誘惑


「みょうじさん、ありがとうな。ノート」
「いいえ」

冬休み明け。学校初日の二年二組にて。余裕を持って休憩時間内に教室へ戻ると宮侑にお礼を言われた。たまたま職員室に用があった私とたまたま課題のノートを提出し忘れていた侑くん。「あかーん!職員室行かな」という叫びを聞き、ついでだからと彼の忘れ物を先生の元へ送り届けたのだ。

「せや。これやるわ」
「?」
「もう二個しか残っとらんけど」
「え、ありがとう」

コンビニでよく見かける小分けにされていない数個入りのチョコを二つ、袋を逆さにして私の掌に乗せてくれた。貰っていいの?例えお礼だとしても宮侑に貰うのなんて恐れ多いんだけど。っていうか、怖い。周りにファン達がいると思うと。でもこのクラスにはそこまで熱いファンはいないから大丈夫かな。不安は一瞬に消え去り、いただいた期間限定のチョコを一つ口の中へ放り込んだ。

あ、美味しい。

そのままもう一つも口へと運んだ時。前を向いた侑くんの元に片割れがやって来た。唯ならぬオーラを醸し出す治くんに、また喧嘩?と疑問に思いながらチョコを味わう。

「おい、俺の食ったやろ」
「え、なにが」
「とぼけんなや。机に置いといた期間限定のチョコや!!」

毎度毎度人のもん食いよって。今回は許さへん!と侑ぬんの胸ぐらを掴む治くんに、もぐもぐ動かしていた口を止めた。え……?もしかして、今私の口の中にあるチョコ?もしかしてじゃない。絶対そうだ。ピキっと体が硬直し、どうしようと目の前の光景をただ眺めていると、侑くんの腕がこちらに伸びてきた。

「ちょっ、待てサム。チョコ食べたんは俺だけやない!」

みょうじさんも一緒に食った……!そう叫びながら私の方へ指を差す侑くんに、口内にある未だ半分しか噛めていない飲み込めないでいるチョコを隠すため右手で口を覆いながら舌足らずで謝罪をする。

「ご、ごめ、ん、おさむくん。たべ、ちゃった」
「!」

食べながら喋ってはいけない。小学生でも気を付けられることを今の自分は出来ていない。口の中からチョコが出ないように少し顎を上げて話す、自分のお菓子を食べた犯人の私は治くんにとって憎い対象だろう。現に目を見開いて、こちらを見つめ固まっている。
ごくん。数回顎を動かし、やっと飲み込んだチョコはとても美味しかった。美味しすぎて申し訳ない。きっと治くんが楽しみにしていたお菓子の一つなんだ。

「本当にごめんね。あとで新しいの買ってくるね」

本当は今食べたいだろうに。お菓子にも食べたいタイミングというのがある。食べたい時に楽しみにしていたお菓子が誰かの胃の中にあるとしたら怒るのも当然だろう。果たして、あとで買ってくる、で許されるのか不安。けれど、その心配も杞憂に終わることとなる。何故か。それは治くんが優しく微笑んだから。

「みょうじさん、食べたんか。美味かった?」

口元に緩く弧を描き、ふんわり笑った治くんが柔らかい声色で聞いてくる。気分を悪くさせたと思っていたから驚きで目を丸くしてしまった。

「え?……あ、うん。美味しかった」
「そぉか。そら良かったわ」

そんな私を他所にまたも優しく返事をし、こちらに近寄って来て頭にポンッと手を置かれた。私はまだ目を丸くして固まっている。頭に重みを感じながら動かずにいる視線が捉えたのは侑くんの宇宙人でも見たかのような顔。その後、うげぇと表情を崩した彼を見て我に返り、治くんへ顔を向ければ「ほな、後でな」と爽やかに去って行った。

……え?なに?最近の治くん、どうしたの?年越して何かあった?今年からはそういうスタイルで行くの?何故か、急に彼氏のカッコ良さに振り回されている自分に、これはまずいと頭の中で警報が鳴った。

「なあなあ、みょうじさん」
「なに?」
「またサムのもん食ったら協力してくれへん?」
「……やだ」

子供が悪巧みを考えるような顔で提案してくる侑くんに、人のもの勝手に食べちゃダメだよと言えば「みょうじさんってたまにめっちゃ年上みたいなオーラ出しよるよな」なんて返されて肩をギクリと震わせた。







