明日で世界が滅亡するかもしれないので、
気が狂いそうだった。絶望にではない。数え切れないほど涙を流して切望した夢が叶ったからだ。
「…」
そういう場面になるとどういう反応するだとかは、やはり人によると思う。かくいう私は、声も出なかった。名前も呼べない。彼の名前を知っているのに。来る日も来る日も口にしてきた名前だ。大好きな人の名前だ。今、目の前にいる人のそれに違いないのに、口にしようとすると唇が震えてそれを拒んだ。
声は出せないけれど、目の前の人は耳が良いはずだから私からはそれなりの音が漏れており、彼はそれを不幸にも拾っていることだろう。一体どんな音がするのか想像も出来ないが、聴いて快いものの類ではないことは疑いようも無い。何故なら初対面の無言の女から有り得ないほど動揺している音がすれば、常人ならばまず訝る展開だからだ。
「あの…、どうかした?」
どうしたもこうしたもない。こちとら元号が変わる以上の一世一代の大騒ぎ真っ最中である。二人の間の不動の空気に息吹を吹き込んだ彼の声が私の鼓膜を踊らせ、次いでは脳を痺れさせ果てには心を狂わせた。声をかけられただけなのに結婚を迫られているような錯覚を覚えていた。なかなかどうして、出会い頭に体調を気にかけられただけで好意を持たれていると思い込んでしまう彼のことを自意識過剰で頭のネジがとんでいるなどとは口が裂けても言えない有り様だ。
この人のことを想わなかった日は無い。つまり、そう、ずっと好きだった。会ったことも無いのにこの人のことを知って、好きになって、もっと知りたいと思うようになった。妄想の中では何度も告白しているし、こういう展開も妄想しなかったわけではない。ただ、その妄想と何もかもが違っていた。違っていたのは彼ではなく私の方だ。妄想では、涙を流して喜んだりしてあまつさえ簡単に告白したり唇を奪ってきた。しかし現実はどうだ、間違っても告白なんて出来る雰囲気ではないし、唇を奪うなんてもってのほかだ。動揺のあまり涙も出そうにない。
会ってどうしたいとか考えもせずに、ただ馬鹿みたいに「会いたい」と願ってきた。会えるだけでいいからと。貴方に会えたら死んでも構わないと命を引き合いに出すほどの愚かな恋だった。誇りある恋のつもりだった。貴方に会えないからこそ死んで世界を捨て去りたくて、貴方に会えるこの身だったならそれこそ命が惜しくなるはずなのに。
トリップという神の悪戯に遭遇したのは数日前だ。その日はなんだか世界が私に優しい気がして、包み込むような風を感じていた、その時だった。空気が変わって、思わず目を開けた。まず目に映ったのは鬼だった。しかし、目の前の存在が鬼だと理解するよりも先に、それが誰なのか記憶から手繰り寄せる方が早かった。何故なら、幸いにもそれは上弦の参、猗窩座だったからだ。彼は女を食わないポリシーらしいので助かった。そしてたまたま隊服を着た人を見つけ、それがなんと村田さんだった。とにもかくにもそこは鬼滅の刃の世界で、村田さんと行動し始めた私はそれでもこの現状を飲み込むのに数日かかった。
それからしばらくして仲良くなった村田さんと別れ、隠部隊へ入り、炭治郎に出会い、ようやく、いつか会えるかもしれないなんて漠然と期待をし始めた頃だったのに。
いざ会った途端、これだ。声も出せず、身体は歓喜にか恐怖にか震え、脳は仕事をしない。いっそのこと、どういう反応をするべきかイメージトレーニングでもしておくべきだったと後悔さえする始末。
良い子の化身である炭治郎氏が口を開いた。
「紹介するよ。こっちは俺の同期で…」
「我妻善逸です! 君の名前は?」
個人的に眩しくて直視出来ない。アクリル版か何かを一枚挟んで頂きたいところだけれど、なんとか視界全体をぼんやり捉えるという苦し紛れの作戦で耐え忍んだ。
「苗字名前です…」
「名前ちゃんかぁ。よろしくね。俺のことは善逸って呼んでくれていいからね」
「っ、」
「ん? どうしたの?」
ああ、嘘でしょう。その名前を呼ぶなんて、出来ない。きっと今情けない顔をしているのだろうと自覚は出来ても、口に馴染み過ぎている彼の名を声に出すのには、口にすることで作り上げてきた巨大な絶壁を乗り越えねばならなかったからだ。無力な今の私に出来るはずもない。私を心配して首を傾げている彼には悪いが、それだけは早々に諦めてもらうことになろう。
にしても、ようやく涙腺が思い出したように仕事をし始めたようで決壊目前だ。
「え!? え、え? あああの、俺何かした!? ごめんね。だから泣かないでっ」
恋して焦がれてきた人が目の前で焦ったように私に話しかける様子が尚更涙腺を緩めることを彼自身は知る由も無いだろう。泣かないでと請う彼自身泣き出すという彼らしい感情起伏の激しさに少し笑いがこぼれた。私も泣き虫だけれど、彼もやはり相当だ。
「可愛い…。結婚しよう!」
「っ…」
ああもう、気が狂いそうだ。いっそ川にでも谷にでも突き落としてくれれば、まだましな思考が出来るかもしれない。
「えっ…、なんでそんな傷ついた音出すの? そんなに俺と結婚するの嫌…?」
