ドウタヌキ?


ロックスターに生まれたかった


風がゴゥゴゥと唸っていた、空がずいぶんと近く見える。
雲一つない空はブルーだった、私が握っている御守りもブルーだった、彼のサングラスの色もそういえばブルーだ。空は水色で、私の御守りと彼のサングラスはスカイブルーなのだから変な話だ。
私は手の中の御守りを見る。小さなカッター、殺傷力のないナイフだ。
彼女が量販店で買い、大切に持ち歩き、そして最後は私に託した。
彼女は少女のまま永久に時を止めてもう二度と会う事はない。
「御守りだよ」と彼女は笑った。
彼女が何を思い何を伝えたかったのか今の私には分からないしきっとこの先も分からない。
誰かの気持ちを分かろうなんて不可能な行為だと言ったのは彼。
私は空を見上げる、この屋上へ続く唯一の通路は施錠したので私は一人だ。
空いた方の手で拡声器を握る。私は何をしようというのだろう。
「物語など始まらないのだよ、人生においてね」彼は言う。
「誰も物語の主人公になどなれないし、劇的なことなどおこらない、絶世の美女と運命的な出会いをするとか、逃走中の孤独なスナイパーを助けるとか、絶対不可能密室殺人の容疑者にされるとかそんな物語は始まらない、もしそういうことが起こったとしたらそれはその人の日常なのだよ、物語ではない」
淡々と表情も変えず、夕凪のように、深海のように、風のない草原のように彼はそう言った。
「劇的な変化を自ら起こすのもまた日常なのだよ」
孤独が怖いから傷つけました、人を厭うから逃げました、愛されたいから泣きませんでした、戦いたかったから笑いませんでした、壊したいから何もしませんでした、変わりたかったから黙っていました。
結局のところ私に何ができたのでしょう?
私は何がしたかったのでしょう?



