誰彼の一番星(武田軍)[1/1]
「やはり、貴殿と某は、相容れぬ」
言い放った言葉にどれだけの重さがあるかなど、知らぬとばかりに男は笑っている。
「つれないな」
拾った時から変わらぬ笑みを、それだけは変わらぬ笑みを浮かべている。
「貴殿、いや貴様を、俺は、赦す事などできない」
何故かなど分かり切っている。
お前の体を染める血は誰のものだ。
お前が切り裂いた肉は誰のものだ。
お前が奪ったのは誰の命だ。
全て甲斐のものだ。
全てお館様のものだ。
甲斐のためだけに、お館様のためだけにある命だ。
ただ一つ、唯一、お館様の後を継げる命だ。
「貴様は甲斐の敵だ」
ただ男は笑って答えない。
これは欺瞞だ。
この男の書いた筋に乗って動いている嘘だ。
「いい顔だ幸村、そんな生き生きした顔は久しぶりだ」
眩しそうに目を細める顔に悪びれはない。
切り落とした首に興味はないのか、それを足下へ投げて寄越した。
首は何の表情も浮かべる事なく、一瞬で切り落とされたのだと、わかった。
目元が口元がお館様に繋がる血を感じさせたが、それを踏みにじってやりたい衝動が噴き出す。
これをお館様と呼ぶ時どれほどの忍耐を要したか。
これに罵られる時どれだけの屈辱を強いられたか。
これの無能をどれだけ呪い厭い嫌悪したか。
お館様の血だけが俺を踏み止どまらせた。
だが、今やその血は男によって撒き散らされて、地に帰った。
佐助が止めるより早く、俺の足はそれの顎を踏み砕いていた。
男はにぃと笑い、佐助は声を飲んだ。
「亡きお館様に受けた恩を忘れ、甲斐を滅ぼさんとする所行、断じて赦しがたい」
今までが燻っていたかのように闘志が、覇気が身体に充ち満ちてくるのがわかる。
これはお館様が俺に付けた最後の鎖。
己の死により狂える虎となる俺を踏み止どめるための鎖。
「この真田源二郎幸村、刺し違えようと、貴様を討つ!」
身体から火の粉が舞うなど、お館様と最後に出陣したあの日以来だ。
だが、心を震わせるのは酷く暗い歓喜だ。
お館様はもういないと言うのに、跡継ぎさえ死んだと言うのに、心はお館様のために奮えると高鳴っている。
「仇を討ちたいならこの首を切り落とせ」
「言われずとも!」
とんとんと手刀で落とす仕草をする男の首を、お館様からいただいた槍が狙う。
本気の一撃は甲高い音を立てて弾かれ、笑みの残像を残し男の姿が視界から消えた。
振り返る前に鈍い音と呻きがして、飛び掛かった佐助が殴り倒される。
佐助に押し潰されて、幸村は血溜まりに倒れ込んだ。
「くっ!」
二人して立ち上がり構えるが、それきり、男の追撃はおろか、姿さえ掻き消えていた。
「逃げられた!」
「……深追いはするな、佐助」
苦々しく佐助が幸村を見る。
昨日までの魂が抜けた姿からは想像ができない、今までが夢であったかのような、覇気に満ちた幸村がいた。
あの男はただ幸村にもう一度魂を吹き込もうとし、最も確実な方法でそれを成し遂げた。
それが武田を滅ぼそうと歯牙にも掛けない非道な手段。
「先を越されたな」
「……できもしない事言わないでよ」
主君殺しの逆賊になどなれるはずがないのに。
「佐助、某はお館様にもう顔向けできぬ。地獄まで付いて来てはくれぬか?」
「俺様が地獄に落ちるのはとっくに決まってる事なんだからさ、今さらでしょ」
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