自己否定モードに入りそうな彼を前に、ぶんぶんぶんと横に頭を振った。
「じゃあ俺のこと好きなんだね!? 結納はいつにする!?」
相変わらず復活の早い人だ。色々制御出来ていない彼に、逆にこちらが振り回されてしまう。
「やだ! また傷ついた音がする!! どっちなの、もう! 好きなの嫌いなの!?」
「善逸! いい加減にしないか!」
好きに決まってる。好きだから傷ついてるんだよ。だって、初対面の私なんかにこんな態度ということは、やっぱり女の子なら誰にでも言い寄るということに等しい。私はそんな大勢の中の一人で、本当に幸運にも巡り会えただけに過ぎない平凡な存在なのだと思い知らされれば泣きたくもなる。ああ、感情を制御出来てないのは私の方だ。
「嫌いじゃないよ。でも、初対面の子に求婚するのはもうこれきりにしてほしいな」
私はようやく希望という、自分には似つかわしくないものを捨てた。そうすれば彼の目が見開かれたのを私は自身の心臓を揺さぶりながら見た。
「そうだぞ善逸、失礼だ」
「だってさ、」
「だってじゃない。約束して」
「へ……」
聞きたくもない言い訳に被せるように念を押した。
「一目惚れするなとは言わないけど、これからは貴方が口説いていいのは一人だけ。いい?」
「で、でも…」
「大丈夫。運命の人は会えば分かるよ」
「う、うん」
「よろしい」
きっと。今後唯一彼の寵愛を受けるのは、炭治郎の妹ただ一人。それでいい。私は禰豆子ちゃんに恋をする我妻善逸に恋したのだから。そして、これは私のなけなしの矜持だ。私には私の愛し方がある。今までずっと、そうしてきた。不毛な恋に溺れて、私はようやくこの世界で息つぎが出来るのだから。
見ているだけで良かった。我妻善逸を視界に入れて、騒がしい声を聴いて人知れず笑ったりして、少年らしい表情の移り変わりを見守る。それだけで私はこの世界で生きることが出来ている。生きていると実感出来る。それで充分なはずで、これ以上欲しいものなんて無いし望むのは罰当たりだと思っていたのに。
「………うそ」
どうしてこうなってしまったのだろう。出動要請を受けて現場へ駆けつければ、鬼との戦闘で大怪我を負った我妻善逸が横たわっていた。私が満身創痍の彼を見るのは初めてだった。しかし、現場は遊郭で、相手は上弦、他の隊士も重傷で、私はこの状況を知っていた。知っていたのに、実際に彼の目が閉じられた様を見てしまうと、ぴくりとも動かない死体のようなその様に、腰が抜けて立てなくなってしまった。辺りで「おい、急げ」などと急かす声が聞こえる。聞こえるものの、脳内へは及ばないようで思考へ組み込まれることはない。彼に触れようと腕を伸ばすけれど、届かない。否、触れるつもりがなかったのかもしれない。私は隠で、負傷した隊士を蝶屋敷か医者の元へ連れて行かねばならない。ましてやこの人は私の大切な人。それなのに、私はまるで使い物にならなかった。
「邪魔だ、退け」
他の隠が彼らを運び、私は叱られることこそなかったものの、もっと酷いことに、役立たずだという侮蔑の眼差しを一身に受けることになった。こんなはずではなかった。この手で彼を助けたかった。大層な処置など出来ないけれども、自分に出来ることくらいはするつもりだったのに。もっと重傷の、それこそ目もあてられないような悲惨な重態や、死体もたくさん対処してきた。それでも彼だけは、彼のその力無く横たわった姿だけが、自分を制御不能にする鍵となった。
結局のところ邪魔をしたのは、触れたことがなかった肌と温度を知るのが怖かったからだと思う。いや違う、彼が目の前で死ぬことが恐ろしくて、自らの首を締めるように膨れていく責任を背負いきれなかったからだ。いや違う、聴覚が優れた彼に全て筒抜けになるのではと危惧したのだ。いやそれも違う、こんな私が彼に触れては……。結局のところ、何故私が彼に触れられなかったのか、自分でも答えを出せていない。ただ、彼への想いが邪魔をしていたということは分かる。触れられないほどの恋しさという矛盾を抱き締めて、とうとう触れられなかった。そのせいで私は現在盛大に後悔している。
それから数日が経ち、数週間が経ち、我妻善逸は炭治郎や伊之助よりも早い復帰を果たし任務をこなしているそうだ。私はというと、元の世界には帰れず彼とも何もないまま時間だけが過ぎていった。
ふと、思ったのは、明日元の世界に戻ったとして、後悔しないかどうかということ。答えは簡単だ、確実に後悔する。会えるはずもない人に会える距離、会える環境に居るにも関わらず、私は好きな人に「好き」と言っていないのだから。
そして神様は今度は何の気まぐれか、街外れでばったり二人を引き合わせた。私と我妻善逸をだ。好機だと素直に意気込める性格なら良かったのだけど、腹が決まるまで数分を要してしまった気がするが、優し過ぎる彼は戸惑った様子で立ち止まったまま私を見つめている。いや、どうかそんな純粋な瞳でこんな情けない女を見つめないでほしい。
しかし臆するな私。明日、元の世界に戻るかもしれないと思え。勇気を、振り絞れ!
