北ルート


 裸の街路樹が並ぶ道は、夕食前にも関わらず、すっかり暗くなっており、雪がチラついていた。息を吸うたびに鼻はツンと痛くなり、体は震える。吐いた白い息は柱のように白く伸びた。早くお家に帰って温まりたい。
 図書館からの帰りだった。
 その日は平日だったが、受験生のナマエは、すでに学校が自由登校となっていたため、毎日朝から晩まで図書館で勉強をしていたのだ。
 限界まで足を伸ばし、家へ向かって凍てつく空気を突き抜けていく。
 しかし、忙しなく動かしていた足は突然、ピタリと止まった。空を見上げれば、いつも行く道を照らしてくれていた月は見当たらない。どうやらこの道は、今日もナマエを迎えてくれたらしい。狭い道幅に合わせて佇む鳥居。その先には新月の晩にしか現れないという小道が続いていた。
 そういえば、自由登校になってから北とは会っていない。北は、新月の晩はここに来ていると言っていた。いや、流石に雪の混じる空の下、暖をとる場所もないあの場所に北がいる筈ないだろう。けれども、もしかしたら、と思いナマエは鳥居をくぐった。
 細い石畳を歩き、石を積み上げてできた階段を登る。
 ほら、やっぱり。
 北はそこにはおらず、小さな社だけが佇んでいた。きっと、今日ここには誰も来ていないのだろう。地面には、社の三角屋根と同じように薄らと雪が積もっており、獣の足跡どころか人の足跡すら見つけることができなかった。
 北がいないことに肩を落としていると、お腹がぐぅっと鳴り、早く帰ろうよ、と言ってくる。帰るか、と踵を返して階段へと向かった。その時だった。下りる階段へ繋がっている、道の終わりから、ひょこっと白銀の毛玉が顔を出す。
「あれ? 北くん?」
「ミョウジさん……」
 ピタリと動きを止めた北は驚いたように目を見開いていたが、すぐに柔らかに細めた。
「なんや、困ったな」
「困った? なんで?」
「なんではこっちのセリフや。なんで、ミョウジさん、ここにおんねん」
「え……まずかった? ごめん……」
 北の言葉は穏やかだったため、怒られているというわけではなさそうなのだが、たしなめられているような気がした。
 ここは狐の神様のお家。神聖な場所なのだ。やはり勝手に入ってきてはいけなかったのだろうか。
 身を小さくしていると、謝って欲しいんとちゃうねん、と言われ、ギクッとする。北はナマエから顔を背け、前足で頬をかいた。北の吐いた白い息はすぐに薄れ消えていく。
「なんでミョウジさんはここに来てくれたん?」
 同じ質問を投げかけられ、先程は謝ることで精一杯だったため考えることのできなかった質問の答えを探す。
 どうして、ここに来たかといえば、鳥居を見た時に、北はいるだろうか、と気になったからだ。北はまた悲しい顔で暗い空を見上げてはいないだろうか、と心配だった。
 ナマエが悲しい顔をしている北のために何かできるというわけではないのだが、新月の夜に北を一人にしてしまうと、北はその輪郭を闇に溶け込ませてしまうのではないか、と不安だった。だから、ただ、そばにいたかった。北が消えてしまう前にその手を掴むことができるように。
 ナマエは導き出した答えを口にしようとしたが、北が先に口を開いた。
「この聞き方はずるいな。お互い今は大事な時期やし」
 ずるいとはどういう意味だろうか。
 首を傾げると、北は切なげに笑うので、聞けなくなってしまった。
 やはりここに来てはいけなかったのだろうか。迷惑だったのだろうか。前はいいよって言ってくれたのに。受け入れてもらえた、と勘違いしてしまっていたのだろうか。
 俯いて拳を握っていると、北は足元までやってきて、顔を覗き込んでくる。
「そんな顔せんといて。今日は雪やろ。寒ないかなって心配になって聞いただけやねん」
 なんだ、そういうことだったんだ。やっぱり北くんは優しいね。
「寒くないよ。北くんの方こそ平気なの?」
「俺は平気や。狐やからな」
 狐であることを見せつけるように、体の後ろで尻尾をゆったりと振った北だったが、北の笑顔からは自嘲めいたものを感じた。北が自分のことを狐であると話す時はいつもこうして寂しそうにする。自分はナマエとは違う世界を生きているのだと一線を引いているようだった。
 北になんと返せばいいのだろうか。
 私は北くんの狐姿も好きだよ。柔らかくて温かくて、今日みたいな寒い日は北くんと過ごせたら幸せなんだろうなぁ。
