あんなパンチを食らったら、死んでしまう。少なくとも緑谷はそう思った。 しかし予想に反して脳無のパンチは伊壱にほんの僅かなところで届かず、巨体はゆっくりと倒れていく。 「は?」 死柄木の零したその一言が、如何に相手にとって在り得ない出来事だったのかを物語っていた。 脳無を両断するために必要だろう日本刀を潰し、あとは殺すだけ。中ボス程度の存在ならそれだけで十分だと考えていた。それほど、対オールマイトのためだけに造られた脳無という存在は大きいものだった。それだというのに、あれはいったい何が起こったのか。 「なんとか、なったかな……っ」 荒くなった呼吸を落ち着かせながら、伊壱は左腕を押さえるように右手で掴みつつ、一先ずの危機を脱せたことにほんの少しだけ安堵する。 僅かに漂う肉の焦げた嫌な臭いが緑谷達の鼻腔を掠める。いったいどこからなのかその元を辿っていけば、それは彼の左手にあった。 「外賀ちゃん、それ……!!」 「大丈夫だよ、梅雨ちゃん」 息を呑んだ蛙吹の言葉に振り返らず返事した伊壱の左手の全体が火傷を負っている。痛みに耐えかねてか、左手がぶるぶると震えていることは緑谷達の目から見ても明らかだ。 脳無のその肉体は日本刀がなかったというのに再び両断され、今回はご丁寧なことに腕も含めて切断されていた。 「黒霧、さっさとくっつけろ」 奥の手をまだ隠し持っているとは面倒な奴だと死柄木が思いながら黒霧に命じると、彼は即座に脳無の上半身と下半身をくっつけようと個性を発動していく。 くっつけた時と同様に上半身と下半身を繋ぎ合わせようとした彼は直ぐに気が付いた。 「―ー!? できません!」 「は!?」 いくら試そうとも脳無の上半身と下半身はどういうわけかくっつかない。その間にも伊壱は少しでも距離を取るべく四人纏めて更に背後へと“シャンブルズ”で後退していく。 「ハァ、ハッ……!」 「げ、外賀、左手大丈夫か!?」 呼吸の荒さが左手の痛みによるものなのかと心配している峰田。確かに左手はじんじんと痛むが、それ以上に伊壱の体力が尽きてしまいそうだった。 個性発現して十年以上。武藤タツキに師事して鍛えたとはいえ、一つの才以外は精々が凡人程度の才能しかない彼は未だ、本来の使い手ほどの実力はない。 特に技に至っては未完成の技が多数あった。原作で言うところのパンクハザード編以降で見受けられる大半の技を、伊壱は完璧には修得していない。 特に体内に微弱にある電気を増幅させる技の修得に関しては奪われる体力が他の技よりも大きいことも手伝って、大いに手古摺っている。 体内の電気を増幅させるところまでは何とか出来ているが、それを日本刀に這わせて切る、相手に対して電気ショックを与える、ということができていないのだ。 なんとか片手にだけは瞬間的に這わせることはできたために、脳無を両断できはした。が、技を完成させるための、言わば途中段階の代物でしかないのもまた事実。 日本刀でのぶった切りと同様に切断することはできるが、持続時間はとても短いうえに、この電気は使用者の肌を簡単に焼いてしまう。本当に本当の不完全そのものと言わざるを得ない。 「奴らも少しは混乱してるはずだ、この隙に相澤先生だけでも安全な場所に……!」 「そうね、この距離なら……!」 みんなが最初にいた場所。クラスメイトが四人に気付いて声を上げてくれている様子が遠目に見えた。 道中数人のヴィランがいるものの、四人が対峙してきた人数と比べればそう大勢いるわけでもない。 活路が開けた、と緑谷達が士気をあげる中、意気揚々と乗り込んできた死柄木の機嫌は急激に下がっていった。 「チートが……!」 何をしたのかわからなかったが、死柄木達にも見えた左手の火傷。リスクはあるようだが、左手を使って脳無を黒霧がくっつけるのを阻止したらしい。がりっ、と一際強く首を掻き毟る彼の苛立ちは今日一番に強い。 脳無の身体能力は個性を含めても驚異的だ。比例して思考力が落ちてしまっているのだとしても、余りあるほど有能な駒のはずだった。 だというのにまるで対策されていたかのような個性の持ち主がいたことは、彼にとって不運と言えよう。そしてまだ、死柄木にとっての不運は終わらない。 USJの分厚い入口の扉を吹き飛ばしながら、彼等が大本命として狙っていた人物が登場したのである。 「もう大丈夫、私が来た!!」 「オールマイト!!」 