春に
春に
―この気持ちはなんだろう
目が覚めた、布団を寝ている間に跳ね除けてしまったらしく、その隙まで愛猫がお腹を上にして寝こけていた。
春だ。
と浅葱は思う、春が来たのだ、暖かな春が到来したのだ。
カーテンから透ける日差しは明るく、さらに天蓋をすかしてベッドの上にいる浅葱のところにまで届いている。
「春だなぁ・・・」
街が苛立ちに満ちているのを敏な浅葱はよく分かっていたし、その苛立ちを誰もが無理矢理抑えこんでいるせいで、閉塞感が街を覆っているのも知っている。
出来ることを模索して、届かないことに嘆息して、我慢できない自分に苛立って、ささくれ立った人々の足取りは今日もきっと重い。
「春だ・・・」
きっと自分もその一員だ、こんな穏やかな気持ちはTVをつけてニュースを見れば掻き消されてしまう。
あれはまだ3月の頭、末っ子の誕生日をずらして祝ったあの日、平和を疑いもしなかった日のこと。
一つ大きくなった末っ子はいつも通りの大人びた顔で言った。
「善意の有する危険性について考えたことってありますか?」
突然どうしたのかと返した、彼もまた善人に分類される子だった。
見知らぬ相手だろうが困っている人を見かけたら迷う間もなく手を貸してしまうようなお人好し。
「いえ、昔言われたことがあるんですよ。善意は弱みなんだからって」
「弱み?」
「あるいは無防備?別にみんなね、善人なんだと思うんですよ。そして周囲の人間のことも善人だって思ってるはずなんです。でなければ・・・匿名で危険な思想を吐露したりできないはずです、絶対的に自分に危険が及ぶことはなく、危害を加えられる心配がないと思っているから世界は成り立っているんですよ」
その時はいくらか酒も入っていたし、なんとなく思いついたことを羅列しているだけのようにも見えた。
「だから善意を無防備に見せると付け込まれるよって注意されたことがあるんですけど、無視できないんだからしょうがないですよねぇ」
末っ子は無垢に笑った。
唐突にそんな話題を振ることも珍しくなかったのだけれど、あれから繰り返し善意の意味を問いかける日々が始まるとは、本当に思いもしなかった。
天蓋を開けると金色の日差しがベッドに伸びて、愛猫が眩しそうに寝がえりをうった。
春が来たのだ、いつも通り春が。
ベッドに寝転がったまま浅葱はメンバー一人一人にメールを打つ。
春が来たのだと伝えたかった。
一人一人、文章を変えて。どうやらメンバー内で浅葱から送られて来たメールの絵文字数を競う遊びが流行っているらしいので、愛を込めて英蔵のメールには絵文字少なめにする。
『無視できないんだからしょうがないですよね』
その通りだ、叩かれても嫌味を言われても、無視できないのだからやるしかない。義侠心とか正義感とかは後から着いてくるもので、隣で人が転んだら反射的に手を差し伸べてしまうようなものだった。
泣いている人間がいたら抱きしめたくなる、落ち込んでいる人間がいたら慰めたくなる、それはきっと善とか悪を越えた人の営みの中に入り込んでいるものだ。
悲しんでいる人間に、苦しんでいる人間に胸が痛むことに「偽善」なんて言葉が入りこむ余地はない、反射的な気持ち。
メールの返信が入り始める、デコメールかと思うほど絵文字に彩られた涙沙からのメール、キャラに似合わず感情は絵文字で伝えて来る大城からのメール、星マーク乱舞させラファーガのキャラで返って来た英蔵からのメール、飾りはなくてもテンションの高い恒人からのメール。
春の日差しより暖かな気持ちに満たされて、ようやく一日が始まる。
駆けだしたいような、大声で叫びたいような、春に。
とりあえず、今日の朝食は蜂蜜をたっぷりたらしたパンケーキに決めた。
―この気持ちはなんだろう
「あったけぇな、今日は」
長い身体をぐっと伸ばして逹瑯はあくび混じりに言う。
隣でてとちもあくびをしながら伸びをしていて思わず笑ってしまった。