 そんなことを思ったけど、軽々しく口にはできなかった。口籠もっていると、北は尋ねた。
「受験勉強は順調か?」
 脈絡のない話題変更は、ナマエとはもう先程の話をしたくないとでも言っているようだったので、素直に北に従った。
「順調だと嬉しいなって感じかな。北くんは?」
「俺もそんなところや」
「凄いね。北くんはまだ部活続けてるのに」
「凄ないよ。習慣の一部として部活も勉強もやっとるだけやし」
 そういうところが凄いんだよ、と笑えば、毎日勉強頑張ってるミョウジさんも凄いやろ、と言われ、照れ照れ。顔が熱いせいかチラつく雪が鼻に落ちても、寒さは感じなかった。でも、お腹は鳴ってしまう。
「ごめんっ……」
「可愛い音やな」
「ちがうの……」
 カラカラ笑う北は、もう帰り、と諭すように言うので、恥ずかしさのあまりきつく閉じた口の代わりに頷く。すると、北は、いつもするように、住宅街への道へ向かってぴょんと飛び出た。
「送るわ」
 ありがとう、と言おうとして、ハッと思い出す。
『なんで、ミョウジさん、ここにおんねん』
 寒いだろうから心配してそう聞いた、と言ってくれたが、どう考えても、ここにいて欲しくないような物言いだった。
 北はお役目があってここに来ているのだ。それにもかかわらず、ナマエはいつも勝手に押しかけては、もっと北と話したいという欲求を優先させ、北に送ってもらっていた。
 もしかしたら、送ってもいたくてここに来ていると思われているのかもしれない。
 めんどくさい女やな、なんてことは北は思ったりしないのだろう。しかし、迷惑をかけてしまっていたのかもしれない。現に、ナマエの顔を見るなり北は言っていたではないか。困ったな、と。
 ナマエは耳の先まで顔が茹っていくのを感じた。
「大丈夫! いいよ! 一人で帰れるから! それに北くんもやらなくちゃいけないことがあるからここに来てるんでしょ?」
「別にええよ。絶対ここにおらなあかんわけやないし」
 普段であれば、ここで甘えていた。しかし、どうしてか、いつも言っている、ありがとう、の一言が出てこない。代わりに出てきた言葉は、でも、の一言だけ。
 うっすら雪の積もる地面をじっと眺める。綿のような雪が次から次へと落ちてきて、早く帰らないと、住宅街の道にも雪が積もっちゃうかな。なんて、思った時だった。
「迷惑か?」
「え?」
「送るって言うて迷惑になってしもてるんかな」
「そ、そんなことないよ! でも……」
 言葉の続きが分からなかった。
 北に会いたくて、ここまで来た筈だったのに、どうして北がそばにいてくれる、という申し出を、断ろうとしているのだろうか。
 北に申し訳ないから? それとも、送ってもらいたくてここに来ていると北に思われているかもしれないことが恥ずかしいから?
 どちらも合っていたが、どちらも間違っているような気がした。
「分かった。ほな、気をつけて帰り」
「え……? あ、うん……」
 顔を上げると、北は、まだ教材揃ってないんやろ、と初めて声をかけてくれた時のように、困った我が子を前にして大人たちがよく見せる笑顔を浮かべていた。
「じゃあ、またね」
「またな」
 北は微笑んだままだったが、寂しそうに視線を下げ、ナマエは鼻に落ちる雪が急に冷たくなった気がして、体が強張った。

 翌朝、図書館へ向かって住宅街の道を歩いていたら、やはり鳥居から始まる道は消えていた。あの鳥居がなければ北に会うことはできない。そう思うと胸に棘が刺さったような痛みが走った。
 次の新月の日はいつだろうか。
 見上げた青空は素知らぬ顔で、細い月を浮かばせていた。

 雪の日に北と会ってから、ナマエは図書館を出る度に、夜空を見上げるようになった。
 そこには白く輝く月が浮かんでおり、弓形のそれが膨らんでいくと、胸の奥がソワソワした。しかし満月を迎え、新月に向けて萎み始めると、心許なくなった。
 あの時、いつものように北に甘えて送ってもらっていたら、ソワソワしながら月が痩せていくのを見ていられたのだろうか。でも、北に迷惑をかけたくなかったのだ。それに、北に送ってもらいたくて、あの場所に来ていると思われたくなかった。
 もし、そう思われていたらどうしよう。
 そうだとしたら、北の困ったな、は北からの拒絶を意味することとなる。そんなの悲しかった。ただ、そばにいたかっただけなのに。