黒霧がA組の全員を飛ばそうとしたあの時、大半は飛ばされてしまったものの、残った少数は靄から逃れていた。 残ることができたクラスメイトの中に、最も足の速い飯田がいたことは正に幸運と言える。13号が黒霧によって倒され場が混乱していく中、それでも諦めずに飯田の脚力を見込んで決死の覚悟で外へ送り出せていなかったら事態は更に悪いものとなっていただろう。 「……死柄木弔、脳無はまだ復活しません。ここは退くべきかと」 「大本命が来たってのに……!」 オールマイトという存在が生徒たちに希望を見出させていく。その様も癪に障る。 掻き毟っていた指を止めた死柄木は、はぁ、と長く息を吐き出した。その間にもオールマイトが入口から広場までの間にいるヴィラン達を瞬く間に倒し、伊壱達を死柄木からますます遠ざけることに成功していた。 安全圏にいることに気付いた伊壱はとんでもないスピードに流石オールマイトだ、と感嘆しつつ“ROOM”を解除する。 「君たちには大きなケガがなくてよかった、あとは先生に任せてくれ!」 いつもならば浮かんでいる筈の笑顔は、浮かんでいない。教師二人は重傷に重体、多くの生徒たち――特に姿が見えない生徒――は今も危険に晒されているかもしれない。 こんなことになったのは偏に自身の不甲斐なさだとわかっているからこそ、尚更に自分自身を許せそうになかった。 「オールマイト、これから主犯格のところに行くんですよね。連中の個性でわかっていることがあります」 呼吸を整えながら、伊壱は確認できた相手の個性についてオールマイトに伝えていく。 黒い靄の男は恐らく長距離を移動できる空間移動系の個性、主犯格の銀髪の男は触れることで発動する崩す個性、大男に関してはよくわかっていないが、恐らくはとてつもない身体強化系の個性と目されること。 対峙した三人を振り返った伊壱は、自分の個性がオペオペの実でよかったと思わざるを得なかった。もしも未熟な増強系の個性だったら到底あの脳無に勝てそうにはない。そう思わせるには十分な相手だった。 「大男を主犯格の男は脳無と呼んでいましたが、暫くは俺の個性で動けません。ですが、飽く迄一時的です。オールマイトなら大丈夫かと思いますが気を付けてください」 「情報ありがとう、外賀少年! 君たちは上にいるみんなと合流したまえ!」 自分達を救けてくれた時のスピードで死柄木達のいる広場へと向かっていくオールマイトを見送って、峰田は涙を零さずにはいられなかった。 「これでもう大丈夫だな!」 「そうだといいけど……。緑谷君、代わるよ」 「あ、う、うん……」 「外賀ちゃん、私も手伝うわ。支えるくらいしかできないけど」 「助かるよ、梅雨ちゃん」 事前に死柄木がオールマイトを殺す算段を持つものだということを知っている伊壱は手放しに安堵することはできないものの、今は相澤を安全圏まで連れて行かなければ、と最優先すべき怪我人がいることでそちらを選んだ。 唯一、緑谷だけがオールマイトの事情を知っている。 彼は今朝オールマイトが三件の事件を解決していたことと、相澤と13号が会話していたオールマイトがいなかった理由を含めても察していた。 だからこそ彼は、オールマイトを放ってはおけなかった。昔からの憧れにして、人生の大恩人でもあるオールマイトがどれほどの無理を重ねているのか察してしまったのだ。 「……っ、ごめん、相澤先生をお願い!!」 「緑谷ちゃん!?」 「緑谷!?」 呼び止める声に逆らって、緑谷はオールマイト目掛けて駆けていく。呆気にとられた伊壱は咄嗟に止めるべきか考えるも、大分減ってしまった体力では役に立てない可能性すらある。 加えて今は相澤を背負っており、ここで伊壱が緑谷を追ってしまえば、身長が足りず、平均的な成人男性と比べれば軽いだろう相澤であっても、蛙吹と峰田が苦労するのは目に見えていた。 「……緑谷君が行った先にはオールマイトがいるから大丈夫だよ」 「そうだよな! オールマイトがいるから大丈夫だよな!」 「ケロ、外賀ちゃんの怪我のこともあるもの。緑谷ちゃんも指のことがあるし、心配なのだけど……」 「いや、怪我の程度だと俺よりも相澤先生の方が、」 「怪我は怪我よ、外賀ちゃん」 断言されて言葉に詰まった伊壱は自分が思っていた以上に混乱していたことに気付く。 怪我は怪我。その通りだ。