かぜがふく[1/2]


 



正直、不運と言うものに小生は慣れていた。いや、慣れておるつもりだった。

だが世とは、これほどまでに広いかと、目から鱗がはげ落ちるほどに鮮烈な不幸を小生は今まさに目撃した。


「なんてこった…」


世が世ならば天下に広く認められる真の覇王となったであろう小生が、うっかりと言うには些細な不注意により、転ぶと言うにはいささか過ぎたる川流れからの滝落ちを完遂し、己が不幸を嘆いていたさなかの出来ごとだった。

静かな崖下の森の中に轟音を響かせて流れ落ちる尊大な大自然の滝は、心を洗い流すどころか、小生の懐の財布の中身までをも流しきってしまった。

さらに頭から褌の中まですぶぬれで、滝壺で草鞋を片方なくし、ぶつけた頭の瘤に小枝が刺さり、忌々しい鉄球が滝壺のどこかに引っ掛かったらしくこの場を動くことさえできなくなり、暗い気持ちが心を満たさんとする時にそれは起こった。

遠くから、甲高い音がするのを、あぁ空からかと見上げた瞬間。

なんぞ光った、と思ったのと、身体が弾き飛ばされたのはほぼ同時であった。

それは、滝壺どころか滝そのものが吹き飛ぶ大爆布だった。

いかに小生といえど、ぬるむ足元では受け身もとれず、梃子でも動かなかった鉄球の支えがなければ流れに逆らうことなどできようはずはない。

大岩が吹き飛ばされ、水は豪雨となり降り注ぎ、熱風に飛ばされた崖から崩れた土石がつぶてとなって襲いかかる天変地異の如き大災厄。


「うおぉぉぉ!ついに箒星が待ち切れず降り注い────

がっ


飛んだ石が前歯を直撃したので一旦黙る。

だが、おかげで冷静に考える時間ができた。

頭が冷えたかい…と言う聞き慣れた半兵衛の幻聴は所詮、幻聴にしかすぎない。

大爆布が雨と成り果てるはずの束の間、雨音をつんざいた音は、それこそ聞き覚えのある奇怪な金属音。それと何者かの叫び声だった。
 

「いくぞぉぉぉ忠勝っ!」

────ッ!