「あの…!」
「はい! …えと、名前ちゃん?」
「その、…明日で世界が滅亡するかもしれないので、悔いの無いように貴方に伝えたいことがあります」
「えええっ!? 明日世界滅亡すんの!? 何それ初耳なんだけど!? なんでそんなことになるわけ!?」
……あー。例えが悪かったな。この人ならこういう反応するのは予測出来たはずなのに。私の馬鹿。でも決心が揺らがないうちに言ってしまわなければと、申し訳ないがその動揺はスルーさせてもらうことにする。大丈夫、明日世界が滅亡する確率なんて、鬼舞辻無惨がもう一人現れるよりも低いだろうから安心して欲しい。"異世界トリップしました"なんて言っても理解してもらえるはずがないのでそう言ったに過ぎないが、私の頭脳の残念さを懺悔するのは是非次の機会に繰り越そうと思う。
決心が揺らがぬように、一歩一歩踏みしめつつ彼に近づけば、それに比例して彼が怯えていった。
「名前…ちゃん…?」
さらに一歩。すると彼が後ずさり。そうしていつしか全力疾走の鼬ごっこが始まってしまった。どうしてこうなった。私はただ、この気持ちを彼に伝えたいだけなのに。そう思って走りながら無意識に叫んでいた。あとから思い返したとき悶絶するであろう恥ずかしい台詞をだ。
「我妻善逸を愛しています! 明後日を迎えても世界が続くなら、世界の終末まで貴方に、私の恋の! 全てを捧げます! 貴方が! 大好きだったの! 、善逸!!」
体力の限界に到達して立ち止まって息を整えれば、思ったより間近で彼の戸惑う声が聞こえて顔を上げた。先を走っていたはずの彼はこちらを振り向きそのベビーフェイスを紅色に染めていてこちらを凝視していた。更にその右手は私の右手に捕らえられている。これは、なんてこったい。触れてしまった。あの時触れられなかったのに、今、こんな特に必要性の無い場面で触れていいはずないのに。
……とにかく私は言い切ったのだ。そして今、体が全力でこの場を去ろうとしている。恥ずかしい恥ずかしい。なんで言っちゃった私!? いや言って後悔は無いけども!! そんなわけで素早く手を離し、回れ右して駆け出した、のだが。
「ちょっ……名前ちゃん!? 今のって、」
……あーー。どうして立ち止まっちゃうかな、私。でも。好きな人に呼び止められて、立ち止まらないわけないね。大好きな声に名前を呼ばれて、立ち止まらないわけないんだ。更には大好きな人の体温に触れてしまったこの体が浅ましくもまたそれを期待してしまっているから始末に負えない。
恐る恐る振り向けば、混乱している表情。いいな、もっと困らせたい。私が、貴方が困る理由になりたい。とうとう醜悪な欲望までが顔を出してしまった。人間という奴は調子に乗る上に強欲な生き物なのだ。私達はそれを正しく理解して生きていくべきだ。つまり、こんな甘い展開は私を堕落させる毒でしかないのだ。一度自分を叱咤して落ち着こうと深呼吸を試みる。よし。
ーーニコッ
「っ、」
奇天烈な表情を視界に映しながらすぅ、と息を吸う。けれど小さな小さな声で充分、彼には、彼だけには届くから。
「明日も明後日も、貴方に会えますように」
素直ではない私は、開き直るという悪あがきを見せたのだった。くるりと踵を返して、踏み出す足は今度は軽快で。いつのまにかスキップで鼻歌まで歌っていた。明日はちゃんとやって来るだろうか。明日はどんな明日だろうか。明日も、彼には会えるだろうか。私の大好きな大好きな大好きな、我妻善逸に。
次の日、なんと向こうからわざわざ会いに来てくれた我妻善逸に、私が怖じ気づいて逃げ出してしまうのは、また別のお話。
fin.
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