角名ルート


 ふとした瞬間に校舎裏で角名に両頬を包み込まれたあの日を思い出す。すると、顔は熱くなっていき、鼓動は大きくなっていくのだ。そして、あの時に感じた角名の息づかいまでもが聞こえてきて、慌てて首を振るのだった。今は集中しなければならない時期だ。ふわふわと浮かぶ雲のような思考を回していていい時期ではない。夕食を終え、お風呂に入ってからずっと家の勉強机で赤本を開いていたナマエは、ちょうど三年前の過去問、英語を解き終えたところだった。答え合わせをして、以前に解いた時より丸の数が増えていることに安心する。時計を見ると、時計の短い針はもうすぐ天辺に到達しようとしていた。あともう一教科はなぞれるだろうか。秒針が時を刻む音を聞きながら、一度大きく息を吸って、余計な思考と共に長く吐き出した。息が切れると、頭の中は澄み渡り、音は消える。シャープペンシルを握っていた手に力をこめ、何度も開いてきた数学のページを開き、ノートにペンを走らせていった。

 ある日のこと。昼休みになり食事を終えたナマエは、友人二人に手を振り、教室を出た。誰もいないシンとした廊下を歩くと、ペタペタとスリッパの音が響く。廊下に面した教室の窓はどこも曇っており、窓の先は別世界のように滲んで見えた。ストーブの熱で温まっていた体からはどんどんと熱が奪われていく。コートを着てきた方が良かっただろうか。息を白くするほどの寒さではないが、ブレザーの下に着ているカーディガンだけでは心もとない。冷たくなり始めた体を両腕で抱えると、角名の言葉を思い出した。
『冬は流石にあそこで昼寝なんてしてないから』
 あそこ――校舎裏に角名はいるだろうか。頬に触れられた日から、角名とは会っていない。
 真っ直ぐに自分を見つめる黄色い瞳を思い出しては、中庭に行こうとした。しかし、どんな顔をして会えばいいかわからないのだ。会いたいという気持ちはあるのに、角名の前に立った時のことを考えると、少し怖かった。
 角名は、狐の時に言ったこともしたことも全部角名の気持ちだと言った。角名が過去にしてくれたこととはどんなことがあっただろうか。思い出してみて、角名の気持ちを考えてみた。期待してしまった。でも、違ったらどうしよう。自分だけが胸を躍らせていたら、寂しいな。だから、答えのページは開かないまま。そうやっているうちに晩夏は終わり、秋まで飛び越え、冬が来ていた。
 それでも、今、中庭へと足を進めているのは、明日から自由登校となるからだ。次に学校に来るのは卒業式。今日を逃せば、クラスメートでもなければ、部活や委員会の後輩というわけでもない角名とは、きっと、もう会うことはないだろう。最後にお別れぐらいは言わなければと思ったのだ。
 中庭に出ると、空には鼠色の雲が重そうに浮かんでいた。ここに来る時はいつも、太陽が照り付けてきていたというのに。外気に触れる頬や首筋には、凍てつく空気が刺してくる。校舎に沿って並んでいるツツジの木も、すっかり緑を落として、寒々しい。こんなに冷える外で、昼寝なんて出来るとは思えなかった。校舎裏を見るだけ見にいって、すぐに帰ってこよう。角名に会えないことは少し心残りではあったが、今なら心残り程度で戻ってこられる筈。赤くなった指先をこすり合わせながら草一本生えていない乾いた土を踏んで校舎の角へと向かっていった。視線を地面に落としたまま、角を曲がる。顔を上げて、ドキッとした。白い校舎に背を向けた角名があぐらをかいて座っていたのだ。その横顔は、ぼんやりとした様子で前を向いている。
 角名くん、と声をかけると、こちらを向いた角名は泣きそうな顔をして笑った。
「来てくれたんだ」
「うん、明日から自由登校になって、学校来なくなるから」
「そっか、もう来てくれないかと思った」
 暫くここに来ていなかったから、角名を不安にさせてしまっていたのだろうか。前回、ここに来た時は互いに会話もそぞろにして、予鈴がなると同時に帰ってしまったのだ。少し気まずい別れ方だった。
 角名を不安にさせてしまったことを申し訳なく思いながら角名の隣に座った。すると、角名が、コテン、と体を倒して肩に体重を預けてきたので、びくりと震えた。
「警戒心もてって言ったのは俺なのにね」
 寂しそうにそう言った角名はナマエを見上げて切なげに笑った。
「そんなに怖がらないでよ」
「こ、怖がってはいないよ」
