05


冬のキンと冴えた空気と、雪を溶かす温かな日差し。
真冬の冷たい陽気に包まれながら、名前は休日のレンタルビデオ店を訪れていた。

暇つぶしに観るDVDを物色していると、肩をポンと叩かれて面白いほど体が跳ねる。

「ふはっ、ビックリしすぎでしょ、名前ちゃん」
「はっ、萩原くんか…ビックリした……」

背後に立っていたのは私服姿の萩原だ。
ドコドコと太鼓を叩くような鼓動に、名前は思わず胸元を押さえた。

「何借りんの?」
「まだ考え中」
「うわ、この辺ゴリッゴリのホラーばっかじゃん。意外すぎねぇ?」
「そう?あ、これとか面白かったよ」

そう言って名前が差し出したパッケージに、萩原は「うげっ」と顔を青くした。

「名前ちゃん、たまにすげー男前だよなぁ」

苦笑しながらパッケージがそれ以上近付かないよう手で押さえる萩原を見て、名前はふふっと頬を緩めた。

「苗字さん」が「名前ちゃん」に変わったのは、いつのことだっただろう。
萩原は人との距離の取り方も、距離の詰め方も上手い。その人当たりのよさはきっと天性のものだと名前は思っていた。

「ちなみに俺のおすすめはコレね」

彼が手にしていたのはカーアクション物のDVDだ。やや古めの作品で、名前はタイトルすら聞いたことがなかった。

「車が好きなの?」
「俺、車の修理工場の息子なんで」
「へえ、そうなんだ」

受け取ったケースに視線を落としていると、急に小声になった萩原が「名前ちゃんさ」と切り出す。

「陣平ちゃんのこと好きでしょ」

その言葉にバッと顔を上げた名前は、慌てた様子でキョロキョロと周囲を見渡した。
よかった、誰もいない。

「ぶふっ、あからさますぎねぇ?」
「だ、だっていきなり……」
「いやー、さすがに陣平ちゃんがいる時には話せねーしさ」

へらっと笑う萩原に、名前は諦めたような表情でため息をついた。

「萩原くんには、なんでもわかっちゃうね」
「洞察力には自信あるぜ?…ってのは置いといたとしても、名前ちゃん結構わかりやすいし」
「え、ほんと?」

名前は思わず目を丸くした。
それなら松田も気付いているのだろうか、と焦りが支配するが、それを目の前の男に聞いていいものかわからず思考がグルグル巡る。

「俺は二人とも大好きだから、上手くいってくれると嬉しいんだけど」

そんな名前の心境を知ってか知らずか、萩原がたれ目がちの目元を柔らかく緩めた。

「上手くって……私一人頑張ったところでどうにかなるわけじゃ…」
「一人じゃないかもよ」
「え?」

言葉の意味がわからず聞き返すが、萩原はニッコリ笑うだけだった。

「ま、俺も協力するし」
「……萩原くんって優しいよね、ほんと」

名前がため息混じりにしみじみと呟く。

「女の子なら誰にでも優しくしちゃうから、大体の子には好かれるけどたまにめちゃくちゃ嫌われるぜ?」

あっけらかんと言う萩原に、名前は思わず笑みが零れた。

「ふふっ、そうなんだ。でも、そもそも誰にでも優しくできるのが長所だと思うけど」
「そ?」
「うん。私や松田くんには絶対無理なやつ」
「ふはっ、確かに」

特に松田に関しては説得力があったのか、萩原は目尻に涙が浮かぶほど笑った。

「ね、このDVDどこにあった?観てみたい」

そう言って萩原おすすめのDVDを示すと、彼は「おっ」と目を丸くする。それから「こっちこっち」と嬉しそうに名前を案内した。





***




「乾杯!」
「お疲れ様でしたー!」

落ち着いた照明のジャズバーで、グラスの当たる小気味のいい音が響く。

「苗字さん、今回はありがとうございました。色々と我儘も聞いてもらって」
「いえ。ご一緒できて光栄でした」

流暢な日本語で話しかけてきたのは、今回の現場の責任者だ。
フランス本国から出向し、ブランドの日本法人で広報を担当している。

「お好みのカクテルなどはお有りですか?」
「あー、ビール党でして……カクテルにはあまり詳しくないんです」
「この機会にいかがですか。バーテンダーにおまかせもできますよ」
「じゃあ二杯目はそうさせていただきます」

