帰宅した状態のまま床に座り、焦点の合わない視線で天井を見つめていた。
何も考えず、何も見ず、何も感じず、思考を巡らせてはいけないと脳が信号を発信する。そんな時、ひとつの音が鳴った。
ピンポーン。どんな時でも一音たりとも狂わず鳴るそれは、絶対音感の持ち主だと思う。その音の主──正確にはインターホンを鳴らしている人に向けて、「誰もいませんよ〜」なんて心の中で言葉を送るが、もう一度音は鳴る。
「だから、いないって」
床に力なく体を預けて、横たわりながら発した言葉から覇気は感じられない。何か頼んだ覚えはないし、訪ねてくるような相手にも心当たりはないし、とりあえず今は体を動かすこともままならない。
そう思っていたのに。インターホンが鳴り止んで数秒後。今度はベランダの窓を叩く音が聞こえた。不審者……?
横たわっていた体を起こして、朝カーテンを開け忘れた窓の方を凝視していたらボンッと小さな爆発音が起こった。
訪ねてくる相手、いた。
ヤツのことだ。中に入るまで待ち続けるだろうと思い、ゆっくり立ち上がってカーテンを開けると、そこにはヒーロー姿の勝己がいた。まさかそんな格好で来るとは思っていなく、驚きで固まる私に向こうは険しい表情で「あ・け・ろ」と口を動かす。
鍵を開け、取っ手を掴み引き戸を開けようとするより先に、向こうが勢いよく開ける。
「異変は?」
「え?」
「体に異変感じてねェか?」
「うん」
何をそんなに焦っているのだろう。さっきの延長で心配しているのではなく別の何かがあるみたいな。
「なにかあったの?」
着替えもせず、急いで来たのか珍しく呼吸が乱れている。視線を逸らし、どこか気まずそうに眉間に皺を寄せている勝己に問えば、やっと視線が交わった。
そして、勝己は言う。
「風呂、一緒に入んぞ」
と。一瞬で場の空気が凍りついた。
「何言ってんの?」
驚きの言葉が漏れるより先に温度のない声で冷たく返事をしてしまった。それに向こうは不機嫌な雰囲気を出して、とてもとても小さな声量でボソッと呟く。
「……個、……ン、よ」
「え?」
「個性事故に遭ったンだよ、クソが!!日超えるまでにテメーと風呂入んねェと……」
「入らないと?」
「……数日体調崩す」
「二人とも?」
コクリ。さっきまでの勢いを失い、小さく頷く勝己を見て苦笑いを浮かべた。
「着替え持ってきた?」
「……は?」
「この家に男物の服ないから」
「てめ、正気か」
「体調崩すんだから仕方ないじゃん」
「もうちょい躊躇えや」
「だって勝己だし」
「……」
そういうことにはならないでしょ。それにみんなのヒーローをこんなことで体調崩させるわけにはいかない。
ベランダから靴を脱ぎ、大人しく家の中に入る勝己は着替えは忘れた、と言う。「何しに来たの?」と本音が溢れれば「急いでたンだよ!!」と恥ずかしげもなくキレられた。
「ていうか、そういう個性の人本当にいるんだね。しかもかかってる人、初めて見た」
「かかりたくてかかってンじゃねえ!!」
「ああ、ごめん。これ系の個性事故って少女漫画とかでよくあるやつだからテンション上がっちゃって。物語でよくあるじゃん?」
「知らねぇ」
「え?えっちな漫画でもよくあるんじゃない?アダルト系の漫画とかDVDとか観たり読んだりしないの?」
「……」
「しないですよね、スミマセンでした」
何も考えず純粋に質問したら、冷ややかな眼差しを向けられて直ぐに謝罪した。あまりにもドン引いた顔をされるから慌ててお風呂場に案内したところで、ふと疑問が浮かぶ。
「なんで一緒に入る相手、私なの?」
「個性かかる前に触れてた異性だったんだよ」
「まじでエロ漫画展開じゃん」
なら仕方ないか。私のデリカシーのない発言をスルーして、巻き込んで悪いと言われてしまったらこれ以上何も言えないし、数時間前に彼に多大なる迷惑をかけている。日を超える前にさっさと済まさなければと準備に取り掛かった。
「着替え買いに行く?」
「いい。これまた着る」
「そう。で、お風呂って湯船に一緒に浸かればいいの?それとも普通に洗ったりすればいいの?そういう条件的なのあるの?」
「フツーに一通りする。先にそっちが入って湯船に浸かったら俺が洗って浸かるでいける」
