薄れる記憶
最近、前世のことが思い出せなくなる。
思い出せない、というか記憶がなくなっている、の方が正しい。
転生したこと、ここがハイキューの世界だということだけは鮮明に覚えているのに前世での自分の記憶は薄れている。何をしていたか、どんな仕事をしていたか、どうやって転生したのか、楽しかったこと、悲しかったこと、みんなとの思い出が消えていく。忘れるはずがないと思っていた友人の名前、家族の名前、声、顔までも思い出せなくなっている。
疲れと不注意で階段から落ちて死んだ私はみんなに謝りたかった。勝手に死んでごめんね、何も言わずにいなくなってごめんねって。まあ、あの日死ぬなんて思ってなかったから、そんなことは言えるはずがないんだけど。もっとみんなと一緒にいたかったし、もっと色んなことを経験していろんな場所に行きたかった。結婚して子供を産んで孫の顔を親に見せたかったなって。安心させたかったな、ていうのはあった。
だから、罪滅ぼしかは自分でもわからないけど、この世界に生まれた瞬間からみんなのことは絶対に忘れないと誓った。忘れないように何度も何度も思い出して。だけど、最近は自分の名前すら、宮という苗字だったことすら思い出せなくなっている。転生したことはちゃんと憶えているから、前世のことが思い出せないっていうことだけが分かる。それが酷く辛くなる。
今まで憶えていた前世の記憶。それが急に思い出せなくなる原因は何となく分かっていた。
宮治との関わり。
私はこれだと思う。別に宮治が悪いとかそんなことは微塵もなく、ただ十七年生きてきてこんな急に記憶がなくなるのはおかしい。宮治がっていうかハイキューキャラと関わり過ぎていることが原因なんだと思う。現に忘れていたハイキューの物語の内容が事細かに思い出せている。頭に漫画のページが浮かび上がるのだ。
治くんのことは普通に好き。優しくて、一緒にいると気が落ち着く。何度か救われたこともあるし、多分ハイキューキャラとしてだけではなく、ひとりの人間として好きなんだと思う。面倒で関わりたくなかった人。だけど、友達になってはくれるかな?くらいには関わりたいと思えた。
しかし、前世の記憶がなくなるってなると話は別で。ハイキューの内容なんて思い出せなくていいのだ。新しい人生、前を向いて楽しく生きれば良いって考えもあるだろうけど、私は重たい女だからね。前世で一緒に過ごした大好きな人達を忘れることは絶対にしたくない。私が死んで悲しんだ人はいる。忘れることは出来ない。きっとあっちも忘れることはないのだから。
あとは、少し寂しい。向こうも忘れてないなんて自信あるように思ってるけど、あっちは私の死を受け入れていて。私も前世の記憶を無くしてってなると繋がりがなくなってしまうような気がして嫌だ。
今は何となく思い出せることが出来てるけど、これが最後かもしれない。そう考えると怖くて眠れない。睡眠不足とストレス、あまり食欲もなく、そのせいで学校やバイト先でやらかしまくっていた。
今日も他の生徒が帰っているのに、一人で放課後残って掃除をしているのは授業中にスマホを触っていたのがバレたから。自業自得だけど授業開始直前、最近ウザ絡みをしてくるバイト先の男の先輩からメッセージが何通も届き、チカチカ光る画面がウザく電源を落とそうとスマホに触れた時バレてしまった。そして没収され、返してもらうための掃除。
この後バイトがあるため、早めに終わらせて余裕を持って向かおうと思った。だけど、体調が優れないのとシフトがウザ絡み男と同じで憂鬱になる。行きたくない気持ちで足が重くなり、ラスト一段というところで階段からずり落ちてしまった。まあ、一段だけだから痛くない。痛くないけど、いろんな感情が混ざり心が崩れ落ちていく気がした。
「……痛い」
階段の踊り場で体育座りをするように自分の足を包み込む。
思い出せない。さっきまで思い出せていた前世の名前が思い出せない。私の名前を呼ぶ皆の顔が、声が、全然思い出せないんだ。
「バイト、行かなきゃ…」
前世の記憶があろうがなかろうが、どんなに気持ちが落ちてても時間は過ぎていく。お金を貰って働いている。気分が落ちているから、その理由で休むことは私は嫌だ。頑張ることで身体を崩してはいけない。体調が悪い、気分が落ちてて休む。それは全然良いと思う。だけど、今日休んでしまったら後々、後悔するような気がした。
重い腰を上げて階段を降りようとする。
そこで、ふとあることを考えた。
この階段から飛び降りたら前世に戻れるか。
目が覚めて病院だった。何ヶ月も眠ってたんだよって泣きながら喜ぶ家族や友人に会えるだろうか。
会いたいな。皆に会いたい。顔を声をちゃんと思い出したい。そう思って、飛び降りた。
「…・っあ、ぶな」
何の痛みも衝撃もない。ただ、後ろからお腹と肩に巻かれた腕と焦ったような声が耳元で聞こえるだけ。この声は知ってる。前世でも今世でも良く聞く声。
「……なん「怪我は!?!?」……してない、です」
前に倒れないようそのまま腰を下ろし、後ろを振り返る。なんでここにいるの?部活は?色んな疑問が飛び交いながらも、そこにいる宮治は少し息を乱して心配そうに大きな声で聞いてくる。
