ドウタヌキ?


表現者達の凱歌5


自分が偏屈な人間であることぐらいさすがに自覚している。
偏屈で変人で神経質で、社会不適合者である自覚はある。
音楽がなかったらどうなっていたことか想像もつかないし、歌えなくなった後の自分というのも想像ができない。
その前に死んでいるというのが不謹慎でもない周りからの意見だ。
なるほど俺は危うい、綱渡りの様な人生だ。
歌えなくなる可能性なんて明日にも訪れるかもしれないのに、そうなった時の保険は貯金ぐらいだ。
あれで一生暮らしていけるのか計算したこともなければ、歌えない自分の価値というのも分からない。
人間関係は少ないなりに築いてこそいるが、歌えなくなった俺からいったいどれだけの人間が離れていくか考えるだけで嫌になる。
根本的に人を信用しない人間なだけに、そこに目をやったらお終い感が漂う。
とにかく偏屈で変人で神経質だ。
行きつけの病院に新しく設置された仕掛け時計の音が気に食わないだけで二度と行かなくなるような人間だ。
そんな俺の周囲に「まとも」と呼べる人間はいない。
メンバーを見ても常識やら人間性やらがどこか欠けていて、一番マトモなのが堕威君であるという事実を見るに、なるほど真っ当な人間には社交性が不可欠だと思ったりもする。
かといって堕威君は真っ当な人間ではないのだけれど。
一度、出来心というか乱心というか同窓会に顔を出したことがあるが、普通の人間、普通の人生とやらを痛感して二度と行くまいと心に決めた。
まあ、同窓会という場に人生に失敗した人間は顔を出さないのだろうけれど。
妻子の話などをされると奇異な気持ちになるものだ。
しかし・・・俺は俺が偏屈で変人で神経質であるが故に真っ当でない人間はそれなりに好きだったりする。
致命的な欠落も好きになれる。
愛すべき後輩たちを心から好きになれたのは自分が変人だったからだろう。
正直、普通の感覚でつき合える連中ではない。
そんな奴らが山ほどいる世界だ。
そして・・・完璧というものもまた、一つの欠落なのだろうと思う。
だからこれは致命的な欠落のエピソードだ、もしもこれにハートフルさなんてものを感じるのなら、それは俺達と同類の欠落者である証だろう。



表現者達の凱歌5




最寄駅が同じという縁で結ばれたのなら駅周辺で見かけるのは当たり前で、その子は目立つ髪色をしていた。
鮮やかな赤と対比するような白い肌は帽子やサングラスで隠してもやはり目立つ。
俺はしばし悩んだ。
今日は別段、道に迷ってはいなかったからだ。
駅から駅で迷うたびに案内をしてもらうこと計7回、ここで声をかけたらまた迷っていると思われそうだ。
まあ、それ以外の時でも会えば挨拶ぐらい交わすが。
今年はお歳暮を送らねばという話になっているのだけれど、お歳暮と言うのはバームクーヘンとかを送れば良いのだろうか?