ロックスターに生まれたかった



地下鉄鶴舞線大須観音駅を降りてからのんびり歩く。本当はもう一つ先の駅から降りた方が早いのだけれど、私は此処からの行程の景色が好きなのでいつもそうしている。
そうして大須商店街の中の喫茶店へ入る、カフェじゃなくて喫茶店なところがポイントだ。
ドアの鈴を鳴らして中へ入ると、一番奥の一番角にもたれ掛かるように座り込んで煙草を噴かしている一人の人間を見つけた。人間なのは当たり前か、これがチンパンジーとかだったらかなり怖い。まぁそれはどうでもいいのだが。
桜の模様の入った黒い長袖のシャツに、黒いニット帽にこれまた黒のハーフパンツはおそらくツーサイズは大きい。耳にはピアスの代わりに細いチェーン、唯一サングラスだけが薄いブルーだ。
その人物は緩慢な動作で顔を上げて私を発見すると、緩慢な動作で手を振った。
「やぁ元気かい?ゆりね君。相変わらす素敵に微妙なファッションセンスじゃないか。まぁ座りたまえよ、コーヒーでもストロベリーチョコレートフルーツ抹茶パフェでも頼むと良い、おごりはしないよ、君の金だ。だから好きなものを頼むべきだ、飲食店に入って自分の食べたいものを頼まないなんていう愚行はないよ、最低的に愚かな行為だね、但し自分の財布の中身とは相談した方が良い、声をかけたところでお札や小銭に返事を期待しちゃいけないよ、残金と料金を照らし合わせるという意味だ。さぁ座りたまえ」
おそらくカフェインとニコチンのとりすぎで頭が飛んでいるのだろう、血管が詰まっているのかもしれない。
言わせてもらうがストロベリーチョコレートフルーツ抹茶パフェなんてファンキーなメニューがこんな寂れかけた喫茶店にあるはずもない。
ついでに私の今日のファッションはすこし前に一世を風靡した映画バトルロワイアルの制服という時代錯誤なものだ、本当は血痕と首輪もつけたいところだが、人混みにでるのでそれはやめておいた。
この変な人間の名前は蓮咲蓮。回文のような名前だ。年齢不詳だがおそらく20代前半、長身痩躯の男、少年と呼ぶには老成しているし青年と呼ぶには幼すぎる半端な外見だった。
仕事をしているようには見えないが金に困っている様子はない、かといって余裕があるわけでもないので、フリーターと言ったところだろう。
昼間は大抵この喫茶店にいるので夜間のバイトでもしているのかもしれない。
「言われなくても好きなもの頼むって、蓮みたいに一日中コーヒー飲んでる人間と一緒にしないで」
他の客の目があるので私はさっさと向かいの席に腰掛けた、ついでにココアを注文する。
「僕は好きでコーヒーを飲んでいるんだ、コーヒー以外の飲み物は受けつけないタチだからね」
嘘をつくな。いくらなんでもそんな人間はいない。
「カフェインのとりすぎよ、不眠症なのは自業自得ね」
私はおしぼりで丁重に手を拭きながら言い返した、まぁこのやりとりは「こんにちは」の挨拶代わりのようなものだ。
「夜眠れない事とコーヒーを飲む事を天秤にかけたらコーヒーの方が重いんだよ」
そう言って蓮はコーヒーを啜った。
「不登校少女はまた退屈を持て余しているようだね」
蓮は読んでいた浅田次郎の文庫に栞を挟んで閉じて私を見た。
「うん。これ以上ないくらい退屈よ、退屈は人を殺すっていうけれどこのままじゃ本当に死ぬわ」
「安心したまえ、退屈で死んだ人間などこの世に存在しない、発狂した人間なら知っているが」
「死ぬより最悪じゃない」
「日常生活における退屈のレベルではないよ、何もない部屋に何も与えず監禁されると人は発狂するんだ、日常レベルの退屈では精神をすり減らすことはあっても死にはしない」
「そりゃそうでしょうよ、退屈で本当に人が死ぬならとっくに人間は滅んでるもん」
「ゆりね君は何がしたいんだい?僕はこうして読書ができればそれで満足なんだが今日びの女子高生は何をしたら退屈が紛れるのか知りたいね」
「一般的には友達と遊ぶことじゃないかな?私は友達いないけどね、読書か音楽鑑賞ってとこかな」
蓮は「音楽」という部分に目敏く反応してサングラスの奥の目を細めた。
「音楽は素晴らしい、人類が作り出した最高傑作だよ」
おまえは渚カヲルか。
とてもそうは見えないが蓮は生粋のロックキッズなのだ、ロック狂といっていいほどのロック好きだ、彼がチョイスしたMDを私もよく借りるがさすが聞き込んでいるだけあって選曲のセンスがいい。
「あと退屈を紛らわすためじゃないだろうけど、リスカとかアムカとかODか流行っているよ、知ってる?」
「リスカはリストカット、手首を切る事、アムカはアームカット腕を切る、ODはオーヴァードーズ薬を多量摂取すること、どれも自傷行為だね、それは流行りなのかい?」
「ネットを見たらそんなのばっかじゃない」
「それは見るところが悪いんだよ」と蓮は鼻を鳴らした。
「自傷行為の理由の大半は注意を引きたい、かまって貰いたいという欲求からくるものだよ、加えて今はメディアがそういう情報を流すからマネをしてやってみる子も当然出てくる。またファッションリスカというものもあるね、あくまでファッションとしてリストカットをする、可哀想な自分を演出するわけだ。一部のビジュアル系バンドのファンの間でもバンドの世界観に合わせてリストカットをする子も増えている」
「悪しき習慣だわ」
私の言葉に蓮は首を振った。
「あくまでファッションはファッションなのだよ、自分でピアスの穴を開けたり入れ墨を入れたりするのと一緒だ、問題は本当に心を病んでいる人間が紛れてしまうことだろうね」
「蓮は…」
私は少し言い淀む。
「蓮はリストカットをどう思うの?一般論じゃなくて、蓮の意見」
「推奨はしないが否定もしないよ、やめろと言われてやめられるようであれば大した問題ではないのだしやめられないのであればもっと根深い問題から解決していかなければいけないのだからね。猫を追うより魚をどけよだよ」
その諺の引用が合っているのかどうかは知らないが私は一応理解する。彼の十八番、「中立」というやつだろう。
「やけにリストカットにこだわるじゃないか、なにか深い意味でもあるのかい?」
「別に」
さすがに鋭かった、蓮はクールなようでいて感情の機微に敏感だ。
「そうかい、ならいいんだ」
そう言って蓮は煙草をふかす。私は話題を変えることにした。
「なにか面白いことないかしら」
「面白いことという定義が広すぎるね、例えば今、窓の外を奇抜な格好をした人間が通り過ぎたらそれは面白いことだし、ニコニコ動画で変な画像を見つけたらそれもまぁ面白い事だろう、不謹慎な話だが何か大きな事件が起きれば当事者以外にとっては面白いことだ」
「最後に言ったのに近いかなぁ、不幸なことは喜べないけどさ」
「タマちゃん騒動とか?あれはどちらかというと狂った馬鹿騒ぎ、狂乱のたぐいだが。でもなかなか面白かったよ、タマちゃんを思う会とタマちゃんを見守る会が衝突した辺りがね。あそこからパナウェーブ研究所まで発展したときは拍手喝采ものだったよ。パナウェーブ研究所はなかなか面白くてね、大天使ミカエルを信仰しているキリスト教系の団体なんだが、スカラー電磁波が身体に悪影響を及ぼすだとかニビル星が落下してくるだとかカルトっぽくってよかった。まぁあんな無害な団体に大騒ぎしするのはタマちゃん騒動と同レベルだったが」
そこまで詳しく覚えているわけがない。白装束の集団だったのをぼんやり記憶している程度なのだ、こっちは。
「疑問なんだけどスカラー電磁波ってなに?造語?」
「いや、造語じゃないよ。但し実証されていない疑似科学の部類でね、"スカラー"というのは方向を持たない量のことだよ、ベクトルの反対だ。つまり方向を持たない電波という意味なんだろうね。しかし今の科学では電磁波はベクトルだ。僕はその程度しか知らないよ、理系は苦手分野なんだ」
分かったような、分からないような…そういえば蓮が理系の本を読んでいるところは見た事がない。
「私はタマちゃん騒動は馬鹿みたいだとしか思わなかったなぁ、面白そうなのはデモ集団と機動隊が衝突するとか、海外でじゃなく国内で」
「傍観したいのかい?参加したいのかい?」
「どちらかと言えば後者」
蓮は合点がいったというように頷いて、また煙草をふかす。
「学生運動に憧れてるとか言ってたね。"69"や"ぼくらの七日間戦争"あたりは押さえてるといったところだろう、なるほど、一定の思想に従い、それに基づいて戦いたいわけだ、時にモトロフカクテルを投げたりゲバ棒を振り回したりして。しかし君の両親は学生運動世代ではないだろう、僕の両親はそうだが。いったいどこでそんな知識を?」
「さぁ、映画とか小説じゃないかな、なんていうかさ私達って思想とか譲れないモノとかないじゃない、だから私もやってみたいっていうか、思想が欲しいな」
「神を求めるような心理だね、確かに僕等に思想はない、気づいているかい、僕等は名付けられてすらいない世代なんだよ"団塊""新人類"すべてから外れた空白の世代なのだよ、三無主義どころか十無主義ではありそうだけれどね」
無知、無感動、無愛想、無表情、無気力、無関心、無責任、無神経、無思想、無節操と口の中で呟きながら蓮は煙草を指で灰皿に押しつけた。熱くないのだろうか。
「不思議な世代だよ、不思議な生き物なのかもしれない、理解は求めるけど理解しない、感動モノを見て泣くわりには感受性が鈍くて他人の気持ちに鈍感、利口を気取るわりに知識欲や好奇心が薄い、どんな思想も受け容れないわりには何か絶対的なものを求める…」
無限に続きそうな自らの世代への批判は、私が注文したアイスココアを持ってきた店員によって阻まれた。
店員が去ってから、私は冷たいココアをゴクゴクと飲んで言った。
「ずいぶん言うわね、泣けてくるわ」
「自己批判もかねてるつもりだったんだがね、まぁとにかく空虚な世代だよ、識者はそれをテレビやゲーム、核家族のせいにしたがるが僕が思うにコレはノストラダムスの大予言のせいじゃないかと思う」
「ノストラダムスの大予言?」
蓮の口からそんなトンデモ用語が出てくると思わなかった私は思わずオウム返しにした。
「"1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。アンゴルモアの大王を復活させるために。その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗り出すだろう"別に世界が滅ぶとは一言も書いていないのだが、一般的にこれは人類滅亡を予言したものであると解釈された、僕等は大人になる前に世界が滅んでしまうと半信半疑ながらも思っていた世代なのだよ」
たしかに私も思っていたテレビや雑誌などで何度も取り上げられて、ぼんやりと「自分は子供のうちに死ぬんだ」と思っていた。
「ちょうど世紀が変わることも手伝って"終末ブーム"が起きた、退廃的なものが流行った。君もバンギャなら覚えているだろう90年代後半のビジュアル系バンドムーム」
90年代の終わりルナシー、ラルク、GLAYの三大バンドと後続のディル、ピエロの二本柱が私達の間でのブームだったGLAYは青春ロックといった風味だったがルナシーはアングラロック的な要素を残していたし、ラルクは明るいタッチで死を歌った、病室で死に逝く人を歌った曲は今でもTVで目にするほどのヒットを飛ばした。ディルやピエロにいたっては前者は歌詞が「生きる事の苦痛」がテーマだったし、ピエロはもろに世界の滅亡を歌っていたバンドだ。
「デカダンスな音楽が流行った、完全自殺マニュアルがベストセラーになった、酒鬼薔薇星斗が校門に生首を据えた、何かのタガが外れて何かが狂って僕等は狂乱し、踊り狂った、終末へ向けて。君は終わりのない本のページを開く気になるかい?ならないだろう、人類の滅亡は恐怖でありラストが見えている安心感でもあった、だってそれ以外に希望なんてなかったからね。しかしどうだい?1999年の7月は平穏無事に過ぎ去ってしまった、そして世紀が明けた途端、9月11日のNYテロだ、世界はこんなもんなんだ、希望なんてなくただ荒廃した時だけが続いていくと悟ってしまった。僕等は抜け殻になってしまったんだ、僕等の世代が空虚なのはそういうわけだよ」
「抜け殻」その言葉は確かに私達に相応しかった。私は蓮の目を見る、いつものようになんの感情も伴っていない瞳だった。
「社会とはね、祭りのようなものだよ、ゆりね君」
顔のパーツの口だけを動かしながら蓮は語る、とても絶望的な事を。
「音頭をとる何かがなければ気持ちよく踊れない、僕等にとってその音頭は1999年で期限切れだったのだよ。僕等の祭りはもう終わってしまったんだ」





