治ルート
受験生であるため、学校が自由登校となり、毎日図書館で勉強をしていたナマエだったが、その日は学校に来ていた。共通テストを終え、最終的に受ける大学を学校へ報告に来ていたのだ。
共通テストの結果は良くも悪くも想定通りで、当初の予定通り、志望していた大学を受けることにした。そのことを担任に報告すると、よほどのことがない限り、大丈夫だろうとのことだった。
そのよほどのことがないよう、勉強をしにこれから図書館へ向かうところだ。
図書館は学校の裏口から出た方が近いため、裏口へ向かう。体育館の前を通って、自動販売機を通って、そのまま真っ直ぐ進めば裏口へ抜けられるのだが、ふと視界の端に黄金の毛玉が映る。そういえば、お腹が空いたなぁと思っていたところだった。しかし、もうすぐ終わるとはいえまだ四限目の最中だ。ナマエ達三年が自由登校となっても、一年、二年は通常通り授業をしており、本来であればこの時間のここに二年がいてはいけない。
そんなにサボってても大丈夫なのかな、とか、見かける時は常に狐姿だけど本当に大丈夫なの? とか、外で寒くないのかな、とか余計なお世話とも思えることが沢山浮かんできて、足を止めざるを得なかった。
ナマエが立ち止まると、色褪せた青いベンチで丸まっていた狐は眠そうにこちらを見上げた。こんな瞳をするのは治の方だろう。
「久しぶりやな」
「そうだね。しばらく学校に来てなかったから」
治の隣に座る。お尻がひんやりとし、髪の毛の先まで震えが走った。澄み切った空から白い日差しが差してきているとはいえ、今は二月だ。外に放置されたポリエチレンは氷のような冷たさを帯びていた。
「治くんは寒くないの?」
「狐やからな。人間姿の時より暖かい気ぃ、するわ」
「えぇー、そうなんだ。凄いね。でも、私が治くんを見かける時、いつも治くん狐姿なんだけど、本当にそれ大丈夫なの?」
「何が?」
「だから、その……人に見られたりとか……授業中でも、先生が歩いてきたりとかするんじゃないの?」
あぁ、とこぼした治は意地悪く笑ってゆらゆら尻尾を泳がせた。
「大丈夫やで。狐のままおんのはナマエちゃんの前でだけやから。普段は誰かがこっちに来てたら、すぐ人に戻っとる」
「そうだったんだ……」
それなら大丈夫か、と納得はしたが、あれ? と不思議に思う。
「誰が来てるかなんて、ここからじゃ見えないから分からないんじゃないの?」
ここは自動販売機に隠れて視界が悪い。ナマエが自動販売機を越えるまで治の姿が見えないのと同じで、治からも誰が来ているかは、その人物が自動販売機を越えるまで分からないのではないだろうか。しかし、近づいてきた人物が自動販売機を超えてから人に戻っていては手遅れだ。
どうして、治は見える筈のない自動販売機の向こうからナマエが来ていると分かり、狐のままでいられるのだろうか。
治はナマエから気まずそうに視線を逸らした。そして、そっぽを向いたまま口を開く。
「それが分かるねん。正確に言うたら、ナマエちゃんが来る時だけはちゃんと分かる」
「えっ? なんで?」
「人によって足音の音の感じとか、それが鳴るリズムとかがちゃうねん。ナマエちゃんのはもう覚えとる」
「えぇー、いつの間に……知らなかった……」
それに、そんなことを言われてしまうと、自分の足音が気になってしまう。もしかしたら、自分の足音は他の人よりがさつなのだろうか。
どうせ治のことだから、この後、ナマエちゃんの足音は大きいからなぁって、揶揄うのかと思ったのだが、治は拍子抜けしたような顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや……その、自分が特別とか思わんの?」
やっぱり来たか。ナマエは頬を膨らませる。
「どうせ、私は落ち着きがないですよ」
べっと舌を出してやりたい気持ちで答えると、治は項垂れるように揃えていた前足に顔を埋めた。
「侑の気持ちがちょっと分かってもうたわ……」
「え? なんのこと?」
「今度教えたる。今は受験勉強頑張り」
そう言うと、顔を上げた治は、いつもナマエを揶揄う時にする表情を浮かべた。
「今余計なもんを頭に入れて、代わりにこれまで頑張って詰め込んできたもんを追い出してもうたらあかんしな」
心配してくれているのは嬉しいのだが、ちょっと馬鹿にされているような気がした。一つや二つ新しい知識が入ったところで、大切な公式がロケット鉛筆のように頭から飛び出したりはしないのだ。治のいらない配慮にありがと、と返しておいたが、その言葉は素気なくなる。しかし、治は気にする素振りもなく、機嫌よさそうに尻尾を揺らしていた。