よく分からない、薫君に任せるのはそこはかとなく不安なので会社の人間(つまり常識のある人)にでも聞こう。
そこそこ人の行き交う歩道、その子の背に声をかけようと足を速めた時、予想もしないことが起こった。
その子は突然、ガードレールを飛び越えたのだ。
軽く足をかけて一飛びにした。
しかし俺は前記した通り変人なのでその姿を見て、なんだ意外と運動神経が良いのだな、などと呑気に思っていた。
よくよく考えればそれどころではない、ガードレールを飛び越えたということは車道に出たということなのだ。
車の通行量も多い、タクシーを止めるにしても妙な行為をしばし見守っていると、その子は車道に半身を出してぶんぶん手を振ったのだ。
クラクションを鳴らして車が止まり、運転手が窓から顔を出して何か言うのに頭を下げ、その子は車道の真ん中へと早足で移動した。
その子ばかり見ていて気づかなかったが、車道では一匹の猫が潰れていた。

車に轢かれた動物の死体ほど人間であることの罪悪感を喚起するものはない。
憐れむことすら罪悪感に繋がり、自分は車を運転しない人間だけれど車に乗ることはある身として、凄まじい罪悪感に襲われる。
その一件で、いつだったか鬱陶しさの塊の様な無駄に背の高い後輩と話したことがあった。
アイツはけっこうな猫好きだが、ここまではやらなかった。
俺もやらない、ああこれからも後続の車に轢かれ続けてそのうち厚紙みたいにぺらぺらになってしまうんだろうな、などと考えて、轢死体の猫が細切れになって幾台もの車のタイヤに附着して散りばめられることを想像し、街に散骨されているのかもしれないななどと考えて、その考えに罪悪感を抱くだけ。
その子はなんのためらいもなく猫の死体を抱きかかえると、止まった車に一礼して退いた。
運転手がまた何か言ったようだが、むしろあの運転手にとっては良いことじゃあるまいか、猫の轢死体の上に車を進ませる感覚はどう考えてもおぞましい。
その子は行きより少しだけ苦労してガードレールを乗り越えて歩道に戻る。
幾らかの通行人は奇異な視線を向け、少しだけ避けていた。
その子は猫の死体を抱いていた。
黒猫だった。
エナメルの様な光沢が今だ残るが、既に硬くなって万遍無く死んでいる猫。
そんな猫の死体を生きている猫にするように優しく両腕で抱いていた。
サングラスをしていて表情は読めないが口は固く結ばれている。
そこでその子は俺の存在に気づいたようだった。当たり前だろう、距離にして2メートルと少し程度なのだから。
「・・・京さん」
その子は俺を見て驚き、それからばつの悪そうな顔をした。
そのことに俺がどれだけほっとしたか分かるだろうか?
ちゃんと自分のやった行為が普通から逸脱していることを認識していたのだ、分かっていて逸脱し、それを見咎められて恥じる。
もしもこの時、なんでもない顔を、当たり前だと言う顔をされていたら俺は踵を返して逃げていただろう。
変人は好きだが、異常者とつき合うほど酔狂ではない。
きちんとボーダーラインを認識しているのならば、異常者ではなかった。
ばつが悪そうに、気まり悪そうに、自分の行為を見咎められたことを恥じているその子に、俺はできるかぎり穏やかな声を心がけて言う。
「で、その猫はどうするん?」
「・・・どうしましょう、今考えています」
後先考えず、猫の轢死体が街へ散骨されるのを阻止したその子は、心底恥ずかしそうにそう言った。

その子とは同じ業界に属している、面識はなかったがやってることが手広いだけに名前と顔は知っていた。
まあ、あまり突っ込みたくはないが経歴を辿って行けば間接的ながら繋がりはあるだけに、音源を耳にしたこともあった。
話したのは「最寄駅が同じ」という理由だけで、踏み越えて来たのは向こうからだ。
ベーシスト、年齢的に考えたら飛び抜けて上手いと言える。
聞いた話によれば、アレンジャー、コンポーザーとしての才もなかなかのものらしかった。
「・・・恒人君、考えないでやったん?」
俺は人見知りするので、第一声は穏やかにできたのに続く言葉がそっけなくなってしまった。
「はい、なんというか、思わず・・・」