「あ、いらっしゃい」

年明け初のこの場所、外階段で治くんを迎える。いらっしゃい、なんて自分の家のように言ってしまうくらいここは私にとって落ち着く場所になっていた。

「お菓子ごめんね」
「みょうじさんはなんも悪ないわ。全てアイツが悪いんや。ちゅーかみょうじさんと菓子分け合うって誰の許可取ってやってんねん」

俺やってそんなしてへんぞ。そう険しい表情をする治くんに分け合うのは私達結構やってるよね?とツッコミたくなったが、取り敢えず黙っておいた。

「そうだ」
「?」
「これ、妹の新作。どうぞ」
「!!」

持ってきたのは一口サイズのシュークリーム。バレンタイン仕様に生地も中身もチョコレート。彼氏にあげるための準備を今からしていて、取り敢えず色々作ってその中でしっくりきたのをあげるらしい。治くんから感想貰って来て!とシュークリームを渡される時に頼まれた。

大きな体でプチシューを人差し指と親指でちょこんと摘んで口へ運ぶ姿はとても可愛らしい。微笑ましくその一連の流れを凝視していると、ゴクンと喉仏が動くと同時に目をキラキラさせて、こちらに勢い良く顔を向ける治くんにちょっとだけ驚く。

「美味いなっ!!!!」
「でしょう!?良かったあ。妹にも伝えとくね」
「むっちゃ美味い!いつも美味いんやけど、今日も美味い!!このサクサク感どうやって出してるん!?」
「どうやったんだろ?聞いてみる」

毎回こんな感じで妹のお菓子を食べてくれるから姉として凄く嬉しい。妹にはこのまま伝えよう。大量にもらったプチシューを治くんにあげながら自分も美味しく味わう。そういえば、あと一ヶ月くらいでバレンタインだなぁ。私も作らなきゃ。治くん何が喜ぶかな。いや、この人なら何でも喜ぶか。口をもぐもぐ動かしながら頭の中で自問自答していると、隣から「せや」と声が降ってきた。

「春高ん時、団扇ありがとうな」
「え」
「みょうじさんが作ってくれると思わんくて、むっちゃ嬉しかったわ」

首だけをこちらに動かし上から微笑まれ、その純粋な笑みにあの時の失態を思い出し、心が痛む。

「その節はどうもすみませんでした」
「?」
「いや、その……文字がさ」

あの時治くんがやってくれたのと同じように指でピストルを作り、目を泳がせながら伝えた。気まずさを醸し出してしまう私を他所に目の前の被害者は数回瞬きをしてキョトンとしている。

「ああ、あれな。きっとみょうじさん、無意識で推しに作る時と同じに作ってもうたんちゃうかなって思てな?そう思うたら可愛ええなってなって顔面緩むのを耐えんのに必死やって」
「え。嫌、じゃなかったの……?」
「!?嫌なわけないやろ!好きな子が自分のためにしてくれること全部嬉しいんや!!」
「そ、そっか」
「おん」

嫌ではなかったらしい。じゃあ、あの時真顔だったのはニヤけるのを耐えてたってこと?話の流れ的にそうなる。……そっか。良かった。嫌な気分にさせたって思ってたから。っていうか、

「推しに作る時と同じテンションで作っちゃったことバレると思わなかった」
「フッフ、俺はみょうじさんの彼氏やで?そんなんわかって当然や」
「そっかぁ」

嬉しそうに、にこにこ笑顔で言う治くんに私も同じくにこにこする。治くんといるといつだって心が落ち着く。ここに流れるふわりとした空気感から気が緩み、冬休み中に起きた色々な楽しかった出来事を話し始めてしまった。

「休み中にライブからイベント、色んなところ行ってきたんだけどね」
「せや、その話聞きたい思うててん」
「わ、本当?」
「おん」
「推しが可愛くて可愛かったんだけど!話止まらないと思うんだけどいい?」
「おん」
「一番やばかったのが握手会なんだけどさ、……あ、再現しないと分からないからしてもいい!?」
「おん」
「じゃあ、私がアイドルで、治くんは私になってもらって……」
「え?」
「……いや、ごめん、今の無し」

再現したいけど。したいんだけども。再現だとしても、私がアイドルでって台詞が最高にマズイ。あの時の推しの可愛さを共感してもらいたい気持ちはあるけど、それよりも自分の彼氏に、宮治に「私がアイドルで」なんてことを言ってしまったことの方が恥ずかしく、気持ちの面で共感願望よりも上にきた。

