侑ルート


 侑と夜景を見た翌日。朝、遅刻ではないが、ギリギリの時間に、あくびを手で押さえながら、教室に向かって廊下を歩いていると、頭にポンと軽い衝撃が乗った。見上げると、隣に並んだ侑が、おはよー、と笑いかけてくる。
「おはよ」
 笑い返すと、今日も可愛いな、と挨拶の延長。ついでに頭を二度ぽんぽんと軽く叩かれた。
「ありがとう」
 ナマエも挨拶のように返した。一年近く繰り返してきた慣れた会話だからだ。侑に褒められる度に熱くなる顔を伏せていた頃が嘘のようだった。侑は、ナマエから礼を聞くと、不満げに唇を尖らせてくる。きっと、こなれたナマエがつまらないのだろう。ナマエが恥じらっていた頃は、飽きもせず、嬉しそうに笑っていた。ちょっと生意気な後輩だ。しかし、ナマエが、昨日はありがとう、と言えば、歯を見せて笑い、また一緒に行こな、と楽しげにしてくれるので、可愛い後輩でもあった。
 昨日はちゃんと家帰れたか、とか、侑くんも大丈夫だった? とか、他愛の無い会話を重ねながら、二人並んで階段を上って行き、二階に到着する。ナマエは更に階段を、侑は教室に一直線に伸びる廊下へと行かなければならない別れ道だ。
「ほな、またな」
「うん、またね」
 侑に手を振って階段を上ろうとした時だった。
「ナマエちゃん、好きや!」
 背中から声を張り上げられた。振り返ると、こちらを試すかのようにつぶらな瞳がじっと見上げていた。侑はまだナマエをからかい足りないようだ。しかし、これもいつものことだった。周りを歩く人たちもそれを良く理解しているのか、チラリとだけこちらを見て、足早に通り過ぎていく。
 侑は本当にナマエを好きだと思ってくれているのだろうか。きっと、思ってくれているのだろう。でも、そういう好きではないのだ。だってナマエは昨日、人間姿の侑に引き離されてしまったのだから。
 随分と前にも巡らせたことのある思考を、久しぶりに回すと、どうしてか、胸の中まで渦巻いてしまう。昨夜も、キンと冷えきった草むらでこんな感情を抱いた。この感情はなんなのだろうか。
「ありがと」
 いつものように、侑に手を挙げて、背を向けた。自分で言った言葉に少し胸を引っ掻かれた。

 夜景を一緒に見た翌日から、侑は、何かを取り戻そうとしているかのようにやけくそな様子で、好き、という挨拶をする頻度を増やしてきた。
 それは、ナマエが移動教室へと向かって廊下を歩いていた時のことだった。頭をポンと叩かれ顔を上げれば走って抜かしていく侑に、好きやで、と笑いかけられた。ありがとう、と返す頃にはもう、侑は随分と離れたところを走っていたので、離れていく背中にはナマエの礼など届いていないようだった。侑はナマエの返事など期待していないのだろう。やっぱりそういう好きではないのだと思い知った。
 体育で校庭に出たら、窓から顔を出した侑にナマエちゃーん、好きやでーと叫ばれたこともあった。びっくりしたが、窓から伸びた手がブンブンと振られていたので、手を振り返せば、また、嬉しそうに手を振り返されるだけだった。きっと、侑はこのやり取りをすれば満足なのだろう。
 朝、登校して来たばかりの廊下のど真ん中で手を両手で包まれながら、好きや、と低い声で言われたこともあった。包まれた手の先から真っ直ぐな眼差しが向けられていたので、その時は流石にドキッとしてしまった。なんと返せば良いのか。いつも通り、ありがとう、と言えばいいのだ。そう思った瞬間に、乾いた音が響いたかと思えば、侑の頭は勢いよく前に倒れた。どうしたんだろう、と思うと同時に、朝から何しとんねん、と鬱陶しそうな声がかかった。素早く顔を上げた侑はナマエの手を離して、頭をハタいてきた人物に顔を寄せた。
「サム! 何してくれんねん! 今めっちゃええとこやったのに!」
「何がええとこやねん。明らかにナマエちゃん困っとったやろ。お前の目は節穴か」
「節穴はお前やろ!」
 そのまま二人はいがみ合ってしまったので、やっぱり侑には返事はいらないのだと悟った。