「ナマエちゃんは、大学どこ志望なん?」
県外の大学を志望していたので、その旨を伝える。治はポカンとした。
「……大丈夫か?」
今度は、ナマエの方が、何が? と首を捻る。
「一人暮らしになるやん。ナマエちゃん一人暮らし大丈夫か?」
あぁ、そのことか、と納得する。
「大丈夫だよ。大学の寮に入る予定だから」
「まぁ、そらそうなるわな。それならご両親も安心やろ」
治の口の端を上げられるが、ナマエの唇は尖っていく。
やっぱり治に馬鹿にされているような気がした。
「私だって一人暮らしできるよ」
「分かっとる、分かっとる。寮に入ってくれたら、俺も安心やってだけの話や」
「それはどうも。心配してくれてありがと」
不貞腐れながら答えると、本日、最初のおもろいな、を頂いた。何も面白いことを言っていないのに。心の中でそう呟いた声が聞こえたのだろう。この後吹き出されるまでがもう一連の流れとしてできていた。
だけど、最初からそれに対して、嫌な気持ちを抱いたことはない。最近は笑顔を返してしまうほどである。
すると、四限目の終わりを告げる終鈴が鳴った。治はぽんと音を立てて人の姿に戻り、ナマエも立ち上がった。
「そろそろ行くね。あまりサボってちゃダメだよ」
ナマエちゃんも受験勉強頑張ってな、と言う治に手を振り、ひらひら手を振り返してもらえると、治とは別れ、裏口へ向かった。
それからの日々は図書館で勉強ばかりだった。やらねばならぬことも勉強しかないので、ひたすら勉強に打ち込んだ。その甲斐あってか、二次試験はなかなかの手応えがあった。しかし、結果発表の日まではドキドキしながら過ごし、結果発表の日は、心臓が胸から飛び出しそうになるのを押さえながら、スマートフォンの画面を覗いた。ネットで合否が見られるのだ。手元にある受験票に書かれた番号と画面の中で表示されている番号を照らし合わせ、その結果に、ようやくホッとしたのだった。
暫く寒い日々が続いていたが、その日はコートもいらないくらいに暖かい日だった。空も気持ちよく晴れ渡り、校舎を囲む木々も春が来たと言わんばかりに満開の桜を咲かせ、卒業するナマエ達を祝っていた。
「ほな、うちらは部活の後輩のところに行ってくるわ」
「うん、また後でね」
卒業式が終わった時のことだった。昇降口から校門までの広場を生徒達が埋め尽くしており、それぞれが仲間との別れを惜しんでいるようだった。先程まではナマエもその集団に混ざって、友人達と写真撮影に勤しんでいた。卒業式と書かれた看板を背景に証書が入った筒を掲げ写真を撮ったり、恩師を挟み写真を撮ったり、一通り笑って、泣いて、としたので、友人達は部活の仲間に合流するとのことだった。ナマエは、人混みに紛れていく友人達の背中を見送り、踵を返した。友人達とは異なり部活にも委員会にも属していないため、所在がなく教室に戻ろうと思ったのだ。この後クラスの皆とのカラオケ大会が控えており、その待ち合わせ場所が教室だった。
ざわざわと騒々しい人混みを抜けていく。
「ナマエちゃん!」
後ろから侑の叫び声が響いた。振り返ると、道ができたように割れた人混みの先で侑が踏ん張るように立っていた。周りにいる生徒達は何事かというように侑とナマエとの間で首を往復している。
そういえば、侑達など仲良くなったバレー部の後輩達とまだお別れをしていなかった。部活や委員会といったような確固たる繋がりがあったわけではない彼らにわざわざ挨拶に行くのもなぁ、と遠慮をしていたので、声をかけてもらえて嬉しかった。でも、周囲から注目を浴びていてちょっと恥ずかしかったので、慌てて侑の元にかけ寄った。
「声かけてくれてありがとう」
侑の前に立つと、侑は緊張した面持ちできつく唇を結んだ。それから暫く、顔を青くしたり、赤くしたりを繰り返し、呼び止めてくれたというのに、いつまで経ってもそのきつく結ばれた口からは言葉が出てこなかった。いつも会えば、陽気な様子で頭をポンポン撫でられていたので、ちょっと心配になる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫や……」
侑は自分を落ち着かせるように、ふぅ、と長い息を吐いた。息が切れると、今度は大きく息を吸い胸を膨らませる。そして、目をぎゅっと瞑ると、真前に立つナマエに向かって叫んだ。
「俺、ナマエちゃんがす――」
「ミョウジさん、卒業おめでとう」
侑を割って入ってきたのは角名だった。突然現れた角名にちょっとびっくりしたが、ありがとう、と返せば、角名はニコッと笑う。