へらっと名前が笑うと、男は満足そうに微笑んで踵を返した。

長かった現場もようやく全ての撮影が終了し、クライアントの厚意で打ち上げの席が設けられた。
兼倉は参加できなかったため名前まで断るわけにもいかず、こうして渋々顔を出しているのだ。

早々に一杯目のビールを飲み終えた名前は、先程の勧め通りバーテンダーに適当なカクテルを注文した。
付き合い程度に何杯か飲んで、一次会が終わると同時に退散しよう。
そう考えた名前が差し出されたカクテルグラスに手を掛けたところで、隣のカウンターチェアに女性が腰掛けた。

「苗字さん、お疲れ様でしたー」

それは度々不穏な空気を漂わせてきた、ファッションモデルの一人だった。

「……お疲れ様でした」
「長かったですねー。やっと終わって一安心って感じです」
「そうですね」
「なんか私、苗字さんのこと誤解しててー。嫌な感じの人なのかなって。ずっと態度悪くてすみませんでした」

申し訳なさそうに眉尻を下げてみせた女性に、名前は「はあ」と気のない返事を返す。

「あ、そういえばウチの社長が挨拶したいって、さっき探してましたよ」
「そうなんですか」

振り返って視線を巡らせるが、貸し切り状態のジャズバーはスタッフや各事務所の人間でいっぱいだ。

「あれです、あのグレーのスーツの」

女性が指差す先では、壮年の男性がグラス片手に談笑している。

「…じゃあ、ちょっと挨拶してきます」
「はーい」

なんだか拍子抜けする思いで名前はカウンターを離れた。

女性に教えられた男性に声を掛け、お互いに自己紹介をして労いの言葉を掛け合う。
社交辞令とはいえ仕事振りを絶賛されたのには思わず恐縮したが、所属モデルの愚痴を吐かれたのにはうっかり頷きそうになってしまった。

短い会話を終えてカウンターに戻ると、先程の女性はまだそこに座っていた。

「おかえりなさーい」
「どうも」

適当に会釈をして、手付かずだったカクテルに口をつける。

(うわ、全然美味しくない)

ビール党だからか、飲み慣れない酒は全く美味しく感じなかった。
それどころか苦味すら感じた気がする。

「どーかしました?」
「あ、いえ」

もう一口飲むが、やっぱり美味しくない。

(やっぱビールがいいなー)

さっさと飲み干してビールに戻そうと考えた名前だったが、もう一度グラスを持ち上げようとして手に上手く力が入らなかった。

(………え?)

途端に視界がぐらりと揺らぎ、慌ててグラスから手を離す。

「えっ、大丈夫ですか?苗字さん」
「…あ……えっと」

悪酔いでもしたのだろうか。
気を抜いたら倒れてしまいそうで、重い瞼が閉じないよう必死に堪える。

「体調悪いなら帰った方がいいですよ。私、後で広報さんに言っときます」
「……すみません…」
「荷物これだけですよね?あと上着か」

テキパキと準備を済ませた女性が、腕を引いて名前を立たせた。
足元はふらつき、瞬きすら億劫に思える。

女性が貸してくれた肩をありがたく支えにしながら、名前はゆっくりとした足取りで店を出た。
店は大通りに面していて、すぐ近くには客待ちのタクシーが数台停まっている。

「……あの、ありが、」

振り返って言い終わる前にドンと押され、名前の体がよろめいた。

(え、)

たたらを踏んだ名前の背中が何かにぽすりと当たって止まる。
目線の先では女性が腕を突き出して、楽しそうに笑っていた。

「後はよろしくね」
「おう」

背後から低い声が聞こえて咄嗟に離れようとするが、そうはさせまいと二の腕が強く掴まれている。
女性はそれにクスッと笑って、店内へと戻っていってしまった。

「…え、待って。なに…」
「あー大丈夫。体調悪いんだろ?家まで送ってやるだけだから」
「え……?」

今にも閉じそうな瞼を必死にこじ開けて背後を窺うと、そこにいたのは体格のいい見知らぬ男だった。
目には獲物でも見るようなギラリとした鋭さがあり、熱っぽい息が首筋辺りにかかる。

