ジャージは無限の可能性を秘めている

「あ」
「どうしたの!?」
「……そんな大したことじゃないから。声抑えて」
「うん!」


合宿が終わってから数日。朝のSHR後、後ろの席で孤爪くんが何かを思い出したかのように声を上げた。

「何でこれが入ってんの」
「!?…そ、それは!?」

不思議がる孤爪くんが手に持っているのは布。布…ただの布のじゃない。というか、布ではない。それは…!!!

「黒尾先輩の体操着!!」
「……」

"3-5 黒尾鉄朗"のネームが左胸に縫われた長袖のジャージ。

「孤爪くん!!大変だよ!!早く届けに行かないとっ!!今日は冷えるんだから!!黒尾先輩達のクラスは1限目が体育だよ!!」
「何で1限って知ってんの…」
「え、なんか知ってる!」

首を傾げる私に親友は「じゃあ、これクロに届けに行ってくれない?」と頼む。

「わ、私!?」
「うん」
「いいの?!私が届けて!!!」
「うん」
「これはなんていうか、旦那さんの忘れものを会社に届ける奥さん!!じゃない??」
「言うと思った」

ジャージを受け取り、両手でそれを広げる。

「ねえねえ、あの…さ、」
「……」
「抱きしめてもいいかな!?」
「いいんじゃない」
「失礼します!!!」

勝手にごめんなさい!!でも、こんなの今抱きしめなきゃいつやるの!?部活のジャージを触る機会はあるけど、学校の体操着はない。部活のものはいつでも抱きしめることは出来るけど、流石に誰もいないところでやるのは気が引けて、こうやって抱きしめるのは初。う、ぅぅぅ匂い…先輩の匂い…!

「っは!?や、やっぱり黒尾先輩に怒られるかもしれない…!!」

孤爪くんの承諾を得てもやっぱり本人に言わないと!!とジャージを自分から遠ざけた。

「そんなことじゃ怒んないでしょ」
「そ、そうだけども!!」
「ていうか、そんなにいいの?ジャージって」
「孤爪くん」
「……やっぱり何でもないから早く届けに行って」

ジャージがいいものか。それを問うた親友は私の顔を見て質問を撤回しようとする。しかし、それはもう遅く、手に持っているジャージを腕の中に包み込み席を立った。

「ジャージというものは夢と希望が詰まっているの!!その人がここにいなくてもいるように感じてしまう幻覚、これから袖を通すであろうもの、若しくは脱ぎ終わったこのジャージには無限の可能性を秘めていて!匂い、温もり、大きさ!!!そして様々な活用性があるんですっ!ジャージには!!」

呼吸をする間もなく早口で話をしてしまったため、肩を上げて息をする。そして、息が整わないまま空気を吸い込み言った。

「着ていいですか!?!?」

勝手に使ってはいけない。その気持ちはどこか遠くに行ってしまい、自分の意思の弱さに絶望する。いつの間にかスマホのゲームに夢中になっている孤爪くんはこちらを見向きもせず、興味がなさそうに「いいんじゃない」と言う。

「これを着て、忘れ物です!私とジャージ!!って言ってくるね!!」
「……」

行ってきます!の挨拶をして教室を出る。廊下に出て先輩のクラス目掛けて全速力。通りすがる人達に見られた気がするけど私の走り方が変だからか、それとも制服の上に着たジャージがぶかぶかで変なのかは分からないけど、早くお届けしなくては!という思いから走るスピードを上げた。


3年5組のプレートが見え近寄ると、教室内から見慣れた人物が出てきた。

「夜久先輩!!」
「お、みょうじ……って、それ」

こちらを指差し苦笑いをする夜久先輩に、格好を見せるため両手を広げてくるりとその場で回る。

「おうおう。黒尾、中にいるから見せてやれ」
「はっ!!な、中に…!ちょっと待ってください、深呼吸」

すうはあ、すうはあ。息を吸い、吐いてを繰り返し、夜久先輩が「黒尾ー」と呼ぶ後ろについて行く。教室の入り口で音駒のリベロ様の大きな背中からヒョコッと顔を出すと目を丸くした大好きな人と対面する。

「?みょうじちゃ………」
「く、くくくく黒尾先輩!?せ、制服…!?ネクタイ…!」

目の前に現れた黒尾先輩の格好は前ボタンを全て開けたシャツに解けた一本のネクタイが首にかかっているだけで。
教室には黒尾先輩しかいなく、ジャージを探して着替えが遅くなったのだろう。着替え途中を見てしまった私は鼻血を出さないように必死に顔を背けた。今、私は先輩のジャージを着ているんだ。汚しては絶対にダメ。鼻の奥に力を入れて血が出ないよう必死に堪える。

ふたりしてお互いを見つめ固まる中、夜久先輩は声をかけてここから出て行った。そこでようやく意識を取り戻し、勢いよく言い放つ。

「はっ、黒尾先輩!!忘れ物です!!届けにきました!!」
「ウン、ありがと」
「私とジャージ、忘れ物ですっ!」
「……」
「すみません!調子に乗りました!!!」

私とジャージ忘れ物!の発言にあまりにも表情を変えない先輩を見て、怒らせてしまった、調子に乗ったことをしてしまったと血の気が引いた。流石に嫌だよね。自分のことしか考えず勝手に着てしまったことに頭を下げて謝る。
そしてジャージを脱ぐのに、手を出すため袖を捲った。腕の長さが全然違うのと、綺麗に捲った訳ではなく、ただ手を出すために上げただけだから、手首にはぐしゃぐしゃになった袖。やっと手が出てきてこれで脱げると思った時、折角上にあげたところを先輩に引っ張られ、また手が隠れてしまった。

