白……いや、光沢のあるこの色は白銀だ。これは月だろうか。
 ぼんやりとしたナマエの視界がはっきりしていく。
 いや、月ではない。毛だ。毛。毛? なぜ白銀の毛?
 ナマエの意識が覚醒する。背中や後頭部に固い感触。ナマエは横たわっているのだろうか。
「やっと起きたか」
 茜色の空を背景に白銀の獣がこちらを覗き込んでいた。
「北っくん……、ですよね?」
「なんで敬語やねん。そうや、北や、北。北信介や」
 北はそう言ってくっくっと喉を鳴らす。どうやらナマエは仰向けで横になっていたようだった。ナマエは手をつきながら上半身を起こす。そして、隣に座る獣に視線を移した。
「本当に北くんなの?」
「ほんまに北や」
 北は再びくっくっと笑い、優しげに瞳を細める。夢じゃなかったんだとベタなことをナマエは考えながら、祖母の言葉を思い出す。
 この街はな、昔から狐の神様が遊びにくる街やぁ、言われとんねんで。
 北は一般に見る黄金色の狐と違って白銀だが、狐に見えないこともない。
「北くんは神様なの?」
「いや、だだの狐や」
 白銀の時点でただの狐じゃないし、それが人に化けるとなると更にただの狐から外れてしまうんだけど。とは、口に出さなかった。
「他の人に狐の姿見られたことある?」
「いや、ミョウジさんが初めてや」
「なんかごめん」
「別にええよ」
 北はさらりという。そして、気ままな猫のように後ろ足で頭をかいた。
「なんで? 私が他の人に言ったらとか思わないの?」
「他の人間もほんまに人間や思とるんか?」
 北の優しく細められていた目に再び鋭さが宿る。
「あ……」
 と、こぼしたナマエの背筋は再び凍りついた。しかし北はぷっと吹き出し、瞳を柔らかに細めた。
「冗談や、冗談」
 なんだ冗談か。そりゃそうだよねと、ナマエは納得した。人に化ける狐がほいほい現れたら世の中もっと凄いことになっている。
 ナマエが安堵の息をつくと、北はくっくっと笑い、続けた。
「他の人間に言うたところで誰も信じひんやろ」
「確かに……」
 ナマエの緊張がすうっと抜けていく。北は穏やかな笑みをこちらに向けていた。改めて北の姿をじっくり見ると、その体はたんぽぽの綿毛のようで、緊張が溶けた今。どうしてもこの衝動がナマエをくすぐった。
 だめかな? でも聞くだけならいいよね、とナマエは意を決して、口を開く。
「触ってもいい?」
「ええよ」
 あっさりと答えられた。
 ナマエは恐る恐る北の背中に触れる。柔らかい。とても柔らかい。綿のような羽のようなふかふかした感触にナマエの手が沈んでいく。そして、撫でてみる。北が気持ちよさそうに目を細めた。可愛い。
「頭撫でてもいい?」
「ええよ」
 ナマエの手の平くらいの頭に触れる。撫でると北はナマエの手に頭を擦り付けるように首を傾げた。可愛い!
 北の周りに沢山のピンクのハートマークが浮いているように見えたナマエは犬や猫を抱えるように、北を抱き上げ胸に抱きしめる。そっと優しく、だけど、ぎゅっとする。更に頬擦りもする。可愛い。可愛い。可愛い。
 ナマエが夢中になっていたその短な時間。
「ミョウジさん」
「何?」
「降ろしてもらわれへんかな」
 北のこの一言で終了した。
「あ、ごめん。嫌だったよね」
 ナマエは慌てて北を地に降ろす。
「そうやなくて」
 地に足を付けた北は躊躇う様子で続けた。
「こんな身なりしてるけど、一応、男、やからな」
「あ、あぁっ! そうだよね、ごめん」
 確かに男の子なのに、女の子に抱き抱えられるのは恥ずかしいだろうとナマエは理解する。
「いや、俺の方こそ悪かった」
 北は小さな頭をちょこんと下げた。