怪我はない。そう言うと安堵の表情を浮かべる宮治に複雑な気持ちになる。
ジャージ姿で体から汗を流し、触れてる腕からは熱さを感じる。少し男子高校生の汗の匂いがするけど、不快には感じない。生きてる。当たり前だけど、漫画の中のキャラじゃなくてちゃんと生きてる。
そう思った瞬間、私もここでちゃんと生きなくてはいけないと思った。そして、宮治が心配そうな顔をして、そっと頭を撫でるから耐えてきたものが全部溢れてしまった。
「……っ、うっ……」
「!?」
どばどば止まらない涙に声が漏れる。両方の手を使って止めようと目に持っていくが、拭いても拭いても涙はポタポタ下に落ちていく。絶対、迷惑だ。いきなり目の前で女が泣き出すんだもん。謝って、ここからいなくなろうとするも、それより先に温もりを感じた。
あの時みたいに、ぎゅーってしてくれたあの時みたいに何も聞かず優しく私を包み込んでくれる治くんに、更に目から溢れ出る。
「っな、んで」
「……」
「……っなんで、ここに、いるの」
「大事なもん取りに来てん」
「取り、に、行かないと」
じゃあ、こんな所にいたら駄目じゃん。取りに行かないと、と聞く私に「もう取りに来た」そう返す治くん。取ってきた、じゃなくて?日本語おかしくない?っていつもなら笑えることも今はそんな余裕がない。
「部活、は?」
「休憩時間や」
やっぱり。こんな所にいたら駄目じゃん。休憩時間っていってもそんな何分もある訳じゃない。宮治のバレー時間を奪うことなんてあってはならないのだ。しかし、その思いとは反して私の手は宮治の練習着をぎゅっと握りしめ、離さない。行ってほしくない、まだ抱きしめてて欲しいと思うのは凄くわがままだ。
「な、んで……抱きしめてくれるの」
「……」
「なんで……、いつも優しくしてくれるの」
「……」
「っなんで……なんで、こういう時に来てくれるの」
もう訳が分からなくて、なんで、なんでと思いをそのままぶつけてしまう。ウザすぎる、情けなさ過ぎる、みっともない。そう思いながらも、治くんの胸に顔を押しつけ練習着を涙で濡らす。しかし、ウザがる素振りなんて見せることなく、その代わりに抱きしめる力を少し強められた。
「……なんでやろなぁ」
強く抱きしめられ、更に近くなった距離から治くんの口が耳元にきて、直に優しく落ち着いた声色が耳に入った。
数分後。我に返り、治くんの胸に手を当てて離れようと押し返す。階段に座っていたから、押し返した反動でまた落ちそうになるのを慌てて支えられた。
「みょうじさん、ほんま危ないから」
「うん、ごめんなさい」
また強く抱きしめられて頭の上で息を吐かれる。今度はゆっくり腕から抜け出し、「部活!」と大きな声を出してしまった。そうや、と遠い目をする治くんは北信介に怒られることを考えているのかと予想がついた。本当に申し訳ない。
ごめんね、と謝って治くんを立たせるため両手で彼の右手を掴む。触れた瞬間、少し肩を上げた後「謝ることはなんもない」と言われたからお礼を伝えると目を細めふんわり笑みを返される。弱ってる女にそれは狡い。いや、女っていうよりおばさんだけど。弱ってるおばさんも一応女なんで、それは弱いんだ。
この照れを隠すため、治くんの背中を押して部活に行くよう急かし、本人も流石に不味いと思ったのか急いで昇降口に向かう。その後をゆっくりついていき、見送ろうと走る後ろ姿を眺めていたら、いきなり足を止めて振り返った。
「俺のここいつでも空いとるからな!!」
胸を数回叩いて腕を広げる宮治。胸を貸してくれるってこと?次に「飛び込むんならここに来ぃや!!!」と言ってくれる。飛び降りようとしたの気づいてたんだ。
なんだろう。
宮治はいつも私の存在を肯定してくれる。居場所をくれる。それがとても嬉しくて、泣いて悲惨な顔をしていることを忘れて心の内側からその感情が表情に出る。
「ありがとう」
自分でも驚くくらい柔らかい声が出た。気持ちは伝わっただろうか。固まった治くんの顔は段々赤くなり「っど、どどどういたしましてっ!!」と言って手の甲を口につけた後、背を向けて走っていった。
うわ、私の顔めっちゃ変だったわ。見ないでもわかる。治くん、あれ絶対笑ってたよね。手の甲で口元隠してたし。
だけど、どうしてだろう。さっきと変わらず、思い出せずにいるのに、なんだか気持ちが軽くなった。
「〜っっ知らん!!あんなん知らん聞いてない!!」
全速力で走りながらみょうじの初めて見る表情に、あんな顔知らん、あんな顔するなんて聞いとらん、なんて眉を寄せてどうして良いかわからない感情と胸の痛みに怒り狂うことしか出来なかった。初めてみょうじが素を見せてくれたような、心開いてくれたような、自分を対等に見てくれたような、そんな思いで喜びを通り越して怒りへと変わる。
「せめて、予告してくれっ!ああゆう顔するよ、て」
「何がや」
「!?北さん!?!?」
「休憩時間過ぎてんで。何してたん」
「大事な忘れもん取りに行ってました」
「その忘れもんはどこや」
「………置いてきました」
「……」
部活終了後。北信介の説教を受けることとなった。
大事な忘れもん。それは今日一日様子が変だったみょうじなまえのことである。