その手順でやるようにと個性の発動者に言われたらしい。ちゃんとクリア出来たら発動者に何かしらの合図がいき、分かるみたい。その人から警察に、警察から勝己に、と連絡が来ると言った。
「つーか、テメーは何で若干ノリノリなんだよ。意味わかんねぇ」
「なんか、漫画の世界みたいな体験してるから?」
「クソ女」
そんなこと言うなら一緒に入ってあげないよ、という揶揄いは止めておいた。二人が体調崩すという時点で、言っても無意味な言葉だから。きっとヒーローであるこの人は私に体調を崩させるようなことをさせないから。
「呼び出しボタン押すから、それまで部屋で待ってて。ここにタオル置いてあるから巻いてきてね」
「わーった」
それだけ言って素早く体を綺麗にする。髪を洗い、体を洗い、顔を洗う。バスタオルを体に巻き付け、呼び出しボタンを押し、湯船に浸かって数秒後、浴室のドア越しに衣服を脱ぐ音が聞こえ、急に心臓が早鐘を打ち始めた。
何でもないと思ってたけど、セフレとは違うのだ。勝己だからと油断していたけど恋人でも、利害一致した関係でもなんでもなく、ただの元同級生。中学時代の知り合いと裸の付き合いをするって一番気まずいんじゃ……?急に冷静になってしまった。
折れ戸が器用に開いて、勝己が入ってくるのが分かる。壁の方へ顔を向かせ、震える声を発した。
「とてもとても気まずいことに気づいたので、秒で済ませてください」
「はなからそのつもりだわ」
秒まではいかないが、本当に一瞬で洗い終えた勝己は周りに散らばってある泡をシャワーで軽く流してから栓を閉めた。それを合図に更に不安は募る。
どういうポジションで一緒に入れば……?カップルみたいに勝己の前に座る形を取るのは違うし、かと言って向かい合わせは嫌だし、お互い背中合わせなんて変すぎる。いや、変とか変じゃないとか、今はどうでもいいか。
「場所空けろや」
必死に悩んでる私を他所にバスタオル一丁の勝己は不貞腐れたように言う。どっちかって向き合うようにするの?まさか背中合わせ……?
そうやって思考を巡らせて辿り着いた答えは、無だ。もういいや。考えるのが面倒になってきた。どうでもいいか。
「はい」
向こうが入りやすいように膝を抱えた状態で前に移動すれば、「そっちじゃねぇ、後ろ」と言われる。言われた通りに後ろに行けば、ジャブンと音を立ててガタイの良い男が湯船に入ってきた。
目の前には勝己の背中。二人の状態は背中合わせじゃなく、揃って体育座りで整列。これじゃあ、服を着てないだけで中学の全校集会と同じだ。ただ体育館とは違い、狭い浴槽の中に裸の大人が二人。ましてや、筋肉がありガタイの良い男が一緒に入ってるから狭すぎてつらい。
お互い無言で、話すこともすることも、見るものもないから目の前にある大きな体を凝視すると、そこには小さいのから大きいのまで無数の傷跡があり、息を呑んだ。
そして、無意識のうちにそこへ手を滑らせてしまった。
「っ!?……っテメェ何しとンだ!?」
触れた瞬間、飛び跳ねる大きな体。投げられた怒号は浴室の中じゃ鼓膜が痛いくらいうるさいけど、気にせず更に反対の手も背中に添え、加えて額もくっつける。
またキレられるだろうと覚悟したが、その覚悟は不要だったらしく、強張ったせいで筋肉が僅かに浮き上がった程度の反応だった。
高校に入ってから今まで。そして、これからもこの人はどれだけのものを背負うのだろう。どれだけの人を救うのだろう。
今日、私が助けてもらったように、彼が救う人はこれからもたくさんいる。だから今日みたいに、最近のように、私に構っている暇なんてない。
「っいい加減に、離れ、」
痺れを切らしたのか。離れろと言いながら少しだけこちらへ振り返った勝己の右頬にも傷跡があるのを見て、ゆっくり手を伸ばした。
「ここにも、あるよね」
人差し指と中指でそっと触れる。無意識で伸ばした手。無意識のうちに近づいた顔。視界には触れているそこしか写っていない。中学の時にはなかったもの。
もう一度撫でるように指が動いた時、勝己が勢い良く立ち上がった。その際、お湯が顔にかかり「うばっ!」と変な声を上げてしまったが、唯ならぬオーラー纏って立ち尽くす勝己を見て我に返る。
「あ。ごめん」
「……ち」
「ち?」
「乳当たってンだよ!!」
「乳……。ごめん」
