番外編


※北の幼少期を捏造。

 辛い時も苦しい時も涙はこぼれないのに、その手の温もりに触れた瞬間、涙がぼろっとこぼれた。
 心はポカポカと温かいのにどうしてか胸の奥がキュッと締め付けられる。
 この気持ちはなんなのだろうか。少年はまだ知らない。

「やっぱりばぁちゃんも行こかな」
 祖母が玄関の上がりかまちから、つっかけへと足を伸ばそうとするので、先に靴を履いていた北は、ええよ、と断った。
「ばぁちゃん膝痛いんやし。俺一人で大丈夫や」
「そうは言うてもなぁ。信ちゃん一人やとなぁ」
 悩ましげにそう言った祖母はふしくれだった手を頬に当て小首を傾げる。北は下ろしていた手に小さな握り拳を作った。
「大丈夫や。スーパー行って豆腐買ってくるだけやろ。一人で行ける」
 もうすぐ、小学生になるんやし。
 そう思うと、それが初めてのお使いであってもなんでもできる気がした。しかし、祖母は、なかなか豆腐の代金が入った小銭入れを渡してくれないのだ。豆腐がなければ、今晩の豆腐ハンバーグを作れないというのに。
 先ほど、冷蔵庫の扉を開けて、やってもうたわぁ、どないしよかなぁ、豆腐がないとなぁ、と独りごちた祖母に、どないしてん、と事情を聞いた北が、俺が行ったる、と提案したのだ。ばぁちゃん膝痛いんやし、俺が代わりに豆腐買ってきたるわ、と。
 祖母は、信ちゃんは優しいなぁ、ありがとう、と言ってくれたのだが、玄関で北が上がりかまちに腰掛け小さな背中を丸めながらスニーカーを履いている姿を見ると、不安になったのか、手にしていたがまぐちの小銭入れをなかなか渡してくれないのだった。
 上がりかまちから北を見下ろしていた祖母は、せや、と顔を上げた。
「もうすぐ姉ちゃん帰ってくるやろ。五時には友達ん家出る言うてたさかい。姉ちゃん帰ってくるの待って姉ちゃんと行ったらええわ」
 祖母と北は玄関に置かれていた置き時計を覗く。短い針はまだ、四と五の間にいた。長い針は下を向いている。北はまだ小学生ではないが、時計の見方を祖母から教わっていたので、それが四時半を示していることは知っていた。
「姉ちゃん待ってたら、晩飯作るん遅なるやろ。スーパーは何回も行ったことあるから一人で行ける。豆腐もどこに置いとるか知っとるし。大丈夫や」
 何も不安はない。そのことを伝えるべく、真っ直ぐに祖母を見つめた。難しい顔をしていた祖母だったが、北の決意が伝わったのか、ふわっと表情を緩めた。
「ほな、お願いしよかな。真っ直ぐ行って真っ直ぐ帰ってくるんやで」
 北はコクリ、と頷き、祖母からがまぐち財布を受け取った。しっかりとショートパンツのポケットの奥の方に仕舞い込む。
「ほな、行ってくるわ」
「気をつけてな」
 再び、コクリ、と頷き、頭の高さにある取手に手をかけ、ガラガラとスライド式の扉を開けた。
 夕暮れ前だが、空はまだ青い。家の前に植えられていた満開の桜がヒラヒラと花弁を落とし、淡いピンクは北の鼻先を撫でて行った。

 スーパーへは、祖母が膝を痛める前に、祖母と何度も行ったことがあるため場所はちゃんと分かっていた。住宅街の道を十五分ほど歩けばいい。裏道をくねくねと曲がっていけば最短距離で行けるのだろうが、祖母とはいつも直線的な道で行っていた。万が一はぐれても北が迷わないように曲がり道の少ない簡単な道を選んでくれていたのだろう。その行き慣れた道を迷うことなく進んでいった。何も不安はなかった。しかし、心配そうに見下ろす祖母の顔を思い出すと、早く帰ってやらねば、と思う。気がつけば、早足になっていた。早く、早く、と足を進めていた。