「ミョウジさん、行こ。あいつら待ってたら遅刻するよ」
 いつの間に隣に立っていた角名は愉快そうに目を細めナマエの背中に腕を回す。ナマエは角名に促されるまま、教室へと向かった。
 日を追うごとに、ペラペラの紙のような好き、はどんどんナマエの中に重なっていった。心がいっぱいになり、少し窮屈だった。吹けば飛ぶような好きは沢山なんていらないのだ。

 今年、学校に来るのもこの日が最後だ。明日からは自由登校となる。次、学校に来る時は、きっと、卒業式だ。
 朝、教室に向かって廊下を歩いていると、後ろからぽん、と頭に手を置かれる。寝ぼけ眼がぱっと開くけど、つい目線を下げてしまった。そんな不思議なことをさせてくる、胸にトゲトゲとした感覚を抱くのもきっと、これが最後だろう。
「おはよ、侑くん」
「おはよー」
 侑は当然のようにナマエの隣に並んだ。
 今日も眠そうやな、とか、侑くんその寝癖どうしたの? とか、明日になれば忘れてしまいそうな会話を重ねていけば、二階に到着し、いつもの別れ道に差し掛かった。
「じゃあ、またね」
「おー、またな」
 もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれない。そんなことまで過ったけど、いつものように侑に背を向けた。最後の別れになろうが、侑とはそれを惜しむような関係性ではないのだ。同じクラスの同級生でもなければ、部活の後輩というわけでもない。たまたま少し仲良くなった同じ学校に通う後輩でしかないのだ。胸がざわつくが、階段を三階へと上りきった頃には気持ちも落ち着くだろう。自分に言い聞かせながら下ろしていた手で拳を握り、階段の一段目を上った時だった。腕を引っ張られる感覚に任せれば景色が反転する。体が止まった先では、向かい合う形となった侑がいつになく真剣な顔で見下ろしていた。
「どうしたの?」
「ナマエちゃん、す――」
「やめて」
 それは酷く冷たく響き、自分でも驚いてしまった。どうしてこんなにも冷たい声がでてしまったのかは分からなかったが、本気でその先を聞きたくない、と思ったのだ。その先を聞いて胸を高鳴らせた瞬間に、そっぽを向かれてがっかりするのが、もううんざりだった。
 ナマエの言葉に、一瞬キョトンとした侑だったが、すぐにクシャッと顔に笑みを作った。
「ごめんな」
 眩しすぎる笑顔に胸が張り裂けそうになった。今、侑を傷つけた。そんな気がする。
「私こそごめん!」
「ええよ」
 ナマエの腕を離した侑が、ナマエの頭にぽんぽんと手をのせる。
「ほな、またな」
「うん……またね……」
 “また”なんてないことは知っている。たとえ、”また”があったとしても、今日のようにじゃれあって終わりなのだ。侑は可愛い後輩で、たまに会えばお話をしてくれる、少し生意気でやっぱり可愛い後輩なのだから。何も気づかない方が幸せなのだ。
 侑が掴んでいてくれた腕を握りながら、背を向けた彼を見送った。そういえば、この別れ道で侑の背中を見るのは初めてだなぁ、とぼんやりと思った。
 
 卒業式まではあっという間だった。共通テストまであと何日と数えていたカウントダウンはすぐに零になってしまったし、願書を出したと思えば二時試験を受けていた。ネット社会とは便利な物で、合格発表日にドキドキしながらスマートフォンを覗けば合否が判明した。ナマエの番号は無事に画面の中に並んでいた。

 青々とした空では水彩絵具で描いたような雲が浮いている。校舎を囲む満開の桜は、お祝いするように絶え間なく桜の吹雪を落としてくれていた。一年しかお世話になっていない学舎は、生徒が皆外に出てしまって少し寂しそうだ。昇降口から校門へと続く広場では、休日の駅前広場のように生徒たちで溢れていた。目や鼻が赤いものばかりだった。
「ほな、うちらは部活の後輩のとこ行ってくるわ」
「うん、また後でね」
 卒業式を終え、校門前に立てかけてあった、卒業式と書かれた看板の前で友人二人と並んで写真を撮り終えた後のことだ。