 声も震えてしまった。でも、それは怖いからじゃない。寒いからでもない。角名と触れている肩から熱が伝わってきて、寒さを感じさせないほど体が熱くなってしまったからだ。喉はカラカラに乾燥し、心臓は激しく鼓動を打っていた。首筋は刺さる角名の髪の毛一本一本を敏感に感じていた。角名が体を倒してきてから香る甘い香りはきっと角名の香りなのだろう。頭が痺れてくる。意識をしっかり保とうと、汗ばむ両手でスカートをぎゅっと握れば、ナマエを覗いていた瞳は柔らかに細められた。
「顔真っ赤」
 角名には、体の熱や鼓動の速さといったナマエが隠していることの全てを見透かされているような気がして、ますます、全身が茹ってしまった。
「俺の気持ちちゃんと伝わってくれてるのかな……」
 俯いた角名がボソリと呟いた。角名の気持ち、という単語に更に心臓が跳ね、それはどういう意味? と聞けずにいると、角名は続けた。
「受験勉強はどう?」
 なんだ。話題は変わってしまうのか。
「順調だと嬉しいなって感じ」
「志望どこだっけ?」
 県外の大学を志望していた。第一志望の大学を伝えると、そっか、とこぼした角名は、寂しくなるね、と呟いた。今日の角名は普段見る角名より弱々しく感じる。大丈夫だろうか。寒い外に座っていたから体が冷えてしまっているのかもしれない。首筋に当たる角名の髪は酷く冷たかったのだ。角名の膝に乗っている手だって指先が真っ赤になっている。どうしてこんな季節に角名はここにいたのだろうか。赤い指先がいじらしくて、そっと手を重ねた。やはり氷のように冷たい。ぎゅっと握ってあげると、角名はまたこちらを覗き込んでくる。その瞳は驚いたように、見開かれていた。
「ミョウジさん?」
「何?」
「いや、なんでもないよ」
 角名は顔を隠すようにナマエの肩に顔を埋めた。角名の耳は、指先のように血色が良くなっている。やっぱり寒かったんだろうな、と思いながら、赤らんだ耳の縁を眺めていると、角名は、独り言のように言った。
「ミョウジさんの考えていることは大抵分かる」
「そうみたいだね」
「全部顔に出るから」
「そうかなぁ」
「でも、一つだけ知りたいけど分からないことがある」
 なんだろう、と首を傾げていると、角名は続けた。
「これだけはちゃんと、言葉にしてくれないと分からないんだ」
 顔を上げた角名は、初めてここで会った時に見せた、針のように鋭い瞳でじっとナマエを映した。この瞳に見つめられると、時間が止まってしまったかのように角名から目が離せなくなってしまう。
「多分、次会えるのは卒業式の日だよね」
 コクリ、と頷くと、角名は表情を緩ませた。
「卒儀式が終わったらここに来て」
 いいよ、と返せば、耳元に顔を寄せた角名は囁いた。まるで悪戯をこっそり教えてくれるかのように。
「その時に俺が分からないこと、確かめさせて」
 耳にかかった吐息がくすぐったくて肩を上げていると、頬に、ひんやりとした、角名の鼻の先が当たる。角名はまるでキスをするかのように、鼻先で軽く触れて、またナマエの肩に頭を乗せた。触れた鼻はとても冷たかったのに、触れられた頬はまだ熱を持っていた。無言の空間なのに、居心地がいい。うるさい心臓の音も悪くないなぁ、と思っていた。
 でも、角名の考えていることは分かるようで分からなくて、少しもどかしかった。もしかしたら角名もナマエと同じ気持ちなのだろうか。だから、気持ちを伝える手段として言葉を交わし、触れ合うのだろう。
 今日が角名に会う最後の日にならなくて良かった。次にここで角名に会った時、自分も知りたいことを角名に聞こう。
 
 自由登校になってからも、油断をすれば、頭の中は角名のことでいっぱいになってしまった。でも、勉強に集中できない理由を角名に求めるわけにはいかなかった。次、角名に会った時、ちゃんと笑顔を向けたい。心の中で揺蕩う気持ちは丁寧に引き出しの中にしまった。

 昇降口の前では、至る所で学生による撮影会が行われていた。混雑具合はまるでラッシュ時の駅のようで屋根のない吹き抜けた空間であるにも関わらず窮屈だ。
 ナマエは、鼻に落ちてきたピンクの花弁に思わずくしゃみをする。隣で友人二人に笑われた。それでも彼女らの目は赤く、笑っているのか、泣いているのか分からなくて、ナマエまで笑ってしまった。