 それは順調にスーパーへの道を半分進んだ頃のことだった。駆け足のように忙しく動かしていた右足が地面に引っかかる。あ、と思った時には視界は傾き、宙に体を投げ出していた。全身を地面に叩きつけられる。もし、隣に祖母がいたら、祖母は信ちゃん! と大きな声を出していたことだろう。そんな祖母に心配をかけないように、いつもだったら、何食わぬ顔で、平気や、と言って一人で立ち上がっていた。でも、いつもと違って、腹ばいになったまま起き上がれずにいるのは、一人の道で転んだら、こんなにも痛いなんて知らなかったからだ。両手と膝が焼けるようにじんじんと痛い。腹にも鉛を落とされたような鈍い痛みがあった。鼻の奥がツンとしてきて、視界が潤みだす。腰の辺りもウズウズしてきた。人間姿でいる時には感じるはずのない尻尾の感覚だ。気を抜いたら狐になってしまいそうだった。ぐっと唇を噛んでこらえる。なんとか、立ち上がることができた。両手についた砂を払って、トレーナーのお腹の辺りも払って、膝も払おうかと思ったけど、そこに触れることは躊躇われた。猫に引っ掻かれたような擦り傷ができていたからだ。真っ赤な血が滲んでいる。これは帰ってから家で洗おう。そう思って再び歩き出した。だけど、手のひらはまだ痛いし、怪我をした膝はもっと痛い。すぐに着くと思っていたスーパーが急にはるか遠くに感じ始める。気がつけば立ち止まり、地面に視線を落としていた。そのまましゃがみ込んでしまいたくなる。相変わらず、腰の辺りはソワソワとしていた。ポンと音が鳴っちゃいそう。
 こういう時、普段は考えもしないことがふと頭を過ぎる。
 どうして自分は狐になってしまうのだろうか、と。
 昔から、祖母は、口をすっぱくして言っていた。
「人前で狐になったらあかんで」
「なんで? 別に悪いことやないやん」
 それは北が幼稚園に入園したばかりの頃だった。
 北の率直過ぎる質問に、祖母は面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。北よりも大きくて、柔らかくて、温かい手が北の丸い頭をそっと撫でる。祖母にこうして撫でられると、いつも北は眠くなってしまう。安らかな心地に身を委ねたくなるのだ。祖母は子守唄を歌うように言った。
「普通の人は狐にならんから、信ちゃんがいきなし狐になったら、びっくりしてまうねん。信ちゃんも急に驚かされるんはいややろ?」
「いやや」
「信ちゃんがいややったら、他の人もいややねん。人のいやがることをしたらあかんっていつもお母さんに言われとるやろ。それとおんなじや。せやから、人前で狐になったらあかんで」
「……分かった」
 そう返しては見たものの、心の中にモヤモヤとしたものがあった。人前で狐になったらあかんという理由は分かった。ちゃんと納得のいくものだった。しかし、人に狐になることを隠さなければならないのだ、と思うと酷く窮屈に思うのだった。それはとても孤独な道なのではないだろうか。新月の晩は北の意思に関係なく狐になってしまう。つまり、月の見えない暗い夜は誰かと隣り合って座り体を預け合うことができないということだ。
 北が俯いていると、祖母はまた北の丸い頭を愛おしそうに撫でた。
「心配せんでええ。信ちゃんはええ子やから。いつか信ちゃん可愛ええなぁって抱っこしてくれる子に出会えるやさかい」
「別に俺は抱っこされたないよ。赤ちゃんとちゃうし」
 その時はそう答えたけど、例えばこうして一人で転んでしまった時、何も考えず狐になって、痛かったなぁ、泣かんで偉かったなぁ、と大きな腕に包んでもらえると心地がいいのではないだろうか、と考えてしまう。
 慌てて首を振った。そんなことを考えてもしょうがないのだから。
 人前で狐になってはいけないし、狐になってしまったとしてもここに狐になった北を抱いてくれる人はいない。いくら願ってもその事実は変わらないのだ。早くスーパーへ行こう。今頃、祖母は耳をそば立てて玄関の扉が開く音を待っていることだろう。もしかしたら、家の外にまで出て道の先まで見通そうと首を長くしているかもしれない。早く帰ってあげなくては。そう思って顔を上げた時。
「大丈夫?」
 聞きなれないイントネーションに声をかけられた。自分と同じ年くらいの少女が不思議そうな顔で北の顔を覗いていた。
「お膝、痛そう。さっき転んでたもんね。大丈夫?」
 無様に転けて、必死に立ち上がり、あまつさえ泣きそうになっていた今までの自分を全てこの少女に見られていたのかと思うと、顔がかぁっと熱くなっていく。
「だ、大丈夫や」