 待ち望んでいたのか、それとも、拒んでいたのかはよく分からなかったが、ようやく、闇夜に現れた鳥居。ナマエは鳥居の前で足を止めた。きっと、道を進んだ先には北がいるのだろう。だけど、ナマエは鳥居を潜ることはしなかった。

 共通テストが終わってからも、二次試験を受けるまでの間、ナマエはずっと図書館で勉強をしていた。いつも夕食に間に合うように図書館を出ていたのだが、帰りの道は常に暗かった。
 早足で進む中、否が応でも登りかけの月が目に入る。暗闇で白銀を輝かせる月を見ては、北を思い出すようになった。でも、月と北は全く別のもののように思えた。だって、北の白銀はもっと温かい。それに、街の闇が濃くなる新月の日にだって北は手を伸ばせば触れる距離にいてくれる。あぁ、でももう、触れることはできないのかもしれない。
 だって、今日も鳥居の前を通り過ぎてしまったのだから。

 一年だけお世話になった教室。誰もいないそこに入ると、チョークの匂いが立ち込めていた。今日までこの教室が使われていなかったにも関わらず、こんな匂いがするのは黒板いっぱいに描かれたアートのせいだろう。青空が広がり、満開の桜が咲き誇るその中心には大きく、卒業式おめでとう、という文字が書かれていた。
 無事に第一志望の大学に受かったナマエは今日、稲荷崎高校の卒業式を迎えていた。式は無事に終わり、今頃、ナマエ以外の生徒たちは校門前で別れを惜しんでいる筈。ナマエも先ほどまではその一員に入っており、友人達と思い出に浸りながら、卒業式と書かれた看板の前で写真を撮ったり、何泣いとんねん、とか、そっちだって、とか、軽口を叩きながら、お世話になった校舎を見上げたりした。
 友人たちは今部活の後輩達の所に行っている。
 部活にも委員会にも属していなかったナマエにも、侑や角名といった親しくなった後輩達がおり、友人達と別れた後すぐに、彼らとも談笑をしたが、結局、一足先に教室に帰ってきたのだ。この後はクラス皆でカラオケ大会が控えており、その待ち合わせ場所が、ここ、教室だった。
 ナマエ以外にも、教室に戻ってきている生徒がいてもおかしくなさそうなのだが、ナマエは教室で一人っきりだった。
 部活動が盛んな高校であるため、ナマエのように途中から稲荷崎高校に仲間入りした生徒でなければ、今頃、別れを惜しむのに忙しいのだろう。高校で転入してくる生徒はなかなかいないらしい。
 ナマエは席につき、机に突っ伏す。先程まで泣いていたせいか、熱を持った頬をひんやりと冷やしてくれるそれは気持ちがいい。視界に入ったのは、隣の席。北の席だった。北とは暫く言葉を交わしていない。雪が降る日に、狐の神様のお家だという小さな社の前で会ったきりだ。
 もし、このまま言葉を交わさずに、今日を終えてしまったらどうなるのだろうか。
 北の机に向かって手を伸ばす。拳を握ってみたが、何も掴めなかった。その時、教室の扉がガラリ、と開く音がする。ビクッと肩を跳ねさせたナマエが音の聞こえてきた方を向くと、開かれた扉の先で、手足を生やした、大きな花束が立っていた。ギョッとするが、花束の上から白銀の頭頂部が見えて、安心する。
「なんだ、北くんか……」
 北は花束の横から顔を出した。
「なんや、ミョウジさんか。誰もおらんと思ってたからびっくりしたわ」
 びっくりしたのはこっちです、とは口に出さなかった。びっくりしたと言う割に無表情の北はナマエの隣にある自分の席に両手で抱えていた大きな花束を置いた。
「どうしたの?」
「花束、置きに来てん。こんなん持ってたら、他の部活に挨拶にも行かれへんからな」
 呆れたような口調だったが、花束を見るその瞳は優しく細めらていた。
「凄い大きいもんね」
「あいつら……侑達な。大きければ大きいほど良いと思ってんやろ」
「確かにそう思ってそう」
 侑が得意げな顔をして大きな花束を抱えている姿を想像すると、笑ってしまった。すると、北も表情を緩める。北との間にゆったりとした空気が流れた気がして、ホッとしたような胸が熱くなるような気持ちになった。しかし、北が急に真面目な顔をするので、ドキッとする。
「ミョウジさん、あんな、」
 北が真っ直ぐにナマエを見つめてきたので、ナマエは座りながらも背筋を伸ばさずにはいられなかった。
 何を言われるのだろうか。
 北はナマエを真っ直ぐに見ていたのに、ふと顔を背けると、人差し指で頬を掻いた。
「俺が初めてミョウジさんの前で狐になった時のこと覚えとるか?」
「うん、覚えてるよ」