雨のように降る吹き上げられた滝の水が、どっとさらに外へと弾き飛ばされ、青白い輝きと共に黒光りする巨大な姿があらわとなる。

掲げられた機巧槍。

支援機と共に張り巡らされた雷が落雷として槍に収束する。

鉄面と鉄壁の鎧により築かれた重厚な異貌。

そして背に頂く嘉成の陣羽織を纏った主の姿。


「ひょんだ忠勝だとぉ!」


再びの落雷により弾け飛んだむき出しの地面を巨大な足で踏み締め立つのは、戦国最強本多忠勝。

背から肩に足を掛けているのは、目深まで嘉成のかむりをした葵紋を背負うかつての同胞、徳川家康。

降り降ろした槍が血飛沫をまき散らすが、それは二人が流した血でないことは明らかだった。


「まさかまだ生きているとはな…」


かむりの影となった顔の中で静かに光る忌々しげな目で、言い知れぬ悲哀を滲ませた低い声で、眼下のものへと家康が吐き捨てる。

未だかつて見たことがない燃え盛ってなお消える限りを知らぬ憤怒をたぎらせた目に吊り合わぬ声色の家康が、そこにはいた。

辛酸をどれほど舐めようと罪を憎んで人を憎まぬ日の光のようだと評される家康が、なにゆえ猛るのか、恐らくはその矛先にいる者だけが知るであろうことは分かった。


「さすがに空から真っ逆様は、平気とは言いがたいんだが」

「お前でなければ死んでいるだろう。まったくどれだけ埒外なんだ」


しかし、言葉とは何と軽いのだろうか。

殺気で小生の肌はびりびりと震え、雨の刺激さえ感じぬと言うのに、しかとこの耳に聞こえる言葉はまるで殺意がない。

この場では交わす言葉など飛び散る小石ほどの価値もないのだろうと、如実に突き付けられた気がして。

小生の鞭撻な口さえ、意味ある言を発するものは等しく呪われたように、重く閉じざるをえなかった。

ただ小生に許されたのは息さえも潜めて、目を凝らして場の子細を見極めることだけであると思われた。

それほどに、両者はただ互いだけを睨み付けていた。

いや、睨み付け合うと言うには語弊がある。

まなじりをつり上げ歯を食いしばっているのは、家康のみだった。

徳川家康の前に男が一人、刀を片手で掲げて座していた。

刀は大爆布を引き起こした機巧槍と組み合わされ、冗談としか思えないが、実際に一撃を受け止めていた。

雷電が迸る本多忠勝の槍に対し、黒い爆炎が噴き出す刀が雷を飲み込みながら火の粉を散らしてにじり寄る。

どこか茫様たる雰囲気さえ感じさせる声の主は、この黒い刀の使い手に相違なかった。

本多忠勝に見劣りこそすれ、身の丈のなんと巨大なことか。

肉の塊が鈴生りになった、栗毛の駿馬もかくやな洗練された筋肉の付き具合。

そして、このような場での出会いでなければ目が釘付けになったであろう、全裸。

ある意味で忠勝の背の家康の影をかき消して余りある存在感を放つ男であった。

だが、生死を掛けた勝敗は、誰の目にも既に決していると見えた。

鎧を濡らすだけで無傷の本多忠勝に詰め寄る男の素足は、力負けして半ばまでが地面にうずもれている。

それだけではない。

あらわになった全身の皮膚と言う皮膚が内側から弾け飛び、雨に洗われ続ける傷口がそれでも血潮の赤さを失わない極度の負傷、いや死傷。

目玉も歯も髪も見分けがつかないほど血が噴き出した赤い人影こそが今の男の姿であった。

家康の言う通り本当に、死んでいないのが不思議で仕方がない。

死んでいないどころか、槍を、本多忠勝の槍を支え切っているなど、怪事としか言えないのだ。


「ここで尽きてもらう。わしとわしの守る全てが望む世を、お前は、壊す!これ以上、踏み入らせはしない!この泰平の世に!」

────ッ!


肩の上で握り拳を掲げた家康の周囲で、先程とは比較にならぬ風のうねりが生じる。

うねりは岩影から覗く小生の髪をばたばたと揺らし、じきに風と思われたものの正体、本多忠勝の発する莫大な雷光の具現をもって太陽より鮮烈な後光として家康を照らし出した。

霧雨の覆いを内から照らす雷は、虹さえも生み出し、その紫電の半径を急速に広げて行く。

殺気とは異なる刺激が肌を撫で回し、うぶ毛が総毛立った。


「いくぞ忠勝!わしらの力を!守る力を見せてやる!」

──────ッッ!!!!


小生は伏せるのが遅れた、そのささやかな失敗ゆえに、直後に何が起こったかを目撃することは叶わなかった。

平たく言えば、気絶した。

顎先の痛みに呻いて、急激に意識を小生が彼岸から引き戻した時には、全てが終わっていた。

手をついた地面は乾き切っていたし、滝は何ごともなく流れ落ちていたし、二回りは大きくなった滝壺は静かであったし、小生は覚えはないが若干焦げていたし、鉄球は後方まで投げ出されていたし、崖下の森は既に静かであった。

