強欲を恐れた鉄壁

 出立の朝、名前から聞こえてくる音がとても透明で魅惑的に響くようになっていた。ふっきれたように全部包み込むような……そんな音。以前までは迷子みたいだった恋の音が、今では酷く真っ直ぐに俺を好きだと云っていて、それが聞こえている俺本人だけが内心照れまくるという諸行。視線でさえ好きだと云ってくる名前に、何度も頭が真っ白になった。俺はどうしたらいいんだ。名前の音が気になって仕方ない。こんなにも魅惑的な音を聴いたことがない。俺の幸せを願っている音だった。多分、禰豆子ちゃんとの幸せを。なんだよそれ、前まで嫉妬心丸出しだった癖に。反則だろ。音を聞けば分かる、名前はもう俺に告白してくるつもりがない。でもあんな音聴かせておいて俺が無視出来るわけないじゃんか。卑怯だよ、名前は。いや、卑怯なのは俺か。思い返せば、俺は気付けばいつも名前を目で追っていた。那田蜘蛛山から蝶屋敷への道中はずっと名前に見とれていたし、蝶屋敷で働く名前が、翼を出して日光浴する名前が、赤面して羞恥に悶える名前が、目に焼き付いている。
 そしてさっきの幸せな夢にも名前がでてきた。ああそうか。俺、名前のことがめちゃくちゃ好きだったのか。鈍いにもほどがあるだろう俺。禰豆子ちゃんを好きだと思っていたけど、俺以外の誰にも守らせたくないと思うのは名前だけなんだよ。名前が好きだ。好きだ好きだ好きだ好きだ。伝えないと。君に言うべき言葉がやっと分かった。名前は俺みたいに耳で察してはくれない。ああ、きっと今まで沢山傷つけたかもしれない。ごめん名前。でも名前はあの夜這い事件以外で俺にはっきり好きって口にしたことないよな、いつも頑なに否定するし。まあ俺も言ったことないけど。でも俺諦められないから。例え君が元の世界へ帰ってしまうとしても、俺の気持ちを聞いてよ。俺は君じゃないと嫌なんだよ。


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 翌日、柱一人の訃報の後遅れて帰ってきたのは、たった一日でボロボロになり果てた三人だった。
 黄色い羽織りが目に入ったとき、既に走り出していた。ちゃんと帰ってきてくれた。良かった。本当に良かった。炎柱様が殉職してしまうような危険な場所から、生きて戻ってきてくれた。案ずるより産むが易しって云うけれど、信じて待つのってやっぱり難しい。いつの間にか号泣しているお互いを繋ぐ一本道を走りきれば、優しい男の子が受け止めてくれる。少し逞しくなった背中に手を回して黄色い羽織りを握りしめた。この肌で触れて、体温を感じて、ようやく今までの心配が報われたかのようなとてつもない安堵に包まれるのだ。

「善逸、…善逸、」

 たった一日離れていただけなのに、会いたかっただなんてとても言えない。寂しかったなんて言えない。だって恋人でもないのに。しかし"音"で伝わってたらいい。善逸はといえば赤面しひたすらうろたえていた。

「帰ったよ、名前。それでその、約束のアレは出来れば唇にしてくれない…かな…」

 が、しかしそうではなく、実際はご褒美欲しさにそわそわしていたらしい。チラ、とこちらに意味ありげに目配せをしてくる黄色に、少し逡巡してから口角をあげた。ゆっくり、ゆっくりと、あまり変わらない身長の善逸の顔に近づいていく。遂に目を瞑ればその体は更に硬直した。

「っ……」

 善逸はひたすら受け身だったけれど、柔らかい唇は確かに震えていた。「おかえりなさい、善逸」そう言うとわなわなと震え出す。いつものアレがくると直感した私は一歩下がった。

「名前、結婚してくれ! ……ぐぶぇっ!!」

 それは調子に乗り過ぎだろう、そう思って振りかぶって思いっきり腹にグーパンを入れてしまった。けれどちょっと待って。私は彼に口付けをしたのだから、調子に乗っているのは私の方かもしれない。自分から口付けしておいて調子に乗るなとはなんと理不尽なことだろうか。しかし理屈と感情は一致しないことの方が多いわけで、暴走した感情をしずめた私は泣きべそをかいている大好きな男の子に今度は打って変わって「結婚はしません」と優しくさとした。