 心配してくれたのに、ぶっきらぼうに返してしまう。しかし、少女は北の素っ気ない態度を気にする素振りもなく、心底安心したように、よかったぁ、と返してきた。さらには、頭を撫でてきた。よしよし、と言いながら。自分は何をされているのだろうか。突然のことに、何も言えないでいると、年端のいかない少女が包み込むように言った。
「泣かないで偉かったねぇ」
 どうしてだろうか。祖母に頭を撫でられている時のような穏やかさが胸に溢れてくる。一気に緊張が解けていくのが分かった。すると、目頭がじわりと熱くなる。なぜ、涙が溢れるのだろう。辛くもないのに。苦しくもないのに。泣いたらダメだ。そう思えば思うほど涙が溢れて、頭を撫でられる感覚が気持ちいいと思う。初めて会う少女だというのに、抱きつきたくなって、気がつけば、ぼろっと涙がこぼれていた。
「え? 大丈夫?」
「別に泣いてへん」
 そんなこと聞かれていないのに答えてしまう。慌てて涙を拭えば、また、よかったぁ、と笑う顔。どうしてか、胸が苦しい。
「もうええよ。頭撫でるん。もう平気やから」
「そっか。よかったぁ」
 彼女の手が離れると少し寂しいと思う。自分からもうしなくていいと言ったのに。
 常に正反対の感情が自分を左右から引っ張っている。不思議な気分だったし、感情をうまくコントロールできないことは少し不服だった。だけど、手のひらの痛みも膝の痛みも魔法にかかったようにすっかり消えていて、やっぱり不思議な気分だった。
 満足げに笑う彼女は転けた後いつもこうして頭を撫でられているのだろうなぁ、と思っていると、彼女は首を傾げた。
「どこいくの?」
「スーパー。お使い頼まれてん」
「すごーい」
 目をまん丸にして驚かれて少し照れ臭い。
「別にすごないよ」
「すごいよ。私お使い頼まれたことないもん」
「別に普通や。豆腐買って帰るだけやし」
「すごーい」
 また少女は目をさらにする。
「お豆腐って二種類あるんだよ。私お母さんとお買い物行った時、よく間違えてカゴに入れちゃうの」
 二種類? と北は首を傾げる。北の行くスーパーには二種類と言わず、もっと沢山の豆腐が並んでおり、少女の言う二種類がどれとどれを指すのか分からなかった。しかし、何も問題はないだろう。豆腐ハンバーグを作る時に買う豆腐のパッケージはちゃんと覚えている。
「大丈夫や。緑のんを買ったらええだけやし」
「すごーい」
 目も口を縦に丸く伸ばす少女を見ていると、ぷっと笑ってしまった。すると、少女も釣られるように、ニコッと笑った。
「自分は? どこ行くん?」
「私は公園からおうちに帰るところだったの。お母さんがおばあちゃんを連れて病院行くから、その間公園で遊んでなさいって言われて。それで公園に行ってたの。でも、もうすぐ暗くなるし、お友達も帰るっていうから、私も帰るところだったの」
 病院という言葉に子どもながらに気まずさを覚える。それが伝わったのか、少女は、大丈夫だよ、と笑った。
「おばあちゃん腰怪我しちゃったけどもうすぐ治るって」
 言い終えると少女は恥ずかしそうに体を揺らし始めた。それでね、と続ける。
「おうち帰ってたらね。迷ったの」
「それ、はよいいや。交番連れてったるわ」
「え、うん……ありがとう……」
 はにかんで笑う少女をどうしてか真っ直ぐ見れなくて、でもちゃんと連れて行かないといけないから、少女の手を握って、交番へ向かった。
 女の子の手って柔らかいんやなぁ。
 その手は想像していたよりもずっとずっと小さかった。

「おー、北さんのとこのお孫さんやん。どないしてん」
「迷子や」
 地元に密着した交番だった。北が中を覗くと、椅子に座っていた警官の男がその巨体を露わにさせた。北は警官に差し出すように少女の手を引っ張る。警官の前に立たされた少女は怯えたようにビクッと震え北の手をぎゅっと握りしめた。
「お嬢ちゃん、名前は? 言えるか?」
「ミョウジ……ナマエ……」
 さっきとは打って変わって酷く心もとなさげだった。大丈夫やで、このおっさん見た目怖いけどええ人やから、と思いながら手を握り返してやると、また痛いくらいに握り返された。
「住所は? 言えるか?」
 ナマエはふるふると首を横に振る。警官は困った様子で頭を掻いた。