「え、…え?」

やっぱり怒っている?それを確かめるため先輩の顔を見るべく恐る恐る目線を上に向けた。しかし、そこには恐れるものは何もなく。

「ふは、ブカブカ」

手の甲で口元を隠し、可笑しそうに笑う無邪気な笑顔は初めて向けられたもので。たまに試合中、子供のような顔になるそれと同じ。黒尾先輩がバレーボールに接する姿が好きだから、その時に見せる表情を自分に向けられるとは思っていなくて混乱してしまった。

いつも余裕で大人っぽくて色気がある黒尾先輩とは1年の差しかないのにその1年がとても遠いものに思えて。だけど初めてその差が縮まったと感じたのはバレーをする時に見せる無邪気な笑顔。思えば、初めてバレーをする姿を見た時から黒尾先輩に対して色んな欲が出てきたのかもしれない。


「ぬぬぬぬぬぬ」
「ぬぬぬ?」
「脱ぎますっ!」
「…ハイ。お願いシマス」

早く脱がないと…!時間もないし、私の鼻血も耐えられない。あまりのきらきら無邪気の笑顔にやられ、酷く動揺している私は手に力が入らなく、上手く脱ぐことが出来ない。

「みょうじちゃん?」
「あ、あああああの!!ち、力が入りません」
「え?」
「それから脱ぎ方を忘れました」
「は?」

え、どうやって脱げば?ブカブカだし、手には力が入らないしで、おまけに頭は混乱状態。あり得ないことだけど脱ぐ行為なんて普段からやっていることで子供でも出来るけども、色々キャパオーバーな私はもう何がなんだか分からなくなっている。

「お願いします!!」
「ちょ、」

両手を万歳して先輩に近づく。ささっと脱がしてくださいお願いします、すみませんと瞼をギュッと瞑りながらお願いする。目を瞑る前、微かに喉仏が動いたのが見えた気がするけど、それに狼狽える余裕はない。いつもだったら、その喉仏ください!なんて言っているだろう。

真っ暗の視界の中、小さく息を吐く音が聞こえ、それと同時にジャージの裾から手が入ってくるのが分かりそのまま腰、脇腹、胸の横、脇に先輩の手が徐々に上へとやってきて微妙に私の体に触れる。多分直ぐ頭の上に先輩の顔がある。絶対に上を見上げたら心が爆発する。だから、下を俯き瞼を決して開けることをしない。
そして、最後上体を屈めて腕を前に出し、服を裏返して脱がせてくれた。

「あ、ありがとうございます」

心臓が短距離を走った後みたいに速くなり、それが赤色として顔に出る。沈黙が流れて数秒、先輩は気まずそうに顔を覆って謝った。

「いや、ごめん。間違えた、脱がせ方間違えた…」

脱がせ方を間違えた。そう言う先輩はとても恥ずかしそうで気まずそうで、私はその言葉の意味を考える。

あ、そうか。最初から裏返しに脱げば良かったのか。わざわざジャージの中に手を入れなくても外から裾を掴んでひっくり返すように脱がせば、私の体に触れないようにしなくて済む。それでも嬉しいけど、実際に脱がしてくれたやり方の方がなんだか大事にされているようで、とても嬉しかった。

「わ、たしはこの脱がされ方がいいですから」

まるでもう一度脱がしてもらうような言い方をしてしまった。また変なことを言ってしまい、嫌な気分になっていないか様子を伺うように顔を上げると、目の前に大好きな顔がドアップである。そして、今度は制服に先程と同じように触れられ、体が硬直する。

「もう一回脱がされたいの?」
「っ、……ふぐっ!」

耳横で囁かれ、直で鼓膜を揺らされるような感覚に陥っていると頬を片手でつぼまれ変な声が出る。

「そういうこと、そんな顔で言っちゃいけねーの」
「しょ、んな…じょんな…」
「相手を思って言うのは分かるんですけど、こっちの身を少しは考えてくださいよ」

頬を掴まれて上手く舌が回らない。そんな顔ってどんな?の質問は相手には届かなく、ふっと話す前に優しく笑った先輩はこっちの身を考えて欲しいと言った。

「こっ!こういうことは黒尾先輩にしか言いません」

頬を解放されてから、誤解をされてはいけないと強い気持ちで言葉を放つ。
先輩は私が本気で好きなことをちゃんと知ってくれている。それを迷惑と言わないでいてくれるから言ってもいいと思った。


「そっか」

だから、困ったように申し訳なさそうに眉を下げて笑い、返事をされるとは思わなかった。


「え…?」

知ってる。私、知ってる。

この表情は気持ちに応えられないと断る時にするものだと、私は知っている。


忘れていた。今まで好きになった人が私を好きになってくれたことがないことを。








じゃあ、体育頑張ってくださいね!そう言って元気に駆けていくみょうじちゃんを見送ってから、口元を両手で覆いその場にしゃがみ込む。


「…我慢しねぇと」

これから高校最後の大会。1年の時から掲げていた全国制覇の目標を叶えるラストチャンス。

両方を器用に出来る要領があることを自分でも分かっている。しかし、主将としてチームを纏めなくてはならない。3年は高校でのバレー人生が全国に行っても残り約3ヶ月。
みょうじちゃんを誰にも取られなくない思いも、彼女にしたい気持ちもあるが、今はバレーのことだけを考えたい。それに、このタイミングで想いを伝えたらみょうじちゃんは普通ではいられない。
今はまだ後輩でありマネージャーであり、そして好きな人として音駒バレー部引退までそんな関係でいたいと思った。


だけど、ああいう対応をされると気持ちが制御出来ず、体が勝手に動いてしまう。気をつけねぇと。そう何度も自分に言いかけてこの感情に今はまだ、と無理矢理蓋を閉じた。