本当にごめん。ただの知り合いの女とお風呂に入るのですら嫌なのに、こんなベタベタ触ってしまうなんて、どうかしてた。こちらを見ようとせず、盛大に舌打ちを吐き捨て浴槽から出る後ろ姿へもう一度謝罪をするため、私も直ぐさま立ち上がったのだけれど。
「まっ……へ」
長く浸かりすぎていたせいか、それとも午後から何も口に入れてないせいか立ち上がった瞬間、視界は歪み、力なく体が前へ倒れた。
「っおい!!」
救命を本職としてる人はやっぱり凄い。視界に入れずとも後ろで女が倒れそうになったのを察して支えてくれる。
「ごめ、ん。ただの立ちくらみ。朝食べたっきりで何も口にしてないから」
目の前がチカチカする。手足が痺れて思うように動かない。嫌な汗も流れてきた。まずい、早く横になりたい。
震える手で体に巻き付かれたバスタオルが落ちないように気を付けてはいるものの、勝己に両肩を支えられ、その手に体重を預けるしかなかった。未だ両足はお湯の中。一刻も早くここから出てないと、このまま湯船に沈んでしまう。
向こうも私の様子を見て察したのだろう。直ぐに湯船から出られるよう手を貸し、そのまま数歩進んで脱衣所まで連れてきてくれた。一瞬のうちに置いてあったバスタオルを床に敷き、後頭部に折りたたんだタオルを置かれ横になる。
最悪な状況。
「……むり、死にたい」
「こんなんで死なれてたまるか」
今日は二度も情けない姿を晒してしまい、自分がひどく嫌になる。
自己嫌悪に襲われながら横たわれば、体の上にバスタオルと思われるものを掛けられてから直ぐに勝己の気配が消えた。暫くしてやっと落ち着き、上体を起こすと目の前にはヒーローの格好をした勝己が。近くにいたんだ。
「気分は?」
「だいじょぶ」
「ほら、水飲め」
「……うん、ありがとう」
キャップを取ってくれたペットボトルを差し出され、ゆっくりと水を喉へ流し込み落ち着くと、だいぶ楽になった。勝己に介護されてばかりだと情けなくなる。
「つか、ンで冷蔵庫ん中、水しか入ってねェンだよ」
「料理しないからだよ」
「軽く食えるもんくらい入れとけや」
「うーん。でもさ、部屋は片付いてたでしょ」
以前家に来た時に言われたこと。次までに片付けとけよ、の約束は守った。自信ありげな顔で、けれど顔色は悪く力なく笑う私に向こうは何も言わず立ち上がった。
「なんか買ってくる」
「え、いいよ。仕事中なんでしょ」
「今食わねぇとなんも食わねぇだろ。仕事はどうにかなってる」
「ちゃんと食べるから。だから戻ってよ」
「……」
「そんな信用ない!?」
「全然ねーわ。そもそも買いに行かねェだろ。行かせらんねーし」
「届けてもらう」
ピクッと眉が動く。もう子供じゃないんで、そういうことしちゃうんです。外へ出なくても、自分で買いに行かなくてもお金を払えば届けてくれる。
「……誰にだよ」
「え?配達の人だけど」
「……」
「なんで怒ってんの?」
「べつに」
「そう……?」
結局、配達員がやって来て私が食べ終わるまで勝己は帰らなかった。ちなみに食べ物が来る間に警察から条件クリアとの連絡があり、二人とも体調崩すことなく無事に明日を迎えることになった。
ご飯は二人分頼んでおいてよかった。仕事中ならちゃんとしたものを食べる時間なんてヒーローにはないだろうから。以前勝己が屋上で取っていた食事を思い出し、半ば強引に「いるなら食べて。食べないなら帰って」と言えば、案外あっさり折れてくれた。
「またな」
帰りはベランダからではなく、ちゃんと玄関から靴を履き出ようとする勝己は別れの挨拶をした。「またな」なんて言われたことなかったから思わず固まってしまい、間の抜けた声で返事をする。
「う、うん。また」
それに満足したのか、来た時とは別人のような顔をしてこちらへ背を向けた。そして、玄関のドアに手をかけた時ピタッと固まり、私の方へ振り返る。
「土曜、空いてんの?」
「……」
「ゴーカート乗り行くぞ」
「行きません」
「九時に迎えくる」
「そんな遅い時間には行きません」
「朝の九時」
何でこの男は私を誘ってくるんだ。返事をせず、黙り込む私に勝己は「無理に来んでいい」と言うから調子が狂う。別に行きたくないとは言ってないし、思ってもいない。
「いく」
小さな声でした返事に向こうは満足げに口角をあげる。
「てめぇに暇与えたら碌なことねェからな」
ああ。消えたい理由なんて言うんじゃなかった。