク、と肩を震わせて笑っているのがわかる。
「……陣平、性格悪い」
「今更だろ」
「ほんと、顔の良さを自覚してるイケメンはタチが悪いよ……萩原くんだって、」
あっ、と思うより早く、涙がポロッと目から零れた。
「…ごめん」
手で目元を覆った名前に松田が短く息を吐く。
「情緒不安定かよ……」
「………」
「ここ来てもう一時間か。立ちっぱなしもキツイし、そろそろ帰るか」
「もう一軒行く」
バーカ、と呆れたように言って、松田は煙草を灰皿に押し付けた。
「今日はもう寝とけ」
その声色がいつもより優しく感じた名前は、「うう」としばらく唸った後、素直に頷いた。
「……ごめん、結局私がひたすら愚痴っただけだったね」
会計を済ませて店を出つつ、申し訳なさそうに眉尻を下げた名前が言う。
普段よりハイペースで飲んだということもあって、頬は熱いし足元もふわふわしている。
駅まで歩ける気もしないので、大通りに出てそれぞれタクシーを拾うことになった。
「まあ、今日はそのつもりで来てるしな」
「うー…優しい……」
どうしちゃったの?と聞く名前に、松田は「あぁ?」と片眉を上げた。よかった、いつも通りの彼だ。
「陣平が優しいのは昔から知ってるけどね」
「おう、どうした酔っ払い。欲しいモンでもあんのか」
「本心だよ」
ふふ、と頬が緩む。酔いが回っているからか、いつもより口が軽い気がした。
「陣平は覚えてないかもしれないけど、からかってくる男子を追い払ってくれた時すっごく嬉しかったんだよ」
「……そーかよ」
「自信持てって言ってくれたのも嬉しかったし。おかげで今はわりと自信あるの」
「そりゃよかったな」
話しながら歩いていれば、大通りまではあっという間だった。
松田はちょうど通りかかったタクシーを止めて、名前に乗るよう促した。家の方向が違うので、彼はまた別のタクシーを捕まえるつもりなのだろう。
「今日はありがとう」
「おう」
「じゃあ……わっ」
「っと」
タクシーに乗り込もうとした名前が足を縺れさせ、近くにあった松田の手首を咄嗟に掴んだ。
勢いを殺せたおかげでそのままシートにぽすんと座ることができたものの、名前は手を離さない。
(……離したくないなぁ)
らしくない行動はきっと酒のせいだ。
「名前?」
手を掴まれて中途半端に腰を曲げた状態の松田が、滅多に呼ばない彼女の名前を呼ぶ。
急に呼ぶのは卑怯だと、名前の手にきゅっと力が入った。それに何を思ったのか、黙り込んだ松田と視線が交錯する。
ほんの瞬き程度の沈黙の後、松田のもう一方の手が名前に伸びた。
「バーカ」
「いたっ」
ぺしっと額をはたかれて、その勢いで手が外れる。
その隙に体を起こした松田は「んじゃおやすみ」とそのまま踵を返してしまった。
パタンとドアが閉じ、タクシーが走り出す。
ぽかんとした表情で額を押さえたままの名前は、翌朝自分がしたことを思い出して羞恥に悶えることになるのだった。
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