「妥当に埋めてやればええんちゃう?」
「そうなんですけれど、どこも突き詰めれば『誰かの土地』ですからね、勝手に弔うわけにもいかないですし、ウチはマンションですし・・・」
「まあ、そりゃそうやね」
考えてないどころか考えすぎだと思う。
俺ならなにかの成り行きで猫の死体を埋めることになったら近所の公園にでも埋めてしまうだろう。
法律違反なのかなーとか思いながら。
そりゃ・・・誰の所有でもない土地なんてどこにもないだろうけれど。
恒人が抱いた黒猫は手を伸ばしたまま硬直していた、近くで見ると光沢のある黒がところどころ血で変質しているのが分かる。
そもそも死体を躊躇なく抱ける地点で逸脱してはいるのだけれど、やはり手つきが優しかった。
死後硬直しているんだからもっと雑に抱けばよかろうに両腕で優しく抱き抱えている。
「ペット霊園とか・・・こういうのいきなり行ってもやってもらえるものですかね?」
「うーん・・・」
そんなことを聞かれても困るが、アテを一つ思い出した。
「ちょっと待っとき」
素直に頷く恒人に背を向けて俺は携帯電話を取り出す。
思ったより早く電話口に出た鬱陶しさの塊の様な後輩に以前聞いた話を確認する。
内容が内容なだけに最初は高かったテンションがどんどん落ち込んでいくのが少しだけ愉快だ。
電話を終えて振り返ると、恒人は抱いた黒猫の死体を優しく撫でていて、嫌なものを見た気分になる。
こういう気づかれ難い変人というのは、なまじドロップアウトできない分、転ぶ時のダメージが多いような気がする。
猫の遺体を優しく撫でるという行為を美化する気もないし崇高だとも思わない。
嫌悪する、おぞましいと思う、気持ちが悪いと思う、しかし恒人は俺の視線が戻っていることに気づくと、慌ててその手を止めてまたばつが悪そうな顔をした。
おぞましい行為である自覚はやはりあるのだった。
「あんな、ペット霊園とは違うんやけど・・・獣医さんでそういう埋葬の場所を自宅に持ってるとこがあるんやて、ちょっと歩くけど・・・行く?」
恒人は今日初めて顔を輝かせ、笑顔でお辞儀した。


あの鬱陶しさの塊の様な後輩が携帯電話に地図を送ってくれた。
生憎俺は地図が読めないので画面を恒人に見せながら歩きだす。
恒人は自分の携帯電話に送ってくれれば一人で行くようなことを言ったが俺はつき合うからといってこの形になった。
ついでに近くにあった100円ショップで大きめのタオルを買って渡してやった。
これは別に気を使ったわけではなく、剥き出しの猫の死体を抱いたままの恒人と一緒に歩くことに抵抗を感じたからだ。
礼を言って猫の死体をタオルでくるみ、また元通り優しく抱く。
白いタオルの端から、硬直した手と耳の先っぽだけ見えるが、これでよかろう。
「いつもやってんの?そんなこと」
「いや・・・大人になってから初めて見たんで」
「・・・そ」
これには別段驚かない。
この手のものも巡り合わせみたいなものがある、交通事故なんぞ目撃する人は何度もするがしない人は一生しない。
昔の知り合いに10代半ばにして電車の人身事故を5度も目撃した巡り合わせの悪い奴もいた。
「それで、なんか・・・つい」
「つい、な。まあ熟考した結果ならできんやろうけど」
「そうですよね、ホント考えなしで。よく注意されます」
妙なことにそれほど優しく抱きながらも悲しんでいるとか悼んでいるとかが感じられないのだ。
「なんか申し訳ないなとか、後続の車にも轢かれちゃうんだろうなとか思ったら、もう道路にいて・・・」
道に迷っていた俺に声をかけた時もこんなテンションだったのだろうと思う、困っている人がいたら助けるのが反射的。
たぶん、火災現場に遭遇して「中にまだ人が!」とか言われたらこのテンションで飛びこむのだろう。
あるいは川で子供が溺れていたら、自分の泳ぎの能力はうっちゃってとりあえず飛びこむのだろう。
考えなしの馬鹿、お人好し。
俺とは全く違う意味で長生きできなさそうなタイプだ。
天国には行けそうだけれど。
「俺は猫の轢死体よく見るで。見ても何もせんけどな」
「うん、それが正しいですよね、自治体が片付けてくれるんでしょうし。それもなんか気の毒ですけど」