 
正直、不運と言うものに小生は慣れていた。いや、慣れておるつもりだった。

だが世とは、これほどにまでに広いかと、目から鱗がはげ落ちるほどに鮮烈な不幸を小生は今まさに目撃した。


「なんてこった…」


静かな水面には不釣り合いな黒い影が浮かんでいた、いやそそり立っていた。

それは、すすけた刀を掲げていた。

それは、黒い二本の手と一つの頭を持っていた。

それ以外は全て水に没し、ゆらゆらと黒い揺らぎとして見えた。

辛うじて人の形を残したのさえ僥倖としか言えない、渾身の一撃を、男は受けたのだろう。

それが男であったことさえ、もはや判別などつきようがなかった。


「負けたのか、やはりな」


あの家康がなりふり構わず怒り狂うとなれば、相当の極悪人であったのだろうが、凄まじい限り。

思うだけで背が薄ら寒くなる仕打ちである。

温厚な者ほど怒らせると怖いと言うが、家康はまさにあれであろう。

敵に回すのは賢くないことだけは肝に銘じておこう。

半兵衛は温厚の内に入らぬから除外する。

小生は己の聡明さを証明すべく、迅速にこの場より撤収することを選択した。

金や草鞋はまた作ればいい、ただ前に進むことだけは止めてはならんのだ。

一目散に鉄球を回収しに走る。

日も落ちるに任せて薄暗くなる深緑の縁になど誰がいたいものか。

勝手知ったる穴蔵にいるために誤解されがちだが、こう見えても暗いのはあまり好きではない。

だが、やはり小生は運が悪い、つきがない。

吹き飛んで回収しやすくなったはずの鉄球は、また新たな岩の隙間に挟まり込んで、にっちもさっちもいかない状態となっていた。

これは掘り出さんことには身動きが取れない。

小生の運の悪さは悲しいかな筋金入りである。

ここにいれば、また何か、必ず何かが起こる!

小生は必死になった。

手枷で岩を打ち付け、ひたすら無心に、力任せに砕く。

みるみる内に岩は砕け散るが、次から次から詰み上がった岩が上から転がり落ちる。


「ぬおぉぉぉぉぉぉ!不運じゃぁぁぁぁ!」


八つ当たりの力をありったけ込めた、必殺の一撃が、予想外の威力で岩を吹き飛ばしたのはその時だった。

への字に曲がっていた口許がゆっくりと緩み、何かに気付いて引きつる。

見たくないし見ていないし気付きたくなかった。


「……っ……ぉ……」


岩は砕け散り、鉄球は丸裸になり、小生は解放されたはずなのだが、足はがたがた震え、今にもちびりそうだった。

砕け散ったはずの岩の断面が滑らかであるはずなどないのだ。

なんとか後退さった小生に相棒の鉄球がついて来る。

岩には大きな枝が生えていた。

大きな長い黒い枝だ。

見覚えがあるはずがない。

黒い枝には鍔飾りなどないし、柄そのものもない。

朽ちた刀などであるはずがない、思い込みでしかないはずだ、死んだはずだ、黒焦げだったんだぞ、小枝みたいに肉は吹き飛んで、でも消し飛んではいなかった、死んでいない、死んでいたはずだ。

息をひたすら、吸って、吐いて、吸って、吐いて、後退り、焦げたにおい、臭い、吸いたくない、吐くしかない、心の臓が痛い、小生は官兵衛だぞ、侍が怖いものなどない、穴蔵から出るんじゃなかった、死臭がする、死んだはず。

もう後がない事がわかった時には、頭が痛くて仕方なかった。

家康はなぜ小生に気付いてくれなかったんだ、連れて帰ってくれれば助かったのに。

背後に何かがいるのは、きついきつい焦げた臭いでわかった。

だがもしかしたら前にいて小生には見えないだけではないのか。

あるいは真横にいて死角からこちらを覗いているのではないか。

日よ墜ちるな、まだ小生を一人にするな、嫌だ暗くなるのは、今暗くなるのは駄目だ。


びちゃっ


滝の音とは違う音に、ゆっくりと、分かっている、小生は、振り返ってはいけない、後ろを、分かっている、振り向く前に目が合った。

真っ白な目が熱で曇った澱んだ目が瞼の焼け落ちた崩れた肉の頬の途中でこちらを見ていて歯がずるずるの舌を絡ませて何か言いたげに黒い粘液を吐き出してこちらを見ていたのを小生は見返して。


「ぎややああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」




それが小生、黒田官兵衛があの森で最後に記憶した、極めて忌まわしい、光景だった。




【鬼が来たりて風が吹く】






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