 ナマエの友人たちも感極まっている様子で、ナマエは三年の時に転校してきた新参者だったが、しおらしいこの雰囲気に感化されてしまい、鼻をぐずつかせていた。
 ナマエは黒い筒を持っていない方の手で背中を向ける友人二人に手を振る。友人たちの背中は、すぐに、散らばる生徒たちの中に飲み込まれていった。
 部活にも委員会にも所属していないナマエは所在がなく肩をすぼめてしまう。皆がわいわい、と楽しくやっている中で一人でぽつん、と立っていると、なんとも心許ない気持ちにさせられるのだ。この後はクラスメート皆でカラオケ大会がある。一度教室に戻って時間を潰そう。教室に戻れば、自分と同じような手持ち無沙汰仲間を見つけることができるかもしれない。いや、部活動が盛んな稲荷崎高校だ。きっと教室でもナマエは一人ぼっちなのだろう。小さな吐息を漏らして、人混みを抜け出そうとした時だった。ナマエちゃん! と背中から侑の大きな声がかかる。進めようとしていた足はピタリと止まり、充分火照っていた目の縁は更に熱くなってしまう。もう、会うことも口を聞くこともないと思っていた。下ろした両手で黒い筒を握る。これから何を言われるのだろうか。切羽詰まったその声に期待してしまった自分のせいで、少し怖い。このまま振り向かず行ってしまった方が傷付かずに済むのではないだろうか。でも、足は自分のものではなくなってしまったかのように固まってしまっていた。揃ったつま先を眺めているとまた背中から叫び声が聞こえてきた。
「おにぶなナマエちゃんにもよう分かるように言うたるわ!」
 声の主に背中を向けながら耳に心地いい叫ぶ声を聞く。
「俺はナマエちゃんが好きや! 女として世界一ナマエちゃんのことが好きや!」
 それは、そういう好き、だと思ってもいいのだろうか。
「抱っこしてもらいたいし、してあげたい! キスもしてもらいたいし、してあげたい!」
 それは私だからそう言ってくれているのだろうか。
「俺はナマエちゃんとせっく――」
「公共の場で何言おうとしてんねん!」
 侑の言葉が途中で途切れたので思わず振り返る。海を割ったように裂かれた人混みの先で、侑は首を前に折り曲げていた。その後ろでは呆れた顔をした治と気怠げな顔をした角名が立っている。顔を上げた侑は治にグッと顔を近づけた。
「なんやねん! 今めっちゃええとこやったのに!」
「ええとこちゃうやろ。まさに振られかけとるとこやったやん」
「はぁ!? 振られかけてへんわ! お前の目は節穴か!」
「節穴はお前やろ、って言いたいとこやけど、お前、ナマエちゃん放ったらかしにしとってえーの?」
 ハッとした顔をした侑は、言われんでも分かっとるわ! と治に怒鳴ると、こちらに近づいてくる。怖い顔して、ガニ股でドカドカ歩いてきたかと思えば乱暴に腕を取られた。
「ここにおったら邪魔もんが入るからな」
「え、侑くん!?」
 ナマエの腕を引っ張りながら人混みを蹴散らしていく侑を見上げると、真っ直ぐ前を向く、金髪の後頭部だけが見えた。今までも強引なところがあった侑だったが、乱暴に腕をギュッと捕まれ、素っ気なく引っ張られることはなかったので少し不安になってしまう。でも赤い耳の蓋を見てしまうと、ナマエまで耳に熱が集中してしまった。チラリと後ろを振り返ると、丁度ため息を吐いたところであった治はこちらに気づき口の端を上げて笑った。角名は目が合うと困ったように眉尻を落としたが、唇には優しく弧を描いてくれた。ナマエは、彼らに、ありがとう、とだけ叫んで腕を引っ張る侑に任せて歩いた。

 侑に連れて行かれて到着したところは、校舎裏。ゴミ捨て場の近くだ。誰もおらず、誰の声も聞こえてこない。卒業式の日にこんなところにくる人などいないのだろう。なんでここなんだろう、と思ったが、誰の邪魔も入らなさそうなこの場所は、二人っきりで話すには打って付けかもしれない。そういえば、初めて侑に会ったのもここ、ゴミ捨て場だった。