「そろそろ帰ったほうがええんとちゃう?」
 北の言葉にナマエが空を見上げると、いつの間にか空は地平線に僅かな赤みを残して薄青から暗い濃青へと変わり頭上を伸びていた。
「そうだね。お話してくれてありがとう」
 ナマエは地面から立ち上がりお尻を叩いて砂を落とす。
「俺の方こそ……なんていうたらええんかな」
 そう言った北は一度俯くが、再び顔を上げた。
「怖がらんといてくれて……ありがとうな」
「そんな怖がるなんて! 北くん可愛いもん。全然怖くないよ!」
「それはそれでちょっと複雑やな」
 そういいながらも北は嬉しそうに微笑えんだ。
「じゃあ、帰るね」
「送るわ」
「大丈夫だよ。一人で帰れるし」
「こんな暗いのに女の子一人で返されへんよ」
 北はそう言ってナマエの前に立ち、先に広場を抜ける道へと進む。ナマエは天秤にかける。北に対する申し訳ない気持ちと、もっと北と話したいという気持ちと。勢いよく後者に傾いた。
「じゃあ、お願いします」

 神社、だったのだろうか。あの小さな社がある広場から住宅街へと出る道を通り、ナマエの家へ向かってナマエと白銀の小さな獣が並んで歩く。ナマエの歩幅に合わせ、白銀の小さな足は忙しなく動いていた。
「人に戻らないの?」
 ナマエは隣をちょこちょこと歩く北を見下ろす。
「今晩は新月やからな。今日はもう化けられへんねん」
 ナマエが空を見上げるとすっかり黒く塗りつぶされており確かに月は見当たらない。代わりに星がキラキラと瞬いていた。
「やろう思たらでけへんこともないんやけど、すぐ狐に戻ってまうねん」
「そんな縛りがあるんだ」
「縛りって」
 北がぷっと吹き出した。
 そういえば北はナマエの前で狐に姿を変える前、時間切れと言っていた。その時間というのは人の姿でいられる時間のことだったのかもしれない。それでも北はナマエの前に姿を現した。不気味な場所に震えるナマエを心配しての行動だったのかもしれない。
「北くんは優しいね」
「文脈おかしない?」
「おかしない、おかしない」
 ナマエが笑いかけると、北は白銀の頬を僅かに桃色に染めそっぽを向いた。
 
 そして、到着したナマエの自宅前。
 ナマエは家のブロック塀にぴょんと飛び乗った北に礼を言い、背を向けた彼に手を振る。その走り去ろうとした北の背中を見た時。ふと、不安が過った。
「明日も、ちゃんと会えるよね?」
 背中に呼びかける。北は顔だけをこちらに向けて言った。
「ミョウジさんがちゃんと学校に来るんやったらな。明日も明後日も。その先もずっと会えるよ」
 思わず嬉しくなる。
「じゃあ、また明日」
 ナマエがそういうと、北は前足を上げ、ピンクの可愛らしい肉球をこちらに向ける。そして、夜空の闇に向かって走り去っていった。その白銀はまるで新月の代わりに闇夜に浮かんだ月のようだった。

 翌朝のこと。
 ナマエは学校に向かって、昨日北を見かけた街路路を歩いていた。しかし、大きな一軒家の塀に挟まれた小さな社に続く道はなかった。初めから何もなかったかのように、一軒家の塀同士はくっつき、一ミリの隙間もない。鳥居から始まるあの細い道は姿形もなく消えていた。言いようのない不安がナマエを襲う。
 ナマエは走って学校へと向かった。
『明日も明後日も。その先もずっと会えるよ』
 北の言葉が頭を過ぎる。あれは、嘘、だったのだろうか。本当はもう会えないのに北はそう言ったのだろうか。
 ナマエが北の。白銀の姿を見てしまったから。
 学校についたナマエは下駄箱で北の棚を覗く。北の靴はない。学校にはまだ来ていないのだろうか。そういえば北はバレー部だと言っていた。朝練だろうか。体育館に行けば、そこに北はいるだろうか。
 慌てて体育館に向かって足を向ける。しかし、顔面に激しい衝撃。恐らく誰かとぶつかったのだ。後ろに倒れ込みそうになる体に思わず目を瞑った。瞬間、腕を掴まれる感覚。ナマエは後ろに倒れることはなく、引っ張られた腕を支えに片足を後ろに引いて、体を支える。そして、恐る恐る目を開いた。誰かが腕を掴んでいるのが見える。
「何をそんな慌てとんねん」
 降りかかる落ち着いた、優しい低い声。
「北……くん?」
「そうや。北や、北。北信介や」
 顔を上げると、北がおかしそうに笑っていた。
「何、狐につままれたみたいな顔しとんねん」
「つままれたの!」
「そういえばそうやったな」
 北はぷっと笑った。