「や、やだ、離して」

なんとか身をよじるが男はビクともしない。

「眠いだろ?無理すんなよ」
「ひっ」

覗き込むように近づく顔を咄嗟に手のひらで押さえる。力の入らない手が小刻みに震えているのが自分でもわかった。

「寝てくれた方が運ぶのも楽なんだよなぁ」

ググッと近づいてくる顔から逃げるように顔を背け、ぎゅっと目を瞑る。

「いや…っ!」

暗くなった視界にこちらを不機嫌そうに見つめる男が浮かんだ気がして、名前の目尻に涙が滲んだ。
陣平、と音もなく唇が動く。

「しょうがねぇなー、ホラ早く車に」
「僕の連れに何かご用ですか?」

男の厭らしい声を遮るように、低く柔らかな声がした。
名前が無理矢理瞼を上げると、薄く開いた視界に綺麗な金色が映り込む。

「……はぁ?」
「連絡を受けて迎えに来たんですが…何か失礼でもあったでしょうか」
「れ、連絡?誰に…あ、いや……体調悪そうだったから、面倒見てただけで」
「おや、それはすみませんでした」

戸惑った様子の男が手を放し、名前の膝がカクンと崩れる。
倒れないようにそれを支えたのは、それまでとは違う手だった。

「あ…あー、連れがいるならもう安心だな……じゃ、俺はこれで……」
「ええ。どうもありがとうございました」

ドタドタと男の足音が遠ざかり、すぐ近くで「大丈夫ですか?」と柔らかい声がする。

「咄嗟のことだったので、連れだと嘘をついてしまいました。この状態ではタクシーも乗車拒否されるのがオチですし…体調が悪いなら病院にお連れしましょうか」

声の主が気遣ってくれているのはわかるが、靄がかかり始めた名前の頭では言っていることの半分も理解できなかった。
ギリギリ閉じずに耐えていた目を向けると、そこにはやけに整った顔がある。

(………この人…)

頭の中はぼんやりしているのに、自然と口が動く。

「ゼロ…?」

支える腕がピクリと反応したのを感じながら、ついに名前は意識を失った。




***




目が覚めると、彼女はどこかの公園のベンチに寝かされていた。
慌てて体を起こせばズキリと頭が痛む。

「……っ、いったぁ…」

こめかみをグリグリと押しながら痛みを誤魔化して、名前は自分のコートが体に掛けられていることに気付いた。
ふと振り返れば、頭があった位置に何かが畳んで置かれている。手に取って広げてみると、それは男性物のジャケットだった。
ベンチの下には名前のバッグが置かれていて、周囲に人影はない。

(えっと、確かカクテル飲んでたら、やたらと眠くなって……)

眠る前のことを思い起こしながらバッグを漁るが、特に異常は見当たらない。
財布の中身も減っていないし、スマートフォンのロックもそのままだ。最後に見た時間からは一時間ほど経過している。

「もう目が覚めましたか」

聞こえた声にハッと振り返る。
頼りない灯りに照らされているのは柔らかい笑みを浮かべた金髪の男で、その手にはペットボトルの水が握られていた。

「あ、ゼロ……くん」

(そうだ、確かこの人が助けてくれたんだ)

途切れ途切れではあるが、なんとか事の次第を思い出すことができた。

「あの、ありがとうございました」

礼を言いながら名前が立ち上がろうとすると、彼が手のひらでそれを制す。
買ってきたらしい水を渡され、彼女はありがたくそれを受け取った。

「どうやら睡眠薬を盛られたようですね」

ジャケットを回収して隣に腰掛けた彼がそう切り出す。名前も予想はついていたので、「やっぱりそうですよね」とため息混じりに返した。
カクテル自体は半分も飲んでいないので、そのおかげで効き目が短く済んだのだろう。

「警察に届けますか?おそらくもう痕跡は残っていないでしょうが」
「……多分もう関わることはないので、やめておきます。職場には報告しますけど」
「そうですか」
「あの、ゼロくんは」
「待ってください」

突然遮られ、名前は「え?」と目を瞬かせた。

「僕は安室透といいます。その、ゼロというのは?」

安室透、と小さく繰り返す。

(え、人違い?)