 侑はピタリと立ち止まると手を離してナマエに向き直る。ごくりという音と共に、侑の喉仏が上下に動いた。侑の顔は怖い顔のまま固定されていたが、侑は目をぎゅっと瞑ると、目の前に立つナマエに話すには充分すぎるほどの大きな声で叫んだ。
「俺の彼女になってください!」
 一生懸命を絵に描いたような姿に、流石にもう、からかわれているとは思わなかった。だから、素直に、侑の思いを受け取れば良かったのだが、胸に刺さったままのトゲがそれをさせてくれなかった。
「でも……侑くん、夜景見に山に連れてってくれた時、私のこと引き離したじゃん……」
「そ、それはナマエちゃんが俺の抱っこを断っとったからや! 抱っこを嫌がっとる女の子を無理やり抱きしめてたりなんかでけへん!」
「でも狐姿の時は胸に飛び込んできたよ」
「狐やったら嫌がられへんと思ったんや!」
 確かに、愛らしい狐姿に飛びつかれて、嫌な気持ちを抱いたことは一度もない。しかし、狐の時も抱っこはしません、とずっと言ってきたつもりだったのだけど、とつい考えてしまう。すると、ナマエのそう言った思考全てを侑は、もーえーやろ! と吹き飛ばした。
「ナマエちゃんは俺の彼女になるんか! ならんのか!」
 三角の眉をぎゅっと寄せて緊張した面持ちで見下ろしてくる。
 いつからだろうか。侑の好き、がナマエの望んだ好き、であればいいのにと思うようになったのは。思い出すことは、できなかったけど、ここで初めて会った時に侑が見せた、みぃーたーなぁーと振り返った時の凶悪な顔や、抱っこしてーな、と言ってきた時のおちゃらけた顔。廊下で会ったかと思えば、お願いがあんねん、ととんでもないお願いをしてきた時の青ざめた顔や、えーとこ連れてったるわ、と腕を掴んできた時の無邪気に笑う顔は鮮明に思い出せた。色鮮やかな顔と共に一緒に浮かんだものはドタバタとした日常。困ったり、楽しかったり、びっくりしたり、嬉しかったり。そんな色鮮やかな高校生活をくれた人は目の前に立つ人だった。
 侑に伝えたい思いはある。
 顔をあげようとすれば、心臓の音が邪魔をした。声を出そうとすれば、喉が掠れた。でも逃げてばかりいてはダメなのだ。次、という機会はもう訪れない。下ろしていた両手を痛いくらいにぎゅっと握って、自分を真っ直ぐに映す瞳と向き合った。
「私も侑くんが好きだよ。私でよければ、私を侑くんの彼女にしてください」
 なんとか言い終えた瞬間だった。沢山聞いてきた、可愛らしいぽんと言う音が鳴ると同時に目の前で白煙が立つ。煙が薄れる前に、煙から狐が胸に向かって飛び出してきた。
「ナマエちゃーんっ!」
 くりくりのお目々はうるりと潤んで光っている。可愛いなぁ。好きだなぁ。そんなことを思いながら、両手で侑をキャッチした。腕には懐かしいフサフサの毛の感覚。侑はナマエの腕の中に着地すると、勢いよく頭を胸に擦り付けてきた。何度も何度も胸に頭を擦り付けてくるので、少しくすぐったい。ナマエに抱っこしてもらえることがそんなにも嬉しいのだろうか。侑が胸に頭を擦り付ける度に胸がポカポカと温まっていく気がした。忙しなく動いている、手の平サイズの小さな頭を撫でてあげようと手を伸ばす。
「ナマエちゃんのおっぱいふかふかやぁ」
 思わず狐を引き離した。狐の前足の下に両手を通して腕をいっぱいに伸ばし狐と距離を取る。前足も後ろ足も尻尾も力なく下ろした侑はポカンとナマエを見た。
「え? なんで? 俺は今なんで引き離されとるん?」
 侑が首を傾げる姿を見ると、つい、吹き出してしまった。いつも、思ったままを素直に口にする侑は、やっぱり見ていて気持ちがいい。
「俺はナマエちゃんの彼氏になったんとちゃうかったん? 彼氏になっても抱っこはあかんの? それか、さっきナマエちゃんが言うてくれたことは、空気読んどっただけ?」
「ううん、違うよ。いっぱい抱っこしたいぐらい侑くんが好きだよ」
 ナマエは微笑むと、再び、侑を胸に抱き抱える。温かくて柔らかい生き物、狐であり、人間の男の子――彼は侑だと理解してぎゅっと胸に抱き締めた。