「・・・あ、そっか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
そうか、片付けるのか。
ぺらぺらになるまで放置はされないのだ。
確かに道に死体があるというのは心地良いものではないから、誰かが通報するのだろう、そして行政的に然るべき処分が施される。
タイヤに付着して街中に散骨されると言う俺のイメージは間違いだったのだ。
たぶん幼い頃にでも轢かれすぎてぺらぺらになった猫の死体を見たからだろうが。
しかし、俺の抱いたイメージより廃棄物処理されるというのは冒涜的なのかもしれない。
「俺・・・猫好きなんですよねぇ」
恒人は唐突にそんなことを呟いた。
猫の死体を抱きながら言われると怖い台詞だった。
「猫以外だったら、助けなかった?」
助けたという言葉もこの場合は正しいのかどうか分からない。
「たとえば・・・」
言いかけて「猫以外」という可能性が低いことに気づく、野犬なんてそうそういるまいし、雑種の犬(今はミックスとか言うのか?)でも結構なでかさなので無視できるサイズじゃない。
逆に小型犬だとどこかの飼い犬という線が強くなってしまう。
東京都内でもアライグマがいるのだったか。
それもまた猫ほど無視はされないだろう。
「ネズミとかだったら?」
ネズミだったらあっというまにプレスされてぺらぺらになってしまう気もするが聞いてみた。
「うーん、俺はネズミさんなんで無視できないでしょうね」
「は?」
「ああ、俺はネズミさんらしいです、浅葱さんに言わせると」
浅葱さんというのは恒人が属するバンドのリーダー的存在だったはずだ。
なるほど恒人の顔立ちは俺のような童顔じゃないくせに小動物めいている。
日頃から自分がネズミに似ていると言われていると、それはそれで見捨てられなさそうだった。
ネズミ駆除とかどういう気分で見ているのだろう。
「まあ、同じことしちゃうんでしょうねぇ」
「・・・そっか」
「良いことじゃないって、分かってるつもりなんですけどね」
「良いことだけしなきゃいけない決まりなんてないやろ」
車に轢かれた猫を弔う行為を「善行」と捉えていないながらやっているところがやはり変わっていた。
「俺はそもそも車が嫌いなんや、だから車に轢かれた動物を見ると罪悪感が湧いてくる」
「ん・・・俺の周りは車好きが多いですからね、俺自身は別段興味もないですけど、責任みたいなのはついて回りますよね」
俺はふと、スポーツカーを買ったと嬉々として報告してきた柴犬に似た後輩の顔を思い浮かべた。
俺が思い切り白けた顔をしてみせたら、意気消沈していたな、そういえば。
「動物だけじゃないですか、車に轢かれたの見て罪悪感が湧いてくるのって。人間が交通事故で死んでも罪悪感はないですよね」
「ないな」
「わけがわからないというか、処理できない感情ではありますよね」
恒人は俺の携帯電話を覗き込みながら器用に進んで行く。
「・・・すみません」
「うん?」
「自分でも何を言ってるのかよくわかりません」
表情は変えぬまま、タオルにくるまれた猫の死体を優しく愛おしげに抱く姿はやはりどこかおぞましさがつきまとう。
しかし恒人は悲しんでいるのだと分かった。
それを表に出すことが彼のボーダーラインを飛び越える行為なのだろう。
あまり会話が盛り上がる空気でもなかった。
俺だって猫の死体を挟んでの雑談で盛り上がりたくはない。
変人の自覚はあるが、異常者にはなりたくない。
異常は即ち麻痺だ。
子供のころ、カエルの轢死体をよく見た。
梅雨時になると現れるガマガエルは道路の真ん中でしょっちゅうひしゃげていた。
爬虫類の皮膚は猫ほど丈夫でないのかサイズの違いかは分からないが、てろてろと光る内臓が盛大にぶちまけられている様を見るのは気分の悪いものだった。
男子とは馬鹿な生き物でそれに触るチキンレースみたいなものをやっていたけれど、俺は参加しなかったので詳しいルールは知らない。
触れたから勇気があるとも思わない。
内臓が徐々に光沢を失くし、アスファルトのでこぼこに刷り込まれて行く様子に虚しさを感じたことはよく覚えていた。