 目の前をヒラヒラする花弁に釣られて空を見上げる。満開の桜の先に見える青空が広々と見えるのは、きっと、訪れた開放感と未来への期待のせいだろう。ナマエは無事、第一志望の大学に合格し、今日、稲荷崎高校の卒業式を迎えていた。今はスケジュール通りに式を終え、生徒それぞれが思い思いに時間を過ごしていた。
「ナマエちゃん、順番来たで」
「あ、うん」
 視線を前に戻すと、校門前に置かれた、卒業式と書かれた看板の前で写真を撮っていた男子学生三人がちょうど去っていくところだった。ナマエたちも例に倣って、看板を後ろに三人並んで黒い筒を掲げながら写真を撮った。

「ほな、うちらは部活の後輩のところに行ってくるわ」
「うん、また後でね」
 この後は、クラス全員でカラオケ大会がある。教室が待ち合わせの場所となっていたが、ナマエには教室に戻る前に行く先があった。人混みに向かっていく友人二人に手を振って、中庭へと足を進める。彼はいるだろうか。友人達のように今はまだ部活の先輩達と一緒にいるのかもしれない。いつも、彼に迎えてもらう側だから、たまには先に行って待っていてもいいだろう。人混みを縫って進んでいく足取りは弾んでいた。
「ナマエちゃん!」
 背後から聞こえたそれは侑の声だ。切羽詰まったような叫び声だった。振り返れば、侑は下ろした両手に握り拳を作って踏ん張るように立っていた。向けられた顔も紅潮しており張り詰めた様子が伝わってくる。どうしたのかな、と駆け寄ると、なぜか侑は背を逸らしてナマエから距離を取った。いつもは侑から近づいてきては頭にポンポンと大きな手を乗せてくるのに、今日は様子がおかしい。
「どうしたの?」
「あ、えっと……」
 侑は黒髪が残るこめかみをポリポリと掻く。もしかして、梅雨の時期みたいにまた何か言いにくいお願いをされるのだろうか。困った後輩だな。でも可愛い後輩でもあった。最後だから、聞くだけは聞いてあげよう、と侑を見上げた時、侑の後ろをずっと会いたかった人物が横切るのが目に入る。思わず、あっと声を上げてしまった。声に反応したかのように、その人はこちらを向いたが、ふい、と顔を背け、足を進めて行ってしまった。もしかしたら、彼がこちらを向いたと思ったのは気のせいだったのだろうか。どうせ、後から会う約束をしているのだし、いっか、と思い侑に向き直ると、侑もナマエと同じように角名の方を向いていた。
「侑くん?」
 声をかけると、侑はナマエを見下ろす。丸い瞳がじっとナマエを捉えて、少し緊張してしまったが、侑はすぐに顔をクシャッとして笑顔を浮かべた。
「ナマエちゃんは角名のことが好きなんや」
「え、あ、え?」
 唐突な言葉に頭が真っ白になってしまう。
「そっかー、そうやったんや。でも角名やで。何考えとるか分からんやん。ほんまにあいつでいいん?」
 訳もわからず進んでいく会話。
「顔真っ赤っかやなー。相変わらず可愛いな。もう俺にはそんな顔してくれへんのに。いつの間に差、つけられたんやろ」
 矢継ぎ早に言われ、何を言われているのかよく分からないでいると、ようやくいつものように頭をポンポンと叩かれた。
 角名のことが好きだと言われたことでいっぱいいっぱいになってしまったナマエは本能的に話題を逸らした。
「それより侑くん、何か言いたいことあったんじゃないの? 何?」
「あー……それはな、もういいねん」
 侑の笑顔が一瞬、泣き顔に見えて、ドキッとした。でも、それはきっと見間違いだ。その後、いつものように、ケラケラ笑いながら、ナマエちゃん、好きやで、と軽く言われたのだから。
「ありがとう」
 いつものように、礼を返した。このやりとりは習慣化された挨拶のようなものだ。深い意味はない。侑は、穏やかに元気でな、と一言付け足した。
「侑くんも元気でね」
 これでこの会話は終わりだということを空気で察する。侑も同じだったようで、侑は片手を上げた。ナマエも片手を上げて、侑に背を向けた。人混みに向かって足を進める。これで侑くんともお別れか。感傷に浸りながら、一歩、二歩と進んでいき、三歩、四歩と足を伸ばした時だった。
「やっぱ俺ナマエちゃんが好きや! いつ乗り換えてくれてもええからな!」
 また、叫び声が聞こえてきたので振り返ると、侑は先程のように両手を握って前屈みになりながら立っていた。すぐには侑の言葉を理解することはできなかったが、侑の幼気な姿を見ると、今までの侑の言葉の意味全てが、針に糸を通せた時のようにスッと胸に入ってきた。どうしてか、鼻の奥がツンとなり、泣きそうになってしまう。