 そしてこの日から善逸が私に対して猛烈求婚を開始することになったのは、本当に私の理解の範疇を越えることであり、私の頭を存分に悩ませるのだ。今回の任務で、伊之助に目立った傷は無いものの炭治郎は腹部に致命傷を負い、善逸はまた頭から血を流していた。本人は覚えていないの一点張り。思い当たる可能性に眉根を寄せるもこればかりは干渉しようがないのでお手上げ状態。それにしてもどうしてこの人はいつもいつも頭から落ちるのだろうか。炭治郎みたいな石頭じゃないんだから、もっと頭を大事にして欲しい。そう願いながら善逸の頭の手当てをしていた時からそれは始まった。

「名前も俺のこと好きだろ!?」

 そりゃあ好きですよ。大好きですとも。でも貴方の好きな人は私じゃないでしょう。からかいも過ぎると温厚な私だって我慢ならないものがある。

「………馬鹿!」

 無言でテキパキと治療を終わらせ、去り際に椅子を投げつければ背中から盛大な悲鳴が聞こえてくるも、自業自得だと信じて疑わない。

 それでも毎日のように結婚、結婚と鬱陶しいことこの上なくて。遂に彼はまた私の恋心を逆撫でする嘘を吐いた。

「名前が好きなんだ!」
「っ、………」

 滲み始める涙をこらえてジロリ、睨めば善逸は息をのんで黙った。ああ、これ、あれだ。また藤の花の家門の屋敷の、あの夜の時に逆戻りしてしまったなあ。でも「好き」だなんて嘘をつく善逸が悪いのだ。それから善逸に無視を決めることにした私は救いようのない馬鹿に違いなかった。善逸のそばに居られないことが一番自分を抉っていくことは分かっているのに。
 やがて、善逸がそれを口にしない限りいつも通り、善逸が求婚してきた途端に無視するというスタンスが完成した。


 ある日のこと。

「あ、村田さん」
「君は…確か…」
「名前です。那田蜘蛛山の件で炭治郎達のお見舞いに来ていらっしゃいましたよね」
「…ああ! あの時胡蝶様と一緒に部屋に入ってきた…。あいつらは元気か?」
「それはもう。あれからみんな目の色が変わったみたいに鍛練に精を出して…」
「あぁあすまん! そんなつもりじゃ…」

 炎柱様が炭治郎達を命をかけて守り抜いたこと、炭治郎達の悲しみ悼む様子、炎柱様の意志を継ごうと無茶なほど鍛練に励む三人を思い出してつい暗くなっていってしまった。

「あいえ、こちらこそすみません。そういえば村田さんはあの三人と違ってあまりお怪我なさいませんよね。流石です」
「いや、那田蜘蛛山の時は本当に死にかけて、胡蝶様に助けられなかったら今頃……」
「運も実力のうちです。自信持って下さい。鬼殺隊として長く鬼と戦い続ける村田さんを私は凄く尊敬しますよ」

 純粋にそう思った。村田さんだけじゃないけれど、鬼なんていう人知の越えた怪物に何度も、何度も何度も果てしなく向かっていかなくてはならない。その度に命の危険が付きまとう。相当な精神力でないと続けられないはずだ。だから長く鬼殺隊に身を置く人を、それだけで私は尊敬に値すると思う。

「……あのさ、今度…俺と甘味でも食べにいかないか?」

 いつの間にやら顔を赤く染め、照れながらも私に向けられた突然の村田さんからのお誘い。驚きつつも思わずときめいてしまった心臓に気付かないふりをして、悪魔で平静に、特に断る理由も無かったため了承した。後ろめたいことなんて、……無いはず。善逸にわざわざ報告する必要もないはず。だってただの……。

 あれ、これってデートじゃないか? そう思ったのはもう既に餡蜜を食べ終える頃で。その間、私が提供した話といえば、殆ど善逸のことだったかもしれないと今頃になって気付いた。ふと顔を上げれば村田さんは呆れた表情で私を見つめていた。ときり、と心臓のあたりが疼く。あ、この表情好きだ。でもつい、善逸だったら、なんて想像してしまう。

「あの、私…」
「気にするな。まあ、あいつの話ばっかで正直キツかったけど…。恋する女は美しいっていうしな。勝手に惚れた俺が悪いんだ」
「惚れっ……村田さん、」

 自意識過剰でなければ、思い上がりでなければ私は告白されたのだと思う。青天の霹靂に口を両手で覆った。しかし目に映ったのは悲しげに微笑む村田さんで、私は居てもたってもいられず必死に紡いでいた。