なんとなく、生きる意味がなくなるような光景だった。
命の終わりはあっさりしているくせにおぞましい。
「チベット仏教を信仰しようかなって思ったことがあるんですよ」
「・・・なんで?」
「鳥葬に憧れて」
話題のセレクトが適切なのかどうかは分からなかったが、興味を引く話ではあったので視線で先を促す。
「銀河鉄道の夜に出て来る蠍の火の話を読んで、今まで幾つの命を奪ったか分からない、どうして私の身体を黙ってイタチにくれてやらなかったんだろう、虚しく命を捨てるよりも皆のために私の身体を使いたい・・・っていう。ああ、俺もそうだなぁって思ったんです。どうせなら火葬されてお墓に入るより鳥のお腹を満たせたほうが良いかなぁ、なんて。子供の頃ですけれど」
「嫌な子供やったんやねぇ」
ぶん殴りたくなるような子供はよく見かけるが、子供が言うにはおぞましい内容だ。
「小学校の3年生ぐらいで、丁度『死』っていう概念を知る頃ですよね、だからそんな風に迷走したんでしょうけれど」
「まあ、そうやろうね」
『死』という途方もない命題に初めて出会い、戸惑わない子供はいなかろう。
しかし恐れるでなく鳥葬に飛躍する辺り、この子はだいぶ早くから頭の具合がおかしかったらしい。
「親に話したら怒られるわ泣かれるわで、当時は意味が分からなかったんですけれど、今は分かります・・・埋葬は残される側の問題ですからね」
「そやねぇ、まあ俺も俺が死んだら山の中にでも放置して欲しいとか思うけど。残されたほうが満たされる方法でええわとも思う」
俺の焦がれは美女の遺体が膨張し、腐り、やがて野犬に食い荒らされ、骨だけが残る絵巻からきているけれど、それと似たようなものかもしれない。
死して土に帰りたい、あるいは何かの糧にしてほしいという欲求は案外誰でも持っているのかもしれない。
それを口にすることが普通でないだけだ。
「だからこれもたぶん・・・エゴなんでしょうねぇ」
猫の死体を抱いた恒人が言う。
「誰のためかって言われたら自分のためなんですよね・・・だからすみません、つき合っていただいて」
「ええんや、俺もエゴやから・・・こういうのはエゴでいい」


教えられた獣医さんへようやく到着する。
俺だけ入って事情を話すと「伺ってますよ」と笑顔で言われた。
あの鬱陶しさの塊はちゃんと電話を入れておいてくれたらしい。
こういう抜け目のなさがアイツを只の鬱陶しい奴で済ませられない要因であり、柴犬みたいな子をむくれされる原因だ。
俺達は裏庭に通された。
コスモスがたくさん植わった裏庭にある、幾つもの墓石。
丁重に案内されて、深い小さな穴の前。
法で許されるぎりぎりの行為らしい。
周囲にあるのは全て此処の獣医が管理する借家だからこそ許される行為とも言えよう。
広さ的に、土管を置いたら猫型ロボットが来そうな感じだった。
来たとしても墓石の前ではあの万能なロボットだって無意味だろうけれど。
恒人は作業の邪魔なのかサングラスを外し、深い穴の中にタオルでくるんだ猫の死体を横たえて土で埋めていく。
白い手がとんとんと黒い土をならすのを俺は黙って見ていた。
墓石用の四角い石は俺が持っている。
―よかったら名前でもつけてあげてください。
妙に年齢の読めない獣医師が言っていた。
―思い出す時に名前があったほうがいいですから。
そんなものなのか、別に思いだしたいエピソードでもないけれど、一応聞いてみる。
「名前・・・どうする?」
「そうですねぇ」
白い手で黒い土を叩きながら恒人は首を傾げる。
「じゃあ、スミでお願いします」
黒猫だから『墨』か。
ネーミングセンスがないのか、そこまで凝った名前をつけたくないのかは分からなかった。
漢字だと変なので片仮名で「スミ」と墓石に油性マジックででかでかと書き、恒人に渡す。
平らになった黒い土の上に四角い墓石が乗り、倒れないように少し埋められる。
周囲ではコスモスが揺れ、動くことのない小さな四角い墓石の群れが点在していた。
恒人がしゃがんだまま手を合わせたので俺もしゃがんで手を合わせる。
ここまでつき合ったのだ、冥福ぐらい祈ってやるのが礼儀だろう。