「だからもう吹っ切ってるっていうか、ちゃんと心の整理はついてるんです、彼女の事は」
私は制服のプリッツスカートを軽く握る。
なんだろう、これ?自分で自分が気持ち悪いような、自分が自分じゃないような。
「彼女ね、きっと今頃は天国で私の事見守っててくれてるんです、だから全然平気です」
私を真っ直ぐ見つめる目、ちゃんと聞いてるよって顔。
「そりゃまだ教室には行けませんけど、大丈夫ですよ自宅で勉強もしてるし」
「雨宮さんは頑張ってるのね」
頷きながら坂下さんは微笑む、話を聞いてくれるのはあたりまえだ、彼女はスクールカウンセラーでこれが仕事なんだから。
だから私ににっこりと優しい笑顔を向けている。
「あの、私やっぱり帰ります!」
イスから勢いよく立ち上がると、坂下さんの顔を見ないように「失礼します!」と叫んで部屋から出ていった。
まだ授業中であることと、この部屋が他の教室から離れていることもあって廊下はとても静かだった、保健室から微かに話し声が漏れるだけ。
私は足早に昇降口を出て校庭から校舎を見上げる。
最後に教室へ入ったのはいつだっけ?遠い昔のことのような気がした、クラスメイトの顔も朧気にしか思い出せない。さっき言った事は嘘だ、自宅で勉強なんかしてない、そんな気力はない。
そこそこ上手くやっていたんだよ。適当に友達つくって適当に笑って、偶に先生に嫌われない程度に反発してみたりして、「青春」みたいなことやってたんだ。
普通だよ、ごく普通のクラスだ。なのに突然、上手くいかなくなった。私という歯車だけが外れたみたいに。
演じているという感覚。
仮面を被っている感覚。
自分が自分じゃない感覚。
ある日突然気づいてしまった。
私は踵を返すと校門に向かった、此処は私の居場所じゃない。