「俺がみょうじさん……」

今言ったことを無かったことに、なんて出来る訳もなく、現に目の前の彼氏は心ここに在らずで同じ言葉を何度も呟いていた。俺がみょうじさんになる……?って。

「……俺、みょうじさんになる?」
「ならなくて大丈夫。ごめん」

このことは今度説明させてもらおう。話をするって言ったのに申し訳ない。もう一つの可愛いお話を、と思ったところで治くんのホッと安堵する表情が目に映った。

「そぉか。良かったわ。俺は可愛ええみょうじさんに成り切れんからな。ちゅーことでみょうじさんのファンってことでええ?」

ええ?じゃない。全然良くない。恥ずかしすぎる、自分が提案したことが。それに前々から思ってたけど、治くんって可愛い可愛い言い過ぎじゃない?言われ慣れてないのと、顔面凶器の宮治に言われること、そもそも好きな人にそんなことを言われることが心臓に悪い。

でもまあいいや。再現するだけだし。推しの可愛さを共感してもらおう。オタクは共感してもらえるのが嬉しい生き物だと個人的に思っている。

「じゃあ、普通に握手する感じでいくね?」

治くんと向き合う形で座り、自分がアイドルにされたように両手を前に出す。相手の目を見て毎回言われる「来てくれてありがとうございます!」を伝えなきゃって考えた時、思わず笑みが溢れた。

「ふふっ」
「!?」

まだ握手はしていない。何も言っていないし、始まってもない。ただ推しの可愛さを思い出し、つい推しに狂ったオタク特有の笑い声を上げてしまった。

「ごめん。ほんとごめん、気持ち悪い笑い方しちゃった。今の忘れ……」

そこまで発したとこで、治くんは凄い勢いで体を反転させ後ろを向きこちらに背を向けた。そして、壁に側頭部を打ち付ける。

「治く「なんなんッ……!」……」
「ほんまなに!?久しぶりのみょうじさん破壊力半端ないねんけど。あんな顔するなら先に予告してもらわんと心臓持たへんねん。さっきやってチョコ食べたって言うだけなんに何であんな可愛ええの。意味分からん。ほんま意味分からへん」

ブツブツ。背を向けて小声で放つ治くんの独り言は丸聞こえで。全部しっかり私の耳に届いている。少しして、大きな背中に一度彼の名前を呼びかければ、肩が飛び跳ねゆっくりこちらを向き直した。

「……えっと、じゃあやるね」

治くんの顔は至って真剣。何を考えているか分からない表情で、綺麗な顔に、大きな瞳で見つめられては私が落ち着きをなくしてしまう。でもこういうのはノリでやるものだから。今日は失態ばかり晒しているな。さっさと終わらせて、この何とも言えない空気から抜け出したいと強く思った。

「はいっ、じゃあ。その、今日は来てくれてありがとうございます」

そう言って両手を前へ出すと、治くんがゆっくり私の左右の掌の間に右手を差し込む。そして、そっと両手で包み込んで次の段階にいこうとした。私が握手で倒れそうなくらいギュンとした推しの行動は握手が終わった後だ。そのギュン行動をするため、治くんにどうしてもらいたいか伝えようとした時、私より先に向こうが口を動かした。

「ずっとファンです」
「は、?」
「ずっとみょうじさんのこと見てました。去年からずっと好きです。二年になってまさかこんな話せると思わんかったし、付き合えるなんて思ってもみなかったんで、俺今むっちゃ幸せです。彼女になってくれてありがとう」

まるで愛おしいって言われていると錯覚してしまう程の表情で。目も、口角も緩く弧を描いて、微笑まれては私の心臓は破壊する。どっちがアイドル?怖い。イケメン怖い。イケメンだから、という訳ではないけど。好きな人だからなんだけども。心中で平常心を保つのに必死で、推しのギュン行動について頭から一瞬抜けてしまった。

「あり、がとうございます。こちらこそ、彼氏になってくれてありがとう」

上手く伝えられず、片言になる私にまた優しく笑ってくれた。なんなの!?もうっ!!!!さっきの治くんの気持ちが少し分かった気がする。自分で言うのもあれだけどさ!こんな気持ちだったの!?そりゃあ、なんなんッ!って言いたくなる!!なんか、治くんがかっこよくて腹が立ってきた。理不尽な苛立ちが顔に出てしまったのか、治くんは少し目を見開いて慌て出す。