 忘れる筈もなかった。
 今はそう思うことはないが、当時不気味だと感じたあの場所で一人震えていたら、北が社の影から現れたのだ。安堵したのも束の間、北は時間切れや、と言って狐になった。
 それは新月の日のこと。人でいられる時間は短いというのに、怯えるナマエを案じて北は姿を現してくれたのだろう。
「あの時、ミョウジさん、狐姿の俺を抱き上げてくれたやろ」
「あ、あぁ、そういえばそうだったね。ごめんね。嫌だったよね」
「ちゃうねん。嫌やったから断ったわけやなかってん」
「あ、え? そうだったの?」
 そっぽを向いたまま北は続ける。ナマエに向けられたその頬は赤みを帯びているように見えた。
「もし、今俺がミョウジさんに同じことしてもええかって聞いたら……」
 言いかけた言葉をそのままに北はふっと笑った。
「回りくどいな」
 独り言のようにそう言うと、頬を掻いていた手を下ろしてナマエに向き直る。どこか辛そうな笑顔を浮かべ、どうして、そんな顔で笑うのだろうか。こういう時に、ナマエは北がどこか遠いところに行ってしまうのではないか、と心配になってしまう。北に手を伸ばそうとしたが、指先がピクリと動いただけで、その手は下ろされたまま体の横で固まっていた。
 北は静かに続ける。
「俺は新月の晩には狐になってまう。というか、狐やねん。人やないねん」
 そんなこと言わないでよ。
 狐だとか人じゃないとか言われると、お前と俺は生きる世界が違うのだ、と言われているようで寂しい。ナマエが下ろしていた手に拳を握ると、北は真剣な眼差しを作った。どこまでも透き通る瞳がナマエを映す。
「俺は人やない。ミョウジさんとは別の生きもんや。でも、ミョウジさんのことが好きや」
「――え?」
「いや、せやから……その、ミョウジさんが好きやって言うてん」
 北は緊張を解いたように頬を緩めた。その頬はやはり桜色に染まっていた。
「良かったら、俺の彼女になってもらわれへんかな」
 それは雪をちらつかせる空に月が隠れてしまった夜のこと。闇の中ぼんやりと朱を浮かばせる鳥居を見て、思った。
 北はこの先にいるだろうか、と。
 そして、鳥居を潜った。彼が月の見えない空を見上げた時に、悲しい顔をしていませんように、と願いながら。
 でも、きっと、北は寂しそうな顔をしている気がしたから、そばにいたかった。
 そうしてその場所へ向かった筈なのに、北が送ってくれるという申し出を断った。
 北に申し訳ないから? それとも、送ってもらいたくてここに来ていると北に思われているかもしれないことが恥ずかしいから?
 どちらも合っていたが、どちらも間違っている気がした。
 きっと、それらは枝葉でしかなかったからだ。もっと大きなものが幹となってナマエの心に根付いている。北に好きだと言われた瞬間、それは大きく脈を打ち始めた。
 きっと、北と最後に会った日から胸の中は、ずっと雪が降っていたのだろう。今その雪がじわじわと溶けていき、ようやく春が来たような気がした。
 ナマエも真っ直ぐに北を見つめた。
 白銀を輝かせる髪の毛。短めのまつ毛。無表情の時はちょっと怖いけど優しい笑顔を浮かべる人。たまに意地悪を言ってくるけど、いつもナマエのことを思ってくれる人。
 人であって狐でもある、そんな北くんが――
「私も、好き。卒業してからもずっと北くんのそばにいたい」
 笑みと共に溢れた。
 すると、ぽんと可愛らしい音が鳴る。ナマエの前で白煙が上がり、白煙が薄れると、白銀の毛をふさふさと生やした狐が現れた。ナマエが、へ? と間の抜けた声を出すと、また、ぽんと音が鳴り、立ち上った白煙から人間姿の北が現れた。
「北くん? 大丈夫?」
 すると、またぽん。
 三度目に上がった白煙からは、観念したように首を垂れて頭から湯気を立てている白銀の狐が現れた。
「すまん……」
 北は俯いたままだった。
「大丈夫?」
 ナマエが北の前にしゃがみ込むと、北は、コクコク、と首を縦に振る。
 可愛い。
 やっぱり、北の周りにはピンクのハートマークが沢山見えた。
「抱っこしてもいい?」
 照れ臭そうに顔を上げた北だったが、ええよ、と微笑んでくれたので、北の体を掬い上げ、胸に抱きしめた。ふかふかした狐に顔を埋める。綿毛がふんわりと宙に舞うような気持ちが胸いっぱいに溢れた。すると北も頬擦りをするようにナマエと頬を合わせた。
 どうかこれから先もずっとあなたの隣にいられますように。