大須についてすぐに蓮の姿を見つけた、私の知らない女の人と話をしていたので邪魔しないように近づいてみる。
「つまり全てはブラフマンから発生したのだ、それはヴィシュヌでありシヴァでもある、ブラフマンはアートマンであり、アートマンはブラフマンである、ブラフマンは宇宙の源であり真理であるのだよ、即ち世界の魂と自己の魂は同一なものなのだ」
キリスト教系の新興宗教の冊子を持った女の人は固まっていた。
視線を遙か彼方に飛ばして挙動不審気味にヒンドゥー教の思想を語り続けてる蓮は何処からどう見ても完璧に危ない人だった。
どうせこの後、いつもの喫茶店でコーヒーを飲むのだろうから、この場は他人のふりをして大須商店街を見て回ることに決めた。
平日の正午、人は少ない。ゲームセンターでめぼしいものを探したが見あたらなかったのでフィギュアショップに入る。蓮と会うのだからたまにはなにか土産でも買っていこうと思ったのだ。
ガラスケースの中、ひらりと舞うフリルまで精巧に作られた膝蹴りをきめたポーズの変身少女向けアニメのヒロインにまず目がいく。素晴らしい作品だが当然、高校生には手が出ない値段だ。指をくわえて眺めるしかない。
ブラウン管から飛び出したオレンジ髪の少女は此処で訪れる人の目を釘付けにし続ける。彼女はそこら辺のアイドルなんぞ目じゃないほど魅力的だ。
思う存分眺めた後、さっそく買う物を選ぶ。蓮はコレクター魂というものを持ち合わせていないので収集はしないが芸術的なものや可愛いものは好きだ。
学園・ラブコメ・魔法と三拍子揃った漫画のヒロインの中で(ちなみにヒロインは31人いる)蓮が好きだといっていた吸血鬼少女のミニチュアフィギュアと、自分用にデザインが格好いいゲームの悪魔のフィギュアを数箱選んだ。これは中身が分からないタイプなのでもし同じ物が出たら蓮にあげればいい。
私は改めてガラスケースの中の少女を見た。
二次元世界の彼女たちはよく笑いよく泣き心のままに行動する。現実世界に生きる私達よりずっと生き生きしているのだ。