以前、角名にはドキッとさせられたことがあったが、その後も会えばこうして飄々と話しかけてくれるので、角名との間に変な空気が流れることもなく、いい友人同士のままでいた。
そんな角名にもちゃんと別れの挨拶ができそうだ。よかった、と安心していたら、侑が先程言い損ねた言葉をぶつけるように角名に向かって叫んだ。
「角名! 今のわざとやろ!」
「何が?」
「何がってなんやねんそのスカした顔! ほんま腹立つな!」
ナマエは二人の話す内容がまるで分からなかった。置いてけぼりを食らったような気分で首を傾げていると、侑は、まぁ、ええわ、と言いナマエに向き直る。
「ナマエちゃん、あんな、」
「あっ!」
次に侑を遮ったのはナマエだった。それどころではなかったのだ。侑達の後ろの方で、犬でも猫でもない黄金の小動物が人混みを駆けているのが見えたのだ。きっとあれは狐で治に違いない。何度もその姿を見てきたから、遠目でも間違えようがなかった。
狐の周囲にいる生徒達は足元を走る狐に気づいていないのだろうか。別れに夢中になっているからだろうか。しかし、それも時間の問題だ。いつかは誰かが動く毛玉に気づき、立派な耳とふさふさした尻尾に、狐や! と大きな声を出すだろう。そうしたら、治は好奇の目に晒され、挙句皆に追いかけ回されるのではないだろうか。こんなところを狐が走っていていいわけがないのだから。
はらはらしながら、人混みを縫っていく狐を見ていると、突然立ち止まった狐はこちらをチラッと見て、挑戦的に口の端を上げる。かと思えば、また、生徒達の中を走って行く。治が何を考えているのか分からなかったけど、とにかく、皆に見つかる前にあの狐を回収しなければ。
「ごめん! 後でまた話そ!」
侑達の返事を聞く前に黄金の狐を追いかけた。
突然走り出したナマエを、ポカンとしながら見送った侑は、はっと我に帰る。
「お前のせいでナマエちゃん行ってもうたやん!」
「いや、あれは治のせいでしょ」
はぁ? 何でここでサムが出てくんねん、と思いながら、ナマエが向かった先に目を凝らせば、彼女の前を走る黄金の尻尾が見えた。
「あいつ! クソサム! ナマエちゃんを横取りしやがって! 覚えてろよっ!」
口ではそう言ってみたが、走り去るナマエの後ろ姿を見ていると、なんとなく、ナマエのその姿が先程ナマエに伝えようとした思いに対する彼女の答えのような気がした。キュッと唇を結び、下ろしていた手に拳を握る。でもやはり言わずにはいられなかった。
「クソサム! 覚えとけよっ!」
「うるさいんだけど」
「元はと言えばお前がさっき邪魔したせいやろ!」
「はぁ? 知らねーよ」
ナマエの前ではニコニコ笑っていたくせに、突然、不機嫌になった角名はゆるりと足を伸ばす。きっとバレー部の元へ戻るのだろう。仕方がないので、侑も戻ることにした。
「ついてこないでくれる?」
「お前が俺についてきてんやろ!」
「だからさっきから耳元でうるさいんだけど」
そんな軽口を叩き合いながら暫く歩いていたが、やがて、二人して項垂れると、同時に大きなため息を吐くのだった。
黄金の尻尾を追いかけて走っていけば、いつのまにか人混みを出ており、いつも治と会う場所、体育館の横にある色褪せた青いベンチの前に到着していた。周囲には誰もおらず、もう治を回収するために彼を追いかける必要もなかったのだが、どうしてか、追いかけてここまできてしまった。
もしかしたら、ちゃんとお別れを言いたかったのかもしれない。きっと、もう、会うことはないのだから。
そう思うと、胸の奥が締め付けられた。
ベンチの前で、ナマエを待つようにお座りをしていた治は、ナマエが追いつくと、ぽんと音を立て白煙を立てる。風が白煙を吹き去ると、人の姿をした治が現れた。
「おさむ、くん……やっと、追いついた……」
「そんな息切らして、ちょっとしか走ってないやん。運動不足やな」
「しょうが、ないよ……受験生、だったんだから……」
膝に手をついて腰を折っていたら、銀の髪を煌めかせる彼はニヤニヤ笑う。次第に呼吸が落ち着いてきたので、直立してナマエは尋ねた。
「なんで狐姿であんなところ走ってたの?」
「何でやと思う?」
質問を質問で返されると困ってしまうのだが、何でだろうか、と一応考えてみる。
もしかして、お腹が空いてしょうがなかったからとか? と思い、いやいや、まさかそれだけで、危険を犯すような真似はしないだろうと考え直す。それに今、治は人の姿で立っている。お腹が空いていたからという線は無さそうだ。
