唇の熱を分け合うまでは

 恋の音がしていた。名前からはいつも。初めて会った時のそれは多分別の俺に向けられたものだけど、藤の家紋の屋敷で療養する頃にはその音は既にしっかりと俺に向いていた。心当たりは無いけど、それは俺をもドキドキさせるような音で。それからそれは段々と俺にとって心地良い音へと近付くように澄みきっていった。こんなにも『俺を好き』って音をさせて口では否定する名前にほとほと呆れていたんだ。それなのにやっと素直になったと思ったら俺が着ていた衣服の匂いを嗅いでいて、あまりの衝撃に思考が停止してしまった。何故か泣きついたまま気絶した名前をまた俺のベッドに運んでしのぶさんを呼べば、なんとなく生暖かい目で見られたのは謎だ。分からないことばっかりだ。それからというもの徹底的に避けたかと思えば今度はいきなり夜這いですか! 極端過ぎるよ! もうやだこの子! 思わず組み敷いたけど自分のベッドで赤面する女の子なんて、もう据え膳食わぬは男の恥状態だろ? 『善逸、…大好き』しかも脳内で反響する愛の囁きがなかなか消えない。もう結婚するしかなくない? でも何か迷い悩んでいる様子の名前に全力で拒否られて、挙げ句の果てに泣かれて、俺はとうとう折れた。本当に素直じゃないな、名前は。


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 あれから私の心境は変わって、以前にも増して善逸にメロメロ状態だ。今日も今日とて視界には常に善逸が居るし、目が合えば赤面して俯く、今まで通り平静には会話もろくに出来なくなってしまった。あんな変態行為を目撃されながらも拒絶しなかった善逸は器が大きいと思う。むしろ優しく抱き締めてくれたあの夜のことは私の宝物である。あの夜が明けて目が覚めたら善逸の腕の中に居たので、その記憶や感覚は大切に心の中に仕舞い込んだ。思い出すだけで顔に火がつきそうである。
 もういい加減、認めざるを得ない状態になってしまった。匂いや声、蒲公英たんぽぽの色、体温……もうこの身体が、五感が善逸を覚えてしまったのだから。

「あっ、そこの隠のお姉さーん、お茶でもどうですかぁ〜?」

 しかし、嫌なことにばかり気付いてしまうものだ。私の疲弊した精神にそれはもう追い討ちをかけるように。禰豆子に会ってから善逸は誰にも一度も求婚をしていない。会う女の子会う女の子、誰にでも出会い頭であんなにすがりついていたのに。つまりそういうことだと思う。どういうことかって? 知りたくなかったけど、いや薄々分かっていたけど、善逸は禰豆子のことを本気で好きということだ。毎日欠かさず禰豆子に会いにいって夜に二人で出掛けているのを知っている。恋心を認めない癖に嫉妬心は一人前で、自分で自分に呆れてしまう。

 そこで思い立ったのが、恋愛相談である。今までもアオイにのってもらっていたが、毎回男の趣味が悪いと言われる終着点なのでそろそろ経験者の助言も欲しいところだ。

 まず思い浮かんだのはなんと嫁を三人もつというらしいこの人。

「はァ? 好きな奴が二人いてどっちを選べばいいかって?」
「選ぶというか、どちらも不毛ふもうなんですが……私の気持ちの問題で」
「…どっちも好きでいいんじゃねぇの?」

 音柱の宇髄様。この人の感覚は参考にならないと、会った瞬間に感じた。なんというか、見た目もそうだが常人の感覚とズレたものをお持ちだと悟った。そもそも嫁が三人居る時点で奇人だ。しかし、こう、妙に説得力があるのは何故だろう。

 次に、普段からお世話になっている胡蝶しのぶ様。

「どちらも本気で好きならそれでいいんじゃないでしょうか。そもそも同じ人物なら相違点を見つける方が難しいでしょう。気持ちを無理にねじ曲げる必要は無いと思います」
「しのぶさんも音柱様と同じことを仰るんですね」

 そう言うと機嫌を損ねたのか、顔をしかめられてもう何も応えてくれなくなった。
 そして私の心を動かすきっかけをくれたのは、我らが炭治郎だった。

「……なるほどな。世界なんて誰もしようと思って干渉出来るものじゃないし、同じ世界に善逸は二人同時に存在し得ない。それなら、選ぶ必要なんてないんじゃないか?」
「でも、裏切ってしまう気がして」
「裏切る?」
「例えば、今この世界の善逸を選んだとして、もしまた元の世界に戻ったら私は元の世界の善逸くんに顔を合わせられないよ。それでも私は弱いからやっぱり善逸くんもまた改めて好きになるかもしれないけど、私の恋心を世界の勝手に委ねたくはない」
「うーん……。人の気持ちや考えは時と共に移ろうものだし、…あっいや、名前が心変わりしやすいって言ってるわけじゃないぞ。俺は、その時になって決めればいいと思う!」
「その時って?」
「その時だよ。来れば分かる」
「…そう、かな?」
「うん! 今名前が居るのはこの世界で、もし元の世界へ戻ったとしても俺達は名前の味方だよ。名前は自分の気持ちに素直になればいいだけだ」