「そりゃ二次元世界には苦悩や絶望は記号としてしか存在しないからね、しかも必ず結末がある世界だ、それがアンハッピーエンドだったとしてもだ」
蓮は私が渡した吸血鬼少女のフィギュアをしげしげと眺めながら語る。表情は変わらないがどうやら喜んでいるようだ。
「だいいち、作られた存在であり理想の存在であるのだから、生き生きとしていて当たり前だよ、まったく妙な事を考えるね、君も。最終的に精神崩壊のあげく廃人になったエヴァの惣流・アスカ・ラングレーだって前半は生き生きとしていただろう。彼女が生身の少女らしくなったのは生理になってからだよ、彼女以外にアニメの放映の中で生理になった描写がされたキャラが思い浮かぶかい?」
女子高生のまえで二十歳を過ぎた男が「生理」とか軽々しく言うか、普通。
「思い浮かばないけど、生き生きしてるのと生理となんの関係があるのよ」
「単純にホルモンバランスの問題と少女時分は生理を嫌悪する者もいるという話だよ、そういう意味でアニメキャラは女性性が欠落しているんだ、裸をみられても"きゃー"しか言わない、セクシャリティ、ジェンダーという葛藤を抱えていないんだ、だから単純に生きられる、いや、生きている描写ができる、女性性を描こうとするとエヴァンゲリオンのようになってしまうんだよ、現にアスカは生き生きとは描かれなくなっていった、劇場版はまた別だが」
エヴァンゲリオンの話になると延々語り出すオタクは蓮の世代に多いのだが、蓮は何事に置いても饒舌なので彼が熱狂的なエヴァンゲリオンのファンかどうかは分からなかった。
「男においてもそれは言えることなのかな?」
「もちろん、男としての性的葛藤を抱えていないからこそ、アニメのキャラは単純に女性と接することができるんだよ。男としての性的葛藤を描いたのは…さっきからエヴァンゲリオンの話ばかりだが他に例が浮かばないので勘弁してくれたまえ、碇シンジの性的葛藤が描かれていただろう、彼は生き生きしていたかい?」
「してなかったわね」
「セクシャリティの問題は時に絶望をもたらす」
預言者のような口調で蓮は言う。預言者なんて会った事はないが。
「だから二次元の世界って楽なのかな」
世界は醜悪だと思う、そして自分も醜悪だと思う。漫画やアニメに没頭しているときその醜悪さを忘れる事ができた。
「全ては記号だから、二次元の世界は。僕等が生きる世界は複雑で漫画のように平坦じゃない、一つの感情の後ろに幾つもの感情が隠れているのだよ」
世界はどこまでも醜悪だ。
だからこそ私はアニメや漫画に没頭した。ある日突然選ばれる、平凡な子供。ロボットのパイロットに、異世界を救う勇者に。
「選ばれた人間になれるっていうのも二次元のいいところよね、もちろん選ばれた葛藤はあるんだけど、みんな心のどこかで憧れてるんだよね、"特別"になることに」
「そうだろうね、人はみんな選ばれたいのだよ。現実世界でそれが一番手っ取り早いのは結婚だ。だからみんな結婚したがる」
蓮は少し嫌そうな顔をした。
「蓮は結婚願望あるの?」
年齢的にしていてもおかしくない年頃だろう。顔だって地味だが十人並み、影があって良いという人だっているはずだ、ちょっと変人だが。
「あいにく僕は恋愛感情も性的欲求も持ち合わせていないから必要ない」
きっぱりと蓮は言った。どこか突き放したような言い方。
「あれ?ってことはさっきの話、性的葛藤はないわけ?」
「いや、ジェンダーへの葛藤はある。男らしくと言われると葛藤があるのだよ、性的欲求がないことに対する不安ももちろんある」
「あぁそうか、じゃ蓮にとって恋って分からないもの?」
「あんなものは心の痙攣だよ」
ニヤリと蓮は笑う。
「さっき言ったね、人はみな特別になりたいと、きっと"普通"と呼ばれる事を心の何処かでみんな怖れている、しかし異質であることもまた怖い、実に複雑な葛藤をかかえているんだろうね」
残りのコーヒーを飲み干すと蓮はがらりと空気を変えて言った。
「ゆりね君、昼ご飯はまだだろう?美味しいイタメシ屋があるんだ、奢るから行こうじゃないか」
蓮が奢ってくれるなんて珍しいこともあるものだ、私はすぐに了解した。



そのイタリアンレストランは大須商店街から少し脇道に入ったところにあった。女性が好みそうな洒落た雰囲気の店だ。とても高校生一人で入れる店ではない。その印象通り、中にいる客は大人の女性ばかりだった。
私はランチセットを、蓮は食事は頼まずスクリュードライバーだけを注文する、昼でもお酒を出している店のようだ。
「もしかしてただたんに飲みたかっただけ?」
「まぁね」
カフェイン取ってニコチン取ってアルコールも取るとは不摂生な男だ。
そういえば蓮が食事をしているところを一度も見ていないことに気づく。
「蓮はご飯食べないの?」
「あまり腹がへらないからね」
蓮は背は高いが痩せている。平均的な日本女性体型の私からすれば羨ましいほどに細い。
病的なまでの細さともいえる、筋肉だってほとんどついていない。
やはり、不摂生な生活をしているようだ。
そうは言っても自分だけ食べるのは心苦しいので小皿にトマトソースのパスタの四分の一ほどを取って蓮に差し出した。蓮は少し意外そうな顔をしてからフォークを持って食べ始めた。スプーンを使っていないのに食べ方が恐ろしいほど綺麗だった。
「蓮ってさ、どこに住んでるんだっけ?」軽い世間話のつもりでそう言うと丁重にも「僕はどこに住んでいるかなんて言った事はないんだから君は"どこに住んでるの?"と聞くべきだ」と言った後、名古屋市内の区の名前を挙げた。
「そこからなら名古屋駅のほうが近いじゃない、なんでわざわざ大須まで来るの?」
「名古屋駅は嫌いなんだ、ここなら平日はそう人が多くないだろう、僕は人混みが苦手なんだよ」
パスタを口に運びながら蓮は淡々と言う。
「僕はね、人混みの中にいてもし手にマシンガンを持っていたら躊躇なく撃つ人間なんだよ、大人も子供も老人も関係なく老若男女全て平等に撃ち殺すだろう、そしてトマト投げ祭りの後のような光景の中でようやく安心できる、そういう人間だ」
よく噛み締めなければいけない言葉だった、「それぐらい人混みが嫌い」という意味なのか「状況によっては大量殺戮も犯す」という意味なのか答えにあぐねていると蓮が指で銃の形を作り「ぱららららっ」とマシンガンの音を口まねすると、珍しい事に笑った。
「真剣に悩まないでくれたまえ、ゆりね君。たいした衝動じゃない、ただ人混みに出るたびにそういった妄想をしてしまうだけの話だ。多くの人間がとは言わないが5人に1人くらいは考えるような気がするよ、統計はとってないから分からないがね」
「同じような事を言っていた子を一人知ってるよ」
彼女のことだ。彼女も人混みが大の苦手だった。
蓮は「そうか」とたいして興味を持った様子もなくのんびりとパスタを口に運んでいた。
「そういえば、この前くれたフォークのMD聞いたよ、すごくよかった」
蓮はロックの他にフォークも好きなのだ。蓮曰く反抗の歌がロックで自由の歌がフォークなんだそうだ。反抗と自由、私もこの言葉は好きだ。
「そうだろう。王道のフォークルや吉田拓郎もいいけれどあの中では"からっぽの世界"や"希望"が特にオススメだね」
「私もその二曲が気になってたの、すごく古い歌なのに心にマッチするのが不思議」
「名作は残るのだよ。今、僕等が好きなロックも何十年後かに僕等のような若者の心を震えさせてくれるといいね。音楽は一時だけ日常を忘れさせてくれる、歌われているのは日常なのに不思議な事に音楽が鳴っている間だけは日常から浮遊できるのだよ。日常、けして揺らがない日常というやつを音楽は揺らすんだ、ほんの少しだけだがね。でも僕等は日常を紡いでいくしかない、事件が起きようがどうしようが、飯を食わねばならないし、眠らなければいけないし、生理現象は止まらない、回忌する術はひとつもない。何せ日常というやつは自分が死んでも世界は関係なく続けていくほど大きなものなのだからね」
「自分が死んでも世界は変わらないってこと?」
「変わると思うのかい」
「変わらないでしょうね」
確かに変わったりしなかった、彼女が死んでも私はこうやって日常を続けている。