「村田さんは格好良いです! 素敵な殿方です! 私には勿体無いくらい、大人で、強くて、」
「俺は強くなんかないぞ」
「強いです。心が! 私は柱と同じくらい、心の強い村田さんを、」
「名前っ!!」

 尊敬している。そう口にしようとする前に誰かが私の腕を掴んだ。聞き慣れた声の主を脳が特定するより先に条件反射で振り向けば同時に胸が締め付けられるほど好きな匂いが鼻腔を掠め、続いて先程まで話の渦中にいた人物の姿が目に飛び込んできた。


+++


 ああ、やっぱり綺麗だ。つい見惚れてしまうほど、恋する名前の顔は。例えそれが他の男に向いていたとしても。しかし飛んだ当て馬だったな、俺。

「なあ、本当だって! 信じてよ! 名前じゃないと嫌だ俺!」
「っ……フンッ」

 ん、あれ。こいつら両思いじゃないのか? 喧嘩か? 怒りを湛えた我妻と困惑した名前でお決まりの口論をした後俺を含めて店を追い出されて、何故か地面に引きずられても腰に巻き付いて離れない我妻を押し剥がそうとする名前。というかどちらかというとこれは名前の浮気現場に当たるのに、逆ではなかろうか。そう考えながらも見かねた俺が我妻を引っ剥がすと、敵意むき出しでメンチきってくる後輩に思わずたじろいだ。俺、先輩なのに。今度はそんな俺を見かねたらしい名前が我妻を引っ張るが、逆にその手を取られて壁に押し付けられていた。これ、壁ドンってやつだ。俺はいよいよ蚊帳かやそと

「大体、名前が好きなのは俺だろ」

 すぐ側で俺が聞いているというのに恥ずかしげもなく至近距離でそんな台詞を吐いた我妻を名前は信じられないといった表情で見上げた。

「なっ…なっ…なな…」

 我妻の背中越しに照れて赤面している名前を目撃して、俺は更に頭が冷静になる。何やってんだろ、俺。


+++


 第三者から見れば恥ずかしい台詞を自信有り気に吐くが、壁に押し付けた名前は赤面しつつも否定も肯定もしない。しかし、名前が俺を好きなことはもう分かりきっているし、俺も名前が好きだと気付いたことでもう止まれそうにない。

「ねえ、俺からもチューしていい?」

 まるで名前も俺に口付けしたことがあるような言い方。でも事実だし、敢えてそう言った。予想通り、俺の背後の男をチラチラと気にして羞恥で更に顔を赤らめた名前が空いている片方の手を振りかぶったので容易にそれを捕らえ壁に押し付けた。最近の名前はすぐ手が出る。けど照れ隠しだと分かっているからそれをも可愛いなと許してしまう。というか、両手の自由を奪われた名前が涙目で至近距離で睨んでくる視界が広がっている。これは、ヤバい。

「え、嘘、駄目っぜん……」

 ムラ、と湧き上がれば身体が先に動いていた。触れ合う瞬間まで焦って拒絶を示していた名前の唇が、熱を分け合った途端に口付けに身を委ね溺れていく様子に満たされていく。

「ん…村…田さ…見て…っ、」

 人前とかもう頭に無かった。名前の言葉の意味も省みず、好きな女の子が口付けの最中に他の男の名前を呼ぶことに無性に苛立って舌を押し込んだ。

「っ…!」

 背後で踵を返す音がして、ほんの少し感じた罪悪感を胸の奥に仕舞い込む。本腰を入れて名前を求めればガクンと腰を抜かして地面にへたり込んでしまった彼女を見下ろす。お互い息をきらして熱に浮かされた目で見つめ合った。俺の脳内で欲望と理性が殴り合いをしている最中、名前が悲しげに顔を歪めたので思考が止まった。何で、そんな遠慮の音をさせてるんだよ。誰に遠慮してるの? ……ああ、禰豆子ちゃんか。いくら信じてと言っても名前の音は変わらず俺の幸せを願っていた。名前の心は"善逸くん"でもなくもう確実に俺のもののはずなのに手に入らないという矛盾だけが俺を苦しめる。

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