『不謹慎』の三文字を跳ね除けるように逹瑯はいつもの軽薄で憎めないキャラクターを崩さない、携帯電話から呟きを書き込んでまた伸び。
「てとさん、春が来たよー。日向ぼっこできるな」
そして窓から街を眺める、もしも街に人間と同じように表情があったならここのところはずっと眉間にシワがよっている。
重苦しい空気を跳ね除けたくて、自身の心にも沈殿する不安を解き放ちたくてベランダから叫び声でも上げたい。
押し寄せる不安もなにもかも、歌に乗せて、叶うなら他の皆の不安もまとめて春の澄んだ空にぶつけてやりたかった。
「春だからってのもあんのかもなー」
そわそわする、すぐにでも誰かに会いたい。
適当な人に電話してみようと思ったけれど、すぐに誰とは浮かばなかった。
でも誰でもいい「春が来たよ」と教えたい。
逹瑯は携帯電話を開いてアドレス帳を開くと選択ボタンを押しっぱなしにしたまま目を閉じた、簡易のスロットのつもりだ。
「ここだっ!」
と止めて目を開き、選択されていた名前に目玉がこぼれ落ちそうなぐらい見開く。
『ミヤ君』
表示はそこで止まっている。
くだらない罠を張ったり、人を騙すのは好きだが、そういったことが好きであるが故に自分が決めたルールを破ることが逹瑯は嫌いだった。
別に電話して問題がある相手でもないと通話ボタンを押す。
『・・・・あー・・・もしもし?なにかあったか?』
電話を受けたミヤのほうも戸惑っているらしかった。
「あんさ、えっとさー・・・春が来てるみたいだよ」
『あーちょうど俺の頭の上に白木蓮が咲いてる』
「ミヤ君、今何処にいるの?」
『さぁ、わからん』
30越えた男が現在地を知らなくていいのかと正当な突っ込みが喉の辺りまで出かけたが飲み込む。
「春が来たよ」なんて電話の意味に突っ込み返されても困るからだ。
『なんか落ち着かなくて、散歩してたら夜が明けた。で・・・此処は何処なんだ?』
この自由すぎる山猫に誰かリードをつけておいてくれないだろうかと思ったが、猫の首に誰が鈴をつけると悩むネズミ達の会話みたいな結末になりそうなのでこれも言わない。
「なんかあるでしょ、地名を書いてあるのがさ・・・」
ミヤはだるそうに唸ってから地名を告げる、逹瑯はまた目を見開いた。
『そんでよー、わりとでっかい日本家屋の庭から白木蓮が見えるんだ、すげー綺麗』
「ミヤ君、俺さぁ・・・さすがに傷ついたよ?そりゃミヤ君を招待したことないけど・・・」
『お前は何を言ってるんだ』
「住所見て分かって欲しいな、そこ俺の家の近所なんですけど〜!」
言いながら逹瑯はベランダに出る、白木蓮が咲いているデカイ日本家屋ならとのぞけば・・・ミヤの姿を捉える事ができた。
そこそこの階層にいるけれど、見慣れて見飽きたその姿を見間違うわけもない。
『ああ、お前のテリトリーか・・・』
「そっから右斜め上のマンション見て!」
緩慢な動作で顔を上げるミヤがこちらを向いて小さく『おお』と声を上げる。
「迎えに行くよ。これから仕事で一緒だし」
『まだそんな時間でもねぇだろ、いいよ。歩いてれば知ってる場所に出るだろうし』
「まーまー、せっかく春なんだしさぁ、ウチで飯でも食っていけば?」
『・・・・・・オムライス』
「作るよ、春だしね、なんか動いてないと落ち着かないじゃん」
『お前が落ち着く季節なんてねぇだろ』
「はいはいリーダー。じゃあ迎えに行くからそこ動かないでよ!」
感情が渦巻いて、それでも日差しは穏やかに、春が来たのだ。
ちゃんと春が来た。
今日は少しだけ、街に刻まれた眉間のシワが薄くなれば良い。
逹瑯は羽織りかけたジャケットを投げ捨てて、自由すぎる山猫がどこかへいなくならないうちにと家を出た。
―この気持ちはなんだろう
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