長い時間をかけて食事を終え、蓮が酔いをさますと言ったので散歩に出た、夕暮れも近くなった頃、私達は歩道橋の上から行き交う車を見つめていた。
「ゆりね君、僕等の出会いも劇的じゃなかったけれど、日常に一石は投じたかもしれないね、概ね人の出会いとはそんなものなのだが」
蓮との出会いはありふれたものだった、幾つかのバンドのライヴで見かけ、声をかけるようになり、そしてあの大須の喫茶店で蓮をみつけた。
「しかし僕はね、普遍的に続く日常が辛くてしかたないのだよ、生きているのが耐えられないし自分が嫌いでしょうがない」
蓮はそう言って歩道橋の手すりの上に腰掛ける、私の「危ないよ」という言葉も意に介さないようだった。
そして赤い夕陽に照らされながら、指の第一関節まである黒いシャツの袖をまくり上げた。

そこには赤い、白い、無数の傷跡が存在した、そのうちの幾つかはまだ血の色をしていて夕陽の照らされて輝いていた。

「僕はね、こんな人間だよ。自分一人の存在すら支えきれない」

『私は自分のことすら支えられない』

「弱虫で臆病で卑怯な人間だ」

『弱くてダメな人間なんだ』

私は息をのむ。私はそんな腕を知っている、文様が刻まれたような腕を知っている。彼女の腕だ。
蓮は静かに袖を降ろした。
「ゆりね君、僕は君に友情を感じているよ、しかし・・・君は僕の中に誰を見たんだい?」
蓮はそれだけ言うと手すりを降り、「じゃあまた」と手を振って歩いていった。
空にはいつの間にか月が出ていた。
オレンジ色の月の形が崩れる、薄暗くて気づかなかったがどうやらかなり雲が出ているようだ、灰色の空に浮かんだ満月は握りつぶされたようにぐちゃぐちゃになって完全に雲に隠れた。


あの日の前日、彼女と大須に遊びに行った。
散々遊び回って疲れ果てて入ったあの喫茶店で彼女はよく笑い、はしゃぎ、くだらない事をたくさん話した。
翌日、彼女は朝、誰もいない学校の屋上から飛び降りたのだ。
私が学校に行かなくなったのはそれからだ、世界に違和感を感じ始めたのもそれからだ。
その次の日、あの喫茶店で、死の前日彼女が座っていた場所に蓮はいた。
ライヴでよく見る顔だった、三言二言なら言葉を交わしたこともあった、しかしこんな所で出会うとは思わなかったので私は彼に声をかけた。
「ムックとディルとピエロのライヴで計12回会ってる、奇遇だね」
蓮はそう言って不器用に微笑んだ。
そこから何かが始まったし、始まっていないのかもしれない。
彼女と蓮は似ている、言動はまるで違うけれど根本的な部分が似ている。
彼女はクールさとは無縁な子で、ささいなことで激高した、一度燃え上がるとどうやっても止まらなかった。一度、電車で痴漢を見かけた時など満員電車の中で怒鳴り倒した。痴漢相手ではなくその場にいた男全員に。

「てめぇが怖いんじゃねぇんだぞ、てめぇに対する嫌悪感でもないんだぞ、性的対象に見られたことに対する嫌悪感なんだ、てめぇらだてめぇら!気安く品定めしてんじゃねぇよ、生理現象言い訳にしてんじゃねぇよ、その薄汚い性器はてめぇらの業なんだよ、自分で処理しろよ、他人を巻き込むんじゃねぇよ、虫酸が走るんだよ、性的対象に見られる嫌悪感を知れよ、味わえよ、自覚しろよ!」