名前は慌ててバッグからスマートフォンを取り出すと、少し操作してから安室にそれを見せた。

「これ、あの……萩原くんが…、この端に写ってる彼が送ってくれた画像なんです」

そこには萩原と松田、それから彼らと同じ制服を着た三人の男たちが写っている。

「こっちからゼロ、ヒロ、班長って聞いて」
「………」
「…人違いでした?」

無言で画像を見つめていた安室が、ふいに顔を上げる。

「これ、よく見せてもらっても?」

そう言って差し出された手に、名前は咄嗟に「だめ」とスマートフォンを引っ込めた。

「え?」
「あ、すみません。これ一回消えたデータをサルベージしたやつで……もしまた操作を誤って消えたら怖いので」

萩原が写る画像は、一枚だって失いたくなかった。
申し訳なさそうに話す名前をじっと見つめてから、安室はふっと口元を緩めた。

「なるほど。でも残念ながら、僕はその"ゼロくん"ではありませんよ。確かによく似ていますが、僕は警察官ではなく探偵ですし」
「そうなんですか……」

せっかく彼らの同期に会えたと思ったのに、と肩を落とす。

「そういえば、先程名前が挙がらなかった彼は知り合いなんですか?」
「え?ああ、陣平……松田陣平っていって高校時代の…同級生、です」

初対面の安室に元彼と言うわけにもいかず、語尾があやふやになってしまった。

「へえ」

安室はそう言って頷き、「あ、すみませんメールが」とスマートフォンを取り出した。
バックライトに浮かび上がる整った横顔を、名前は思わずじっと見つめる。

「同じイケメンでもこうも違うのかぁ」
「え?」
「陣平ももっと紳士的で協調性があれば……え、あ、すみません。なんでもないです」

独り言が漏れてしまい、慌てて手を振った。

「ふっ……」

安室が小さく吹き出したように聞こえたが、画面に目線を戻した彼の表情は窺えない。

「あの、安室さん。私そろそろ帰ります」
「あ、いえ。まだ本調子じゃないでしょうし、迎えが来るまでここにいてください」
「迎え?」

首を傾げる名前だったが、安室はそれには答えてくれなかった。
それどころか会話の引き出しが豊富らしい彼からはポンポンと興味深い話題が飛び出し、名前はすっかり時間を忘れて会話を楽しんでしまったのだった。



梅昆布茶に続いてセロリについての蘊蓄を話し終わった頃、安室がふいに立ち上がった。

「迎えが来たようですね。では僕はこれで」
「え?」

にっこり微笑んだ安室が「おやすみなさい」と言い残してその場を離れていく。
それを呆然と見つめていると、別の方向から足音が聞こえてきた。

「名前!」

名前を呼ばれて振り返った先にいたのは松田だ。彼は駆け寄ってくると辺りを見渡した。

「え、陣平?」

松田はチッと舌を打ってから、片手に握っていた携帯電話を睨みつけた。

「あのヤロー……最後の一文字に気付いたから良かったものの、もし無視してたらどうしてくれんだ」
「なに、どうしたの?」

ブツブツ呟く彼に問いかければ、無言で携帯を差し出された。
そこに表示されていたのはメール画面で、送信元は不規則に英数字が並んだフリーメールアドレスだ。そして本文には公園の名前と、何行も改行した後で数字のゼロが入力されている。

(…ってこれ、やっぱりゼロくんじゃ?)

それに気付いて目を丸くする名前をよそに、松田は苛立ちを隠しもせず顔を覗き込んだ。

「で、お前はこんなとこで何やってんだ。ちゃんと納得いくように説明してくれんだろーな?あぁ?」

その迫力に「ヒッ」と息を呑んでから、名前は事のあらましを説明するのだった。



「は?睡眠薬?」
「うん…でも寝たら楽になったし」

もう大丈夫、と立ち上がった名前だったが、思い出したようにズキリと痛みが走ってこめかみを押さえた。

「いった……」

グリグリとこめかみを押す姿を見て、松田がため息をつく。

「しょうがねぇな、ほら」
「え?」
「車までの間だけな」

名前の前にしゃがみ込んだ彼は、どうやらおんぶしてくれるつもりでいるらしい。

「え、いいの?」
「いいからはよしろ」

じゃあお言葉に甘えて、とその背中に体重を乗せる。「よっ」という掛け声とともに背負われて、一気に目線が高くなった。
落ちないように慌てて首に腕を回すと、香水でも煙草でもない香りが鼻孔をくすぐる。

(陣平の匂いだ)

ふふ、と懐かしさに頬を緩めた名前に松田が気づき、「何?」と問いかけた。

「陣平、いい匂いがする」
「はぁ?なんもつけてねーけど」

知ってる、とは言わなかった。元彼の匂いを覚えているなんて我ながら変態臭い。

「お前はもう香水つけねぇの?」
「うん。あんまり好きじゃない」
「あっそ。ない方がいいわ」
「ふうん」

軽く返しながら、名前の口元はやっぱり緩んでいた。

人間は相手の匂いが好きかどうかで、遺伝子レベルで相性の良し悪しがわかるらしい。それは昔、萩原から聞いた話だった。
それを思い出しながら、名前はきゅっと腕の力を強める。

「うっ、おい…手加減しろ」

松田が咎めるように言うが、名前は彼をきつく抱き締めたまま、その力を緩めることはなかった。


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