もしもこの場に現役の医者でもある父親が居たら厳重注意を受けていたかもしれない。 「……うん、そうだね」 未熟さ故に怪我をした左手の痛みは同時にどこか苦みに似た感情を伊壱に齎した。 左手を負傷していることを気遣って、相澤の左側を支えてくれている同級生はとても冷静だ。これは彼女の強みのひとつと言えるのだろうと伊壱は思う。 「無事でよかった……っ! あ、相澤先生!?」 「外賀、代わるぞ」 階段を上がりきる前に三人に駆け寄ってきたのは麗日と障子の二人だった。 背負われている相澤を見て、どれほど過酷で危険な場にいたのか嫌でも察することができる。 汗を流している伊壱を見て察した障子の言葉に礼を言いつつ、伊壱と蛙吹は障子に相澤を託した。 頭部の怪我のこともあって時間のかかるそれも人数がいれば然程時間もなく安全に行える。 「飯田くんに先生たちを呼びに行ってもらったの! オールマイトも途中で飯田くんに会ったらしくて、だからそのうち他の先生も来ると思う!」 「そうなんだ、じゃあ直に来てくれるね……! みんな怪我は?」 「私たちは大丈夫、13号先生が守ってくれたの。でも、13号先生が……!」 「外賀の判断を仰ぎたい」 昼休みの様子や、彼の父親が医師であることから医療知識に長けていそうだと判断されたのだろう。 応急処置ならばある程度のことは行えるとはいえ、13号の――勿論相澤も――怪我は重く、どう判断していいものか残っていた者たちは心配と不安が尽きていなかったのだ。 「わかった」 障子と麗日の言動から余程の傷を負ってしまったのだろうことは察せられる。 医師免許を持たない身の上でできることは限られているが、今は少しでもみんなの不安を取り除くべきだろうと伊壱は判断した。 最初にいた入口付近は来た当初とは異なる雰囲気があった。少し前まではどんな授業だったのか楽しみにしていたというのに、今では緊張感が僅かに漂っている。オールマイトが来る前だったらもっと重い雰囲気だったのかもしれない。 蛙吹、伊壱、峰田の無事の帰還に表情を明るくする一同だったが、障子が抱えている相澤を見つけて青褪めるものもいた。 「相澤先生……!」 「13号先生も酷い怪我を負ったって聞いたけど……」 「今芦戸が見てる。外賀、お前も手の怪我があるのに悪いけど、頼む、13号先生を診てくれないか?」 「俺の怪我は先生たちに比べればまだ大丈夫だよ、気にしないで」 力なく下げられている左手の様子を見て砂藤は心配そうに顔を歪ませるが、伊壱は気にしていないと言わんばかりに微笑んだ。 案内された先には心配そうに表情を曇らせている芦戸と、背中の殆どを破壊されてうつ伏せに倒れている13号の姿があった。 「芦戸さん」 「外賀……! 13号先生、自分の個性を靄の男に利用されて、それで、」 「……成る程、だからこんなことに」 自分が飛ばされ、他のクラスメイト達も飛ばされた後にその場で黒霧との戦闘になったのだろう。 あの男ならば13号の個性を逆に利用して攻撃に転嫁することは十分にできる。 まさか自分の個性が背後から来るとは思ってもみなかったのだろう。構えることなく受けてしまった自分自身の攻撃は相当のダメージを与えてしまったようだ。 なんでも吸い込み塵にしてしまう“ブラックホール”という個性。 コスチュームだけでなく13号の皮膚なども容易く吸い込んでしまったようだ。もしも骨が見えるところまで吸っていたら命は危うかったかもしれない。 「どうしたら、」 「オールマイト先生が来たってことは、直に他の先生も来る。それまではこのまま安静にしてもらうしかない」 「お、応急処置とかは?」 「下手な応急処置は逆に危険だ。このままが正解だよ、芦戸さん。みんながこのままにしてくれたからこれ以上悪化することはない。だから安心して」 もしも下手に体を動かせば負担になるだけでなく、更に傷が広がっていたかもしれない。 黒霧が追撃せずに広場に戻ったことは気紛れか、それとも生徒たちを取るに足らないと思ったのか。皮肉な話だが、黒霧がいなくなったことで13号は助かったと言える。 外賀の言葉で少しは安心できたのか、芦戸の不安げな顔が少し和らいだ。 「外賀、相澤先生は……」 「ちょっと待って。ごめん、コート脱ぐの手伝ってもらえる?」 「わかった!」 片手が使いにくいため芦戸に頼んで紺色のドクターコートを脱いだ伊壱はそれを地面に敷くと、そこに相澤を寝かすようにと頼む。 