 そうか、今まで侑が何度も言ってくれていた好きには全て、思いが乗せられていたのか。
「ありがとう!」
 ナマエも負けじと叫んだ。周りにいる沢山の生徒から注目を浴びていたが気にしなかった。侑から向けられた思いの分だけ、ありがとう、を伝えたかったのだ。しかし、思いを返すことは出来なかった。拳を握ってまた、大声で叫んだ。
「でも、ごめんね!」
 ナマエが言い終えた後、侑は驚いたように目を丸めた。いつものナマエであれば、ナマエは侑の言葉を理解できずに、平然とありがとう、と言うだけだった。きっと侑にとってナマエの反応は予想外だったのだ。
 侑は困ったような顔をして笑う。やはり、笑っているのか、泣いているのか分からなかったが、侑は片手を上げてくれたので、ナマエも手を上げて踵を返した。

 人混みを抜けたナマエは真っ直ぐに中庭を目指す。中庭には人っ子一人いなかった。中央に植えられた桜が花弁を踊らせているだけだ。約束の場所が近づくにつれ、鼓動の音が大きくなっていく。
 ナマエは自分の気持ちを自覚していた。しかし、言葉として明確に形にしたことは無かった。侑に、角名のことが好きなんや、と言われた瞬間に胸に漂っていた気持ちにしっかりとした輪郭が出来たのだ。
 そっかぁ。私は角名くんのことが好きなんだ。
 少し照れ臭かったが、気がつけば、先に見える校舎の角に向かって走っていた。早く、角名に会いたい。思いを伝えたい。断られたらということは考えていなかった。決して驕りではなく、ただ、胸に形作られた気持ちがナマエを急かしただけだった。
 白い校舎の角を曲がる。スラックスのポケットに手を突っ込みながら立っていた横顔がこちらを向いた。
「ミョウジさん」
 安堵が滲む声。表情も穏やかだった。ナマエが角名の前に立つと、角名は尋ねた。
「侑との話はもう良かったの?」
 うん、と返す。やっぱり、侑と話していた時、角名と目があったと思ったのは気のせいではなかったのだ。どうして、無視されたのだろうか。角名には侑の要件が分かっていたのだろうか。そして、侑の邪魔をしたら悪いとでも考え何も言わずに去ったのだろうか。流石だ。角名にはナマエのことだけでなく、侑のことも分かるらしい。でも、そんな角名がナマエに確かめたいことって何だろう。今まで何でも見通してきた角名だ。きっと、ナマエの気持ちにだって気づいている筈だ。
「分からないよ」
「え?」
 角名は柔らかに目を細め、ナマエの頬に触れる。優しくそっとナマエの頬を撫でると、背中を丸めて額をナマエの額にコツンと合わせた。いつかを思わせる距離。息と息が混じり合う距離だ。ナマエの顔はどんどん茹っていく。しかし、綺麗な黄色い瞳からは目が離せないのだ。体の内側から響く心臓の音はうるさい。体がガチガチに固まっていくのが分かった。角名はそれに気がついたのか、フッと笑った。
「俺はミョウジさんが好き。この意味ちゃんと分かるよね」
 唐突にされた告白は体に温かく馴染み全身へと広がっていった。目の縁がじわりと熱くなる。
「人の姿でミョウジさんを抱きしめても――」
 角名の言葉を聞き終える前に、角名に抱きついてしまった。
「私も角名くんが好き。ずっと伝えたかった」
 腕の中にある体は、硬くて大きて、狐の時とは全く違う男の人の体だった。これが角名で、これも角名なのだ。すると、ナマエの頭と背中に腕が周り、角名の胸に体を沈めさせられた。
「ミョウジさんって本当にずるいよね」
 頭の上で声がする。角名の胸に密着した頬からは少し早めの心臓の音が聞こえてきて、自分と同じペースで刻まれている時間が嬉しかった。
「角名くんだってずるいよ」
 角名の胸を押して、角名から離れる。そして、つま先立ちをして、角名にされたように、角名の頬に鼻で触れた。角名くんの真似だよ、と言って角名を見上げると、丸い瞳全てが露わになるほど見開かれた瞳と目が合った。瞬間、ポンという音と共に目の前で白煙が立つ。煙が薄れると耳を力なく折り曲げた狐が現れた。俯きがちの角名はばつが悪そうに呟く。
「ごめん……」
「いいよ」
「でも、ミョウジさんが悪いんだからね」
 そう言った角名はぴょんとナマエの胸に飛び込む。ナマエがキャッチすると、ナマエの頬には冷たい鼻が当てられた。