蓮に言わせれば、思春期によくある性的なものへの葛藤だったのかもしれないが、誰もが唖然とするなかで、私には彼女の言う事が少しだけ分かった。


翌日は土曜日だった、土日はあの喫茶店に蓮はいない。ホッとしたような残念なような不思議な気持ちになりながら一日中本を読んで過ごした。休日は家でのんびりしていても罪悪感がなくて良い。
蓮は私に友情を感じていると言ってくれた、それが嬉しかった。私はこの世界が嫌いだし自分の事も大嫌いだが死のうとは思わない、私が死ねば、私の周りの人にとって日常は憂鬱の色をおとすだろうからだ。
蓮は頭が良いのでそれくらいのことはよく分かっているだろう。
蓮の傷だらけの腕を思い出す。あれは彼の心の痛みだ。この世界に産まれたことに苦しむ魂の叫びだ。私達にとってこの世はあまりにも生きにくい。
私だって死んだ方がいいと思う、だけど死のうとは思わない。
彼女が死んだ時、私は悲しんだのか実はよく分からない、彼女の葬式の後、私は部屋に籠もってムックの「友達(カレ)が死んだ日」を聞き続けた。今聞いたらきっと合うだろうという不純な動機からだったのだ。確かにいつも以上にあの歌は響いた。
あの歌詞で歌われたように苦しみや悲しみに耐える以外の方法をもつ人間が世の中にどれほどいるだろう、きっといない。いつしかロックは若者の歌となり、大人になれば切ないラヴソングを聞くように、愛だの恋だのに逃げるだけだ。それすら形のないものだというのに、目の前の事柄だけ淡々と処理して言って、偶に高尚なことのように愛などと言ってみるのだ。私はそんなことは絶対に嫌だ。
たくさんの本を読んだ、若者のことを分析した本を読んだ、どの本にも私達のことは書いていなかった。小説も読んだ、若者の不安を現した小説を読んだ。解決している本は一冊もなかった、恋をしてそれで終わりだった。
私は笑っていた、クラスのみんなも笑っていた。楽しいわけじゃない笑うしかないから笑うのだ。たまにリストカットやオーバードーズをしてみせて、次の日にはまたへらへら笑うのだ。彼女も同じだったのに、たまに激昂することがあったとしても、私達と同じだったのに、彼女はその一線を飛び越えて逝ってしまった。
彼女は世界を否定した。




月曜日、喫茶店を訪ねるといつもの席に蓮はいた。読んでいる本は太宰治の「人間失格」蓮の前に立つといつもとは違いすぐに本を閉じて言った。
「やぁゆりね君、この前は嫌なものを見せてすまなかったね、でも君はあの手のことに耐性があるんじゃないかと思ったんだよ、君の言動を見ていてそう思った。当たりのようだね。でももしかしたらもう僕に会いに来ないんじゃないかとも思って後悔もしたよ、でも君は来てくれた。これ以上嬉しいことうはそうそうないだろうね。さぁ始めようじゃないか、くだらない退屈な日常のルーティーンワークを」
私は鼻で笑ってやる、この男は実に繊細で複雑な精神の持ち主のようだ。
「嬉しいなら笑いながら言ったら?そんなアンドロイドみたいな表情で言われても感動できないわよ」
「アンドロイドを見た事がないのにアンドロイドみたいな表情とはこれいかに」
屁理屈も健在、いつもの蓮だ。
「比喩よ比喩、見た事がないものに使って良いモノなのよ、馬鹿」
「そうだね、大仰な比喩がなくなってしまったら小説は面白くなくなってしまう、君の言うことは正解だよ」
確かに見た事のないモノに対する比喩が禁止されたらそうだろうな、特にライトノベルが壊滅する。
私はゴスロリファッションなので基本的に衣替えという概念がない。私はライヴハウスでのライヴではキャミソールにジーパンというスタイルだが、どんなに暑い時期に見かけても蓮は半袖を着なかった。理由はもう分かる、あの傷のせいなのだろう。あの手のものは目立つし、不愉快に思う人もいる。
「そういえば蓮っていつも本読んでるよね、自分では文章書かないの?」
蓮の表情が一瞬色を失ったように見えた、珍しい、いつも無表情なのに。
「そうだねぇ。しかし僕の書きたいものは全部誰かが書いているよ、何かを思いついても所詮誰かの真似事で既製品なんだ、そんなものを作ったってつまらないだろう、所詮、誰かが作ったものなんだ、この世界はみんな、自分のためのものなんて一つもないんだよ、分かるかい、ゆりね君、小説も漫画も音楽も誰かが作ったものなんだ、どんなに共感しようがのめり込もうがそれは自分の世界じゃないんだよ、みんな現実が嫌でかりそめに逃げているだけなんだ、小説も漫画も音楽も思想も、現実を忘れるための逃げ道でしかないんだ」
「じゃあ小説家やミュージシャンはどうなるの?かりそめを作り出してる人達はどうなるの?」
「彼等は違う、幻想を現実にできた人間だ。夢を現実にできた一握りの人間だ、それでも。夢を叶えても生きる事は辛いんだ、喉を掻きむしり、叫ばなけんでも、やっぱり生きていることは辛いんだ」
きっと生きていることを辛く感じる人間はどこまでいったって辛いのだ。
幸せになるビジョンなんて見えないから、きっと一生辛いままなのだ。
彼女はそのことに気づいていたのかもしれない。
「蓮によく似た友達がいたんだ、親友だった。蓮みたいにクールじゃなくって、やたらに沸点の低い子だったけど、根本に近いモノを感じるよ。その子もリストカッターだった」
蓮は目を細めて私を見た。
「過去形で言うんだね」
「うん、蓮と最初に此処であった前日に・・・・学校の屋上から飛び降りて死んじゃった」
「・・・・そうか、その子は世界を否定したのか」
深く息を吐いて蓮は頷いた。
「君は世界を否定されたから辛いんじゃないのかい?」
「そうかもしれない」
きっとそうだ。でも蓮に話したことで少し心が軽くなった気がした。その日は彼女の思いで話をした。蓮は重い空気になることなく、彼女とのバカ話を楽しそうに聞いてくれた。
私自身、彼女とのことをこんなに楽しく話せたのはあれから初めてだった。