「ミョウジっちゅうたら、あのミョウジさんのとこのお孫さんかなぁ。春休み遊びに来るって言うてはったしなぁ」
 ナマエが不安げに北を見るので、今度は、大丈夫やで、と言葉にしてやった。ナマエは、うん、と頷き、弱々しく笑う。
「一度、おっちゃんとミョウジさんとこ行ってみるか」
 警官がしゃがみ込み、ナマエと目線を合わせた。ナマエは、うん、と頷く。
「信介くんは一人で大丈夫か?」
「大丈夫や」
 え? 帰っちゃうの? とナマエの瞳が言っていた。ついて行ってやった方がいいだろうか。そう思ったが、ナマエは、またね、と笑った。本当はナマエについて行ってやりたかった。しかし、家で待っている祖母のことを思うと、早く帰ってやりたくもあった。ナマエが先に北の手を離したので、北も手を離した。
「またな」
 そう言ってお別れをしたが、ナマエと名乗った少女と再び顔を合わすことはなかった。

 時は巡り、あの日の出来事も、あの日に出会った少女のことも忘れた頃、その女子生徒は緊張した面持ちで黒板を背にして立っていた。
「ミョウジナマエです。よろしくお願いします」
 はにかむように笑ったその笑顔が少し懐かしいと思った。でも、どうして、そんなことを思うのか分からなかった。分からなかったが、右手が疼いて、その手を開いては閉じてを繰り返して眺めていた。そういえば、いつかもそれをしながら、道を歩いたことがあった。あの子の手、柔らかかったなぁ。そんなことを思いながら。でも、いつのことだったか思い出せない。そもそもあの子とは誰だろうか。思考を巡らせていたら、隣の空いていた席に、ナマエと名乗った女子生徒が座った。目が合うと、パッとかわされた。多分、怖がられている。北の仏頂面には定評があった。怒っているとよく勘違いをされるのだ。別に怒ってはいないのだが、それをアピールするためにわざわざ笑顔を作る必要もない。そのうち彼女もこれが北の通常運転だと分かってくれるだろう。
 ナマエはすぐにクラスメートと打ち解けたようで、朝のホームルームが終わると、彼女の席には人だかりができていた。
「どこから来たん?」
「なんでこのタイミングなん?」
「どこ住んでるん?」
 人それぞれ事情があるのだから、そんなに、根掘り葉掘り聞かなくてもいいだろうに。隣で座っていて北はそう思ったが、ナマエは質問一つ一つに丁寧に答えていた。悪い子ではないのだろう。さっきは怖がられてしまったけど。
 一限目は英語だった。授業が始まると、教壇に立った教師は、教科書ではなく、参考書を開くように言った。二年の時から使っているものだった。隣に座る子が明らかにそわそわしだす。どうしたのだろうか。彼女の方を見ると、彼女の机には教科書とノートしか乗っていない。そういうことか、と気づき、声をかけた。
「教材まだ全部揃ってないんやろ」
 こちらを向いた彼女は驚いたような顔をしたが、すぐに力が抜けたように頬を緩ませた。
 どうやら、北も打ち解けられたらしい。顔に出やすい子やな。おもろいな。そう思いながらナマエと机をくっつけた。
 なんとなく、祖母の言葉を思い出す。
 いつか信ちゃん可愛ええなぁって抱っこしてくれる子に出会えるやさかい。
 あの頃は、赤ちゃんやないから抱っこなんていらん、と思っていた。今も特に抱っこされたいなんて思わない。でも、何も考えず狐になれて、その姿を可愛いと言って抱きしめてくれるような子に出会えたら素敵だと思う。
 そんな子、おるとは思わんけど。
 机と机をくっつけて、参考書を二人の間で開いて、音楽のようにも聞こえる教師の英語に耳を傾けた。授業の途中で、声が聞こえてきたわけではないのだが、隣で唸っているような気配を感じる。隣を盗み見ると、ナマエが難しい顔をして首を捻っていた。分からないのだろうか。やっぱり、思っていることが顔に出るおもろい子や。後で教えたろう。
 ノートの板書していたところに印をつけた。後で見た時にナマエが首を捻っていた箇所が分かるように。
 知らず知らずのうちにふふっと笑っていた。
 それは北もナマエも忘れてしまったあの日と同じ、桜咲く季節のことである。