「えっ、みょうじさん……?ど、どないしたん?」
「なんか」
「お、おん」
「治くんがかっこよくて腹立ってきた」
「……は、」

ああもう。いきなり意味の分からないことで怒ってしまって本当に申し訳ない。でも、どうしたらいいか分からないし。いいや、もう。固まってる治くんは取り敢えず置いていて、早く推しにギュンとしたことを伝えよう。

「で、握手が終わって私がここから離れようとしたのね」
「……」
「あ、じゃあ、治くん手を離して」

声には出さず、固まりつつも首を縦に振り相槌を打ってくれる治くんに手を離してもらうよう促す。私が推しに倒れそうなくらいギュンとしたのはこの時で。握手時間が終わりその場所から離れようとした時、手を握られて離してくれなかったのだ。

そして、今あの時自分がされたように、自身の元へ戻そうとする彼の手を離さず握っている。けれど、反応はイマイチで。治くんは手を離そうとしない私の名前を呼んで困惑していた。同じく私も困惑している。自分の伝え方が下手すぎて。もう何をやっているのか訳が分からなくなった。

「あの、さ。こう、ね?時間になって握手終わりにしなきゃいけないのにこうやって手をギュッて握られて離されなかった、っていうのがキュンとしたって話、なんだけど」
「……」

どうだった?って聞く前に言葉が詰まる。だって顔が……、顔が険しくなってるんだもん!色んな意味で恥ずかしい。ここから逃げたい。けど、今私は必死に治くんの手を両手でがっちり握っている。もう羞恥心で涙が出てきそう。なにか、なにか言わなきゃ。この沈黙が凄く嫌だ。

「……きゅんってした?」

眉を下げ、下から覗き込むように相手を見つめ尋ねてみる。すると、急に目をカッと開き再び壁に頭を押し付けた治くん。そして、か弱く震えた声で発した。

「した……きゅんって、したわ」

その言葉に羞恥心が薄まり、ホッと安堵の息を吐く。

「良かった。私、説明が下手だったから伝わらなかったと思って」
「みょうじさんは説明下手やない。めっちゃ上手いで」

宮治はなんでも肯定してくれる。説明下手だとしても絶対上手いと言ってくれる。そう言ってくれることに毎回私が否定するのも失礼なのでいつも有難く受け止めている。

「そう?……それで、あと少し続きがあるんだけど」
「?」

続きがあると言えば、壁へ預けていた上体をこちらに持ってきてくれる。その途中軽く力を入れて私の方へ治くんの手をグイッと引っ張った。

「っ、」
「こんな風に少しだけ引っ張られ…………あ、れ」
「!?みょうじっ、さんっ……」

思ったより力を込めてしまったみたいで、治くんの顔がすぐ目の前に来た。近い、と思いつつ、少し上体を後ろへ反らせば、体幹弱々の私はそのまま後ろに背中から倒れそうになった。倒れそうになっただけ、で倒れたわけではない。治くんが支えてくれたから。中途半端の体勢で支えたため、起こさず下にゆっくり下ろしてくれる。
パタッと背中を下に預け、そこからは外階段特有のコンクリートの冷たさが少しだけ感じられた。

「怪我、ない?」
「う、うん。ごめん。ありがとう」

いつも治くんには迷惑かけてばかりだ、なんてすぐ上にいる彼を見て思う。っていうか、この体勢って

「治くんに押し倒されちゃったみたい」
「!?なっ、!?何言うてッ!?っみょうじさん、そないなこと言うたらあかんってずっと……!!」
「ああ、そうだった。ごめん。それに、迷惑かけちゃったのにこんなこと言うの失礼だったね」
「迷惑かけてへん!」

大声で放つ治くんはいつもと変わらなくて。今日は度々振り回されてばかりだったけど、いつもの治くんでちょっとだけ安心する。だから、私もいつものノリで軽口をたたいてしまった。

「でも私、治くんに押し倒されてもいいって本気で思ってるよ?」

またさっきみたいに、そんなこと言っちゃダメって言われるだろうか。治くんのことだから、と優しい彼に甘えていたのかもしれない。いつもの調子で揶揄うようなことを言った途端、目の前にある治くんの瞳の色が微かに変わった気がした。

「あかんって言うたやん」

小さく掠れる声で放った言葉はなんとか耳に届いて。ゆっくり上から治くんの顔が下りてくるから何をされるのか分かり、私もゆっくり瞼を閉じた。

しかし、期待していたことはいつまで経ってもこなくて。不思議に思い目を開ければ、キス寸前の距離で止まっている治くんがいた。

「あかんッッ!!」
「は?」

ぱちりと視線が交わった瞬間。少しだけ距離を取りそう叫ばれ、不思議がる。

「え、っと……何がダメなの?」
「……」
「……キス、してくれないの?」
「っ、」

私が何かしてしまったのだろうか。きっとそれはないと思いたいけど、もしそうだったら謝らなきゃいけない。っていうか、そもそも何がダメなの?