出会いは人を確かに変える。良くも悪くも変えていく。
しかし日常が楽しければ楽しいほど、彼女がいない現在と過去が変化しないということに、現実との齟齬に耐えられなくなってきた。
なにもかもが空虚で、欺瞞で、揺れる感情の波はどうしようもなかった。
蓮がいた、彼も彼女を知っていた。
話したこともない彼女の死を悼んでくれた、悲しんでくれた。
それはあたたかく、痛く、怖かった。
破裂しそうになった心を抱えて私は校舎の屋上へあがったのだ。
なにかをするために。
なにかは全く分からないけれど。
彼女は世界を否定した、どうしようもないほど、徹底的に、壊滅的に、この世界を否定した。一番簡単な方法で、明け方の校舎の屋上からダイブするというとても簡単な方法で。
私は彼女が否定した世界で生きていかなくてはいけなくなった。
その世界はすべてが虚偽に満ちていた。
私は拡声器のスイッチを入れて、登校する生徒達の群れにむかって叫んだ。
「忘れるな!」
その一言で充分だった。
驚いて校舎を見上げる生徒達を確認して私は屋上の柵を乗り越えた。
本当に簡単なことだった。
携帯が振動する、着信は蓮からだった。少し迷ったがボタンを押して出てみる。
『やあ!ゆりね君、三島由紀夫のマネでもするのかと思ったけどどうやら違ったようだね、学生運動に憧れているわりにはやりかたが消極的すぎやしないかい?』
校門のところに黒くて長い影がもたれかかっていた、蓮だ。
『主義主張を叫んだらいいじゃないか、でもダメだよ、拡声器で叫んだらハウリングをおこすんだ、そんなことも知らないのかい?まぁ短い言葉だったからちゃんと聞き取れたがね』
いつもと同じローなわりに饒舌な蓮だった、いつもとなにも変わらない。
『ゆりね君、別にかまわないんだよ、こんな世界、否定したっていいんだ。否定したら受け容れられないのを覚悟しなくちゃいけないだけで、否定するのは自由なのさ、君がそこから鳥になろうってなら別に僕は止めやしないよ。目の前で世界を否定されるそこの彼女たちと、それから僕がどう思うかは別にしてね』
蓮はため息のような笑い声を漏らした。
『当たり前の話だが"友人に死なれたら辛い"君がその友達に死なれて辛かったように、僕も君に死なれるのは嫌なんだ、ここで矛盾する"世界を否定するのは自由だが、否定されるのは辛い"んだ。というわけでだ、不本意ながら止めにいくよ?僕はこれでも脚が早いんだ』
私は無言で電話を切る、蓮が見上げてきた、遠くて表情までは分からないのが残念だった。
腕を振りかぶってめいっぱい遠くへ投げる。
青いカッターが空を舞ってキラキラと光り、地面に落ちてバラバラに砕け散った。



屋上から隣接している校舎に飛び移り私はひたすら走った、中学時代は陸上部だったのでおじいさんとおぼっちゃんしかいない先生達には負けない。今日はスニーカーだったのでなおのこと、そのまま電車に飛び乗って大須へ向かう、いつもの喫茶店に。
何も変わってはいなかった、私は、いや、私達は異質なままだ。真っ白な世界の黒い染み、白い羊の群の黒い羊、あるいは真っ黒な世界の中の白かもしれない。
愛情が分かりません。
感動できません。
心から泣けません。
心から笑えません。
同情できません。
慈しめません。
こんな情の薄い人間なので、世界を愛せません。




「ゆりね君、あんな高いところから物を投げたら危ないよ」
いつもの喫茶店のいつもの席でそう言って蓮はけらけらと笑った。
「・・・なんで、どーやって先回りを!?」
呆れる私に蓮は怪訝そうな顔で言った。
「僕は脚が早いと言っただろう。ゆりね君、僕はね、ロックスターに生まれたかったよ、理不尽を不条理を叩き壊し、駆け抜けていくロックスターに生まれたかった。しかし・・・反抗心剥き出しで、逞しく、強く、前向きな蓮咲蓮は・・・それははたして僕だろうか?弱っちくて女々しくて情けなくて、それがどうしようもなく僕なんだ。ゆりね君がそのままでゆりね君であるように、死んだ彼女がそのままで彼女であったように。自らを死に追いやるほど鋭敏な精神こそが、彼女であったように」
私が泣き笑いで頷くのを見て蓮も笑う。
「ところで、ディルのライヴチケが取れたんだ、これがなかなかの良番でね、最前は無理でもかなり間近で見ることができるだろう。君の分ももちろんあるんだが、どうする?」
「そっか・・・よかった、死ななくて」
蓮はまたけらけらと笑った。
「まぁ案外、そんなものさ。生きる楽しみがあっていいじゃないか」



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