 そしてその晩、昔の夢を見た。

 毎朝、校門で挨拶しようとすると善逸くんはいつも他の女の子を見ている。あっちこっちへいやらしい目線を送りあまりに節操が無いから、ちょっと魔が差したこともあった。

「善逸くん、一途って言葉知ってる?」
「名前ちゃん……も、もしかして……っやだやだやだ待ってくれぇええごめんねごめんねぇええ謝るから愛想尽かさないでぇええ!!!」
「うん落ち着いて。そんな我妻善逸くんにこの私が"一途"を教えてあげます」
「…え?」
「一途の心得その一、相手の目を三秒たっぷり見つめて挨拶します。……おはよう、善逸くん」

 三秒見つめてから耳元で囁けば、彼は口から魂みたいなのを吐き出して倒れたりして、あれはちょっとやり過ぎたかもしれないなあ、なんて。私は進んで彼を振り回していた。それは彼の女好きを憂いてのことでもあり、自分の想いを制御しきれなかったせいでもあった。付き合ってもいなければ、はっきりと告白もしたことはなかった。けれど彼は持ち前の耳の良さで私の気持ちに気付いてると知っていたから、存分に開き直っていたのだ。



 朝、外は丁度白け始めた時分。目が覚めたら、不思議と答えは出ていた。というより、覚悟が決まったといった方が正しい。
 そっか。私、"善逸"も"善逸くん"も好きでいいんだ。今は"善逸"がそばにいるから、ああ好きだなあと思うのは"善逸"であって"善逸くん"ではない。でもそれは仕方の無いことだ。私と"善逸くん"の時間は止まってしまったのだから。無いものねだりをするよりも、そばにいる"善逸"を大切に想い続けようと決めたら、私はなんだかとてもとても楽になれた。

「善逸、おはよう」
「名前、……! おはよう」

 すこぶる良い耳で私の心境の変化に何も言わずとも気付いてくれる善逸。たとえ彼が別の女の子を大好きでも……。私の気持ちは、覚悟はもう揺らがない。



 自分の気持ちにけりが付いた私はすっきりとした顔で三人を見送った。鬼の討伐に向かった炎柱様を追って列車へ乗るのだという。
 蝶屋敷前での涙のお見送り後、私はこっそり翼を広げてお忍びで駅へ向かった。三人分の切符を購入している黄色い髪の人を見つけて、善逸と呼べばこちらを振り向く愛しい人。それだけでこんなに世界が幸せで溢れてしまう。その類い希な能力をいとわず利用し、私のどんな声も漏らさず拾ってくれる優しくて素敵な人。その黄色い羽織りを掴んで物陰に引っ張り込んだ。

「うぉっ…と。え、名前!? なにしてんの!?」
「いってらっしゃいのチューしてあげる」
「えええええええ!!! いいの!? いいのォっ!? いやちょっと待って…………はいどうぞ、つつしんで頂戴します」

 いつものように一通り取り乱したと思えば辺りをキョロキョロ見回し、キリリと表情を引き締める善逸。それに今度はこちらがときめきながらも開き直って顔を近付けていく。私の唇は、血走った目をギュッと瞑った善逸の唇の上を通過し、頬に軽く吸い付いた。チュッと小さな音を立てて離れれば、徐々に赤みを増しながらゆるんでいくのは先程男前にキメていた顔と同じはずのそれ。だらしないそれは格好良くなんてないはずなのに、なんだか無性に愛おしい。

「っていうか、あれ!? 唇じゃないの!?」

 と騒ぎ始めた善逸の体の向きを百八十度回して背中を押し出す。

「おかえりなさいの分もしてあげる」

 だから必ず帰ってきて。そう言えば彼はまた男の子らしい顔付きになって力強く頷く。

「いってらっしゃい、善逸」

 喧騒に紛れていく黄色い背中を見送りながらの呟くような声だけれど、彼の耳ならばもしかしたら拾ってくれたかもしれない。

 改めて善逸を好きな自分を受け入れて、禰豆子を好きな善逸もひっくるめて好きと受け入れて、私という女の子はきっと前より少しだけ輝けてるはず。さあ、私の人生はここからだ!


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