「……みょうじさんに、」
「私に?」
「手を出してええって言われた」
「うん、言った」
「せやけど、最初から、その、……がっついたらあかん思うて」
「だからあかんって言ったんだ」
「……」
「別にそんな風には思わないよ。それより、出される方が嬉しい……っていうか。その、ほらっ!前みたいに私も出しちゃ……うわっ」

かなり積極的なことを言ったと我に返り、途中で話を修正しようとするも上手くいかず、慌てていたら治くんが覆い被さってきてそのまま床に額を打ち付けた。耳横に治くんの頭があるせいで、耳に銀色の髪が触れて擽ったい。

「あ゛〜〜……」
「!?」
「好きすぎてどないしよ」

こんな低い声を、こんな近くで治くんの口から聞いたのは始めてで。だからか、一瞬身体を震わせ驚いてしまったけれど、次の言葉に今度は心臓が跳ね体中熱が上がった。

そして、その体勢のまま数秒の沈黙が流れ「今手ぇ出したら、ほんまあかんから」と言って治くんは私から離れていく。二人とも壁に背を預け普段と同じ位置に戻り、再び流れる沈黙。これ、私なにも言わない方がいいよね?でもこの空気で休み時間が終わったとして、次会う時ドキマギしてしまいそう。そう思うと、無意識に口を開いていた。

「そう言えば、もう一つ話したいことがあったんだ」
「?」
「ライブの裏側の映像でね、すっごく可愛いことしてたんだけど」

そう。凄く可愛いこと。私は既に百回は再生した。と脳裏に焼き付いているあの映像を思い出し、真似をした。

「推しがその日、新しいリップを付けてたみたいでね。今日新しいリップ付けてる!チュッてこうやったのが可愛くっ……っ!?!?」

私が見た映像通り、新しいリップをつけた唇をカメラに向けて見せる推しと同じく、治くんに最後リップ音を立てて真似をした瞬間。次に続く可愛くない?の質問は治くんの唇によって遮られてしまった。

数秒重なり、離れて、また触れる。話してる最中で予想していなかったことに口が少しだけ空いていたそこから舌が差し込んできて。驚きつつもそれを素直に受け入れた。頬と後頭部に回された手に逃げ場をなくして。こういうキスしたことない、前の記憶なんてもうないし、やり方なんて覚えてない。初めてだというのも、慣れてないというのもバレたくなくて。下手って思われたくなくて。必死に応えようとした。

応えようとするなんて順応良すぎて変に思われるかな?もう思い出すことのない前世の記憶を必死に探せば上手に出来るかな?ってくだらない考えも、自分から零れた声と絡み合う舌に消え去り、脳内は真っ白になる。すごく、苦しい。治くんが好きで心が苦しい。今していることに、体が反応して、恥ずかしくて、でも何も考えられなくて、ぽやぽやして、ただなんて表していいのか分からなくて。ただ、苦しいって思う。


呼吸も出来なくて、苦しい。

そう。私は今、上手に息継ぎが出来ないのだ。酸素を求め口を開けば、そこからキスが降ってくる。逃げても逃がしてくれなくて、苦しいんだ。もうっ、無理、かも……。

「……っお、さむ……く、んっ」

最後の力を振り絞り名前を呼び、とんっと軽く胸を叩く。力を入れてるのに全然重さが乗らないのは、絶対治くんのせい。やっと離れた唇に少しずつ息を吸う。当たり前のように治くんは呼吸が乱れていない。目の前にある相手の制服の裾をくしゃりと握り俯き息を整えていると、上から力の抜けた声が聞こえた。

「あかん、食ってまう」

そう言う治くんに「もう食ってるじゃん」なんて言える余裕はなく、心の中で吐き捨てるだけで、私は頭から彼の胸へ倒れ込むようにして身を預けるしかなかった。