人として車に轢かれた猫に謝罪すべきか少し悩んで、俺は心の中で「安らかに」と繰り返した。
歌の一つでも捧げてやりたい気持ちにすらなって目を開けて隣を見て、見たことを後悔した。
首を垂れた恒人の固く閉ざした瞼の下から一粒の涙が流れ落ちるところだったからだ。
見てはいけないものを見てしまった。
完璧だと思っていたこの後輩は、やはり完璧な球体の様な心で、逸脱して壊れ切っていた、死ぬまで「普通」を望めないほどに。
逸脱を逸脱と知りながらやらずにはいられないほどに、壊れた心の持ち主だった。
完全なる球体という壊れた心は、車に轢かれた猫というありきたりなものすら受け止め損ねていた。
ここまでつき合い、縁を持ち、先輩と言う立ち位置の俺は考えた、同じ壊れた人間として考えた。
「安らかに・・・」
今度は言葉に出して言った。
恒人は素早く涙を拭って俺を見る。
「安らかに・・・」
そう何度も繰り返す。
言霊というのがあるのならば、届けとばかりに、歌と同じぐらい気持ちを込めて。
「安らかに・・・」
恒人は手を強く組み、祈る形のまま膝に顔を埋めた。
「安らかに・・・」
いいじゃないかと言ってやりたい。
こんな理由で泣くぐらい壊れた心でも、その完璧すぎて壊れた心でお前はここまで生きて来たんじゃないかと。
そして今、お前は確かに幸せを掴んでいるんじゃないかと。
俺がそうであったように。
「安らかに・・・」
コスモスが揺れていた。沈黙する墓石があった。
風が静かだった。空が澄み渡っていた。
この光景を思い出すたび、スミと名付けられた猫を思い出すたび、辛くて行き詰ってどうしようもなくなっても、それこそがお前を形成する一部じゃないか。
「安らかに・・・」
俺は知っている、壊れたやつをたくさん知っている、でも皆・・・幸せだ。
そうやって人間として致命的に欠落した人々の中で幸せになれた数少ない者達の中へ入れたことを誇れ。
音楽という翼を持ち、それで飛べることを誇れば良い。
「安らかに・・・」
それが翼を持てず、落ちていった者達への唯一の償いだから。
細い肩の震えが止まるまで俺は只呟き続けた「安らかに」と。



数日後のこと、俺は変人を通り越して最早地球外生命体と呼んで良い我がバンドのドラマーと一緒にいた。
買い物につき合って欲しいと言ったら「ハルマゲドンなの?」とだけ繰り返し、無表情のままつき合ってくれることになった。
「ふ・・・ついに世界が終るんやねぇ」
「いつまでそれを言うてんねん」
「だって京君が可愛い小物売ってる店に連れて行って欲しいとかさ」
「せやから・・・お歳暮選ぶんやって」
「お歳暮に小物ってのも常識ないけどな」
「誰も俺に常識なんて求めてないし」
「勘違いしないように、求めるのを諦めたんや」
「・・・なんやと?」
恐ろしいことに年下である、生意気というレベルなんて遥か昔に飛び越えて、隙さえあれば俺に喧嘩を売るのを生業にしているような奴だった。
「で、どんな小物が欲しいん?」
「・・・黒猫の置き物」
「具体的やな、まぁ事情はどうでもええけど」
俺はそんなファンシーな小物が売っている店に心当たりがないので、そこを通ったのはまったくの偶然。
コスモス畑に点在する黒い墓石達。
その端、真新しく黒い土が覗く墓石の前に花が手向けられたいた。
一輪の赤い薔薇の花、結ばれた白いリボンが風に揺れている。
受け止め損ねた現実に痛み続けるのなら、悼み続けるのならば、必要だろう。墓石があるなら位牌もいるだろう。
その忘れられなさが、受け止め損ねる不器用さが、自分らしさならば、傍から見て変でもいいじゃないか。
言葉でなぐさめることも教え導くこともできない俺が思いついた「できること」はそれだけだ。
スミと名付けられた猫を思いだし祈る時に手助けになる物を送るだけだ。
「京君?」
足を止めていた俺に少し先に行った心夜が振り返り怪訝そうな声を出す。
「・・・なんでもない」
だから「安らかに」、壊れたまま生きてゆけばいい。



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