そういえば、治はナマエと目が合うと悪戯っ子のような顔をしていた。
「もしかしてまた揶揄ったの!?」
「そうやなぁ。ナマエちゃんはおもろいからなぁ」
なんだかスッキリしない曖昧な返事をした治は、ケラケラ笑い、追いかけてきてくれてありがとうな、と言った。軽くそう言われたわりに、その響きがやたら穏やかで、なんだかドキッとしてしまう。すると、治に真っ直ぐに見つめられた。
「前ここでおうた時、教えたるって言うてたことあったやろ」
前にここで治と会った時のことを思い出す。
確か、共通テストを終え二時試験を受ける前のことだった。
ナマエちゃんはアホやから、大事な受験前に何か新しいこと知ってもうたら、代わりに頭に入っとる公式を全部忘れてまうやろ。みたいなことを言われた気がする。いや、これは少し被害妄想が入っているか。流石にそんな酷いことを言われてはいないだろう。自分で突っ込んでちょっと笑ってしまう。だけど、ふと治が真剣な顔をしたので、ナマエも身が引き締まった。
何か大切なことを言われる気がする。
シンと静まり返った場所で緊張感に包まれる。ごくりと喉を鳴らすと、治は口を開いた。
「俺にとってナマエちゃんは特別やねん」
そう言うと、治はガバッと直角にお辞儀をして手を差し出した。
「俺の漫才の相方になってください!」
「え? あ、え?」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。差し出された治の手を取って良いのか、どうなのか。いや、ダメでしょ。漫才なんてできないよ。
治はさっきの言葉を本気で言ったのだろうか。それともいつものように揶揄われているだけなのだろうか。よく分からなかったけど、とりあえず頭をあげて欲しい。しかし、混乱した頭では言いたいことをうまく言語化できず、ただ、やめてよ、と思いながら、忙しなく両手を振った。すると、上目でこちらを見上げた治は、焦っているナマエの顔を見て、にっと笑う。
「冗談や」
「なんだ、冗談か……良かった……」
ホッとしたのも束の間。頭を上げた治に腕を握られる。そのまま引っ張られ勢いよく体を寄せられたかと思えば、上から顔を覗き込まれた。その距離、十センチ。
「ナマエちゃんが好きや」
力強く言われて、今度は固まってしまう。
治の後ろでは、どこから飛んできたのかヒラヒラ、桜が舞っていた。
「えっと……今、なんて?」
「せやから、好きやって。いつも一生懸命で可愛くて、真っ直ぐで可愛くて、ちょっとアホやけどそこも可愛いナマエちゃんが好きやって言うてん。俺と付き合ってくれ」
ちゃんと治の言葉は頭の中に入ってきて、意味もちゃんと理解できていたけど、本当に理解できているのかよく分からなかった。え? と首を傾げると、これは冗談とちゃうで、と笑われる。
「え?」
「そのボケはおもんないで」
「でも……え?」
「いつまでそれやんねん。だから好きやって言うてるやん」
そう言うと、治は、ナマエを真っ直ぐに見ていた瞳を僅かばかり横にずらし、頬を赤らめた。その瞬間に、治の言葉を今度こそちゃんと理解できたような気がした。ナマエの顔も熱くなっていく。
自分は治のことをどう思っているのだろうか。
治の朱に染まった頬を眺めながら考えた。
治にはいつも揶揄われてばかりで、自分はそれに反発してばかりで、でも、テンポ良く進んでいく治との会話が楽しかった。やりたいことがないと下を向いていたら、励ましてくれたこともあった。そのあともやっぱり揶揄われたのだけど、治と一緒にいたらいつも笑っていられた。きっと、このまま卒業してしまえば、もう二度と治と会うことはないのだろう。そう思うと、胸の奥が苦しい。もし、このまま治と一緒にいられたのなら、どうだろうか。きっと、毎日が楽しくて、人生百年時代と言われた長い時を、辛いことも悲しいことも沢山あるのだろうけど、やっぱり笑って過ごすことができるのだろう。
そんな人生は素敵だと思う。
「私も、治くんのこと。好きだよ」
はにかみながら胸に温かく溢れた思いを伝えた。
すると、瞳を見開いた治は、ナマエに向き直り、口の端を上げる。ちょっと意地悪だけど少年のような可愛い笑顔だ。
「ゆうたな」
更に腕を引かれたかと思えば、治の腕の中にいた。背中に回された腕できつく抱きしめられる。お花のような匂いに包まれた。
「俺にこうさせるんは嫌か?」
心臓はドキドキとうるさかったけど、春のひだまりの中にいるような気持ちになった。
「ううん、嫌じゃないよ」
ナマエも治の背中に腕を回すと、さらに力強く抱きしめられた。