「地面に直接怪我が触れるのは危険だからね、とは言っても俺のコートも清潔とは言えないけど……ないよりはマシだと思う」 「この中にお前以外上着を着ているやつはいないからな、助かった」 「こんな使い道があるとは思わなかったけどね」 サポート会社の気の利かせ方がこのような役立ち方をするとは伊壱は予想もしていなかった。 寝かされた相澤を改めてみると、13号に劣らず怪我がひどい。特に眼球付近の怪我は、今後のヒーロー活動において支障をきたす可能性さえある。 減りに減った体力だが、ここは使うしかなさそうだ。 「“ROOM” “スキャン”」 13号と相澤を覆う程度の広さで展開した伊壱は素早く二人の怪我を診て直ぐに解除する。 「相澤先生も、13号先生も、直ぐに命の危険はない。でも早く病院に連れて行かないと……っ」 「外賀大丈夫!?」 「ケロ……、外賀ちゃん、ごめんなさい。無理させてしまったのね」 「疲れただけだから、気にしないで。俺が未熟ってのもあるからさ」 座り込んだまま苦笑する伊壱の体力はギリギリといったところだ。やはりあの不完全な技を無理矢理行使したのが大きかったのだろう。 もっと体力があれば、せめて相澤の骨折している骨を繋ぎ合わせることくらいはできていたのかもしれない。が、それには普段使う以上の集中力と持続力が必要となってきてしまう。 中途半端に行使しては下手したら神経に傷を負わせてしまう可能性も考えられる。今の伊壱にはこれ以上のことはできそうになかった。 「私たちにもできることはあるかしら?」 「ポーチにガーゼがあるから、相澤先生の顔の傷に当ててほしい。力は入れないで、当てるだけで」 カラビナフックでベルトループにかけられているシャチを彷彿とされるデザインのポーチを右手で器用に外して蛙吹に預ける。 横型のポーチの中身は意外と沢山のものが入っていた。ご丁寧に医療用のハサミまで入っており、適切な大きさや長さに切ることも可能なように入れられていたらしい。 「包帯を巻かなくていいのか?」 「相澤先生は頭部のダメージがあるから下手に動かさないほうがいい」 「ケロ、外賀ちゃん、その火傷には包帯巻いたほうがいいかしら? 水がないから冷やせそうにないの」 「助かるよ」 本来火傷ならば水で二十分近く冷やすという応急処置があるのだが、この状況下ではできそうにない。せめて、包帯を巻いて地面と直接触れることがないようにするべきだろう。 器用に巻かれていく包帯が最後に軽い力で結ばれたその時。漸く、増援が到着した。 「ごめんよ、みんな。遅くなったね」 鼠でありながら個性を宿し、人間以上の頭脳を持つとされる雄英高校校長の根津がB組の担任の肩に乗りながらそう告げた。その傍にはA組学級委員長の姿があった。 「飯田くん……!」 「1-Aクラス委員長、飯田天哉! ただいま戻りました!!」 到着と同時に発砲していく雄英教師の一人、プロヒーロースナイプを始め、雄英教員たちは即座に動いていく。 事前に飯田による状況説明がされていたのだろう、迷いのない素早い行動であった。 銃声に気付いたのか、13号の腕が僅かに上がる。 「13号先生! 無理は……!」 「外賀くん、僕は大丈夫です……! ヴィランを捕まえなければ……!」 片手分の指先が彼の個性を発動するべくぱかり、と開き、ここからでも遠い広場にいる黒霧の黒い靄を吸い込まんとする中――遠目に見えた、首謀者と黒霧は黒い靄の中へと消えていく。 伊壱たちが見ていない間に何があったのかはわからないが、時間的に何かしらの事が起こっていたのだろうか。 いつの間にか広場に集まっていた姿の見えなかった爆豪、切島、轟の姿も見受けられる。その背後には念のためだろうか、脳無が轟によって上半身と下半身を氷漬けにされていた。 「爆豪君達だ、無事だったみたいでよかった……」 「他の皆は……」 「私たちがちゃんと確認するから、あなたたちはここにいなさい。外賀くんは怪我をしているのね、あなたはもう動いちゃだめよ」 「はい」 どうにか一難去ったUSJでのヴィラン襲撃事件は、多くの爪痕を残した。 プロヒーローが何と戦っているのか痛感し、己の力量や経験の浅さが露呈したものもいるだろう。 この出来事がまさかただの序章に過ぎないことを、この時雄英側の殆どの者たちが誰一人として考えてもいなかった。