四月の下旬。ナマエが北のクラスに転校してきて二週間ほどが経過した。その間にもナマエは二人の狐に出会ってしまった。北と侑だ。
 北はクラスメートでありいい友人。侑は会えばからかうように頭に手を置いてくるが、それでもやはりいい友人だった。
 その日の昼休み、ナマエは教室で女友達二人と共に過ごしていた。昼食を終えた彼女たち三人は顔を寄せ合い皆同じ紙を眺めている。
 ナマエの友人の一人が鬼気迫ったように喉を鳴らした。
「ついにうちらにもこの日がきてもうたな」
「ほんまやで」
「まだ実感ないよー」
「ナマエちゃんは向こうの大学行くん?」
「まだ何も決めてないよ」
 そう。彼女らが眺めていたのは進路希望調査票。受験生であることを突きつける紙だ。
「あかんわー、なんの将来のビジョンもないんに、こないなもんかけるわけないやん」
 友人たちが頭を抱えるのを見て、ナマエは笑ってしまったが、そのナマエも特段叶えたい夢やなりたい職業があったわけではなかったので、この紙を見ると頭が痛くなった。その刹那。開いていた教室の窓から春の朗らかな風が吹き抜ける。カーテンは大きくはためき、新緑の香りが運ばれてきた。
「あ、調査票!」
 ナマエが手を伸ばしたのも虚しく、彼女らが眺めていた紙は風にさらわれ、廊下まで飛んでいく。ナマエは立ち上がり追いかけるが、こういう時に限ってどの窓も全開。調査票は教室から廊下に出て、廊下の窓から中庭へと旅立ってしまった。
「取りに行ってくるね」
「うちらもいくわ」
「大丈夫、大丈夫! すぐ戻ってくるから」
 ナマエは立ち上がろうとした友人二人に手を振り、返事を聞く前に教室を出た。早く追いかけなきゃ見失っちゃう。

 三年生の教室がある三階から、近くの階段を駆け降り、廊下から直接中庭へ出られる扉を目指す。転校してきて二週間。もう慣れたものだ。中庭へ出ると、調査票の紙が向かった方へと進む。校舎に沿ってずらっと並ぶ白い花をつけたツツジを見ると、丁度ツツジの列の終わり、つまり校舎の角の手前で紙がツツジの木に引っかかっているのが見えた。見つかって良かったとナマエは走る。しかし、紙に触れようとした瞬間再び風が吹き、ふわりと舞った紙はまたしてもナマエの手をすり抜けた。
「あ、待って」
 走って追いかけ、羽根のように静かに地面に舞い降りた紙にようやく追いつき、拾うころには、校舎の角を曲がっていた。ほっと一息つき、拾った紙を綺麗に折り畳み、ブレザーのポケットにしまう。
 中庭では、所々に設置されたベンチで昼休みを過ごす生徒の姿があるが、ここまでくると、人っ子一人いない。と思い踵を返そうとして、びくりと肩を上げる。
 ひ、人が、倒れてる?
 ナマエが曲がった校舎の角を少し進んだ先で男子生徒が倒れていた。
 嘘、嘘、嘘! 先生呼びにいく? 声かける?
 困惑したナマエだったが、以前受けた救命救急の授業を思い出す。手順が書かれた黒板を指し棒で指しながら救命士の人は言っていた気がする。まずは声をかけましょうと。
 と、とりあえず状況確認だよね。
 割と冷静に頭が働くことに僅かばかりの安心感を覚え、横向きに倒れている彼に駆け寄り、彼の肩に手を伸ばす。手が触れる直前に、んんっと唸る声が聞こえて、慌てて手を引っ込めた。唸り声を上げた口はあくびをするかのようにふぁあと開かれる。
 やってしまったとナマエは痛くなる頭を、彼に触れようとした手で押さえた。完全にナマエの早とちりだった。ただ眠っていただけらしい。それにしてもこんなところで紛らわしくはないか。すると、彼の閉じられていた目はゆっくりと開きかけ、覗きかけた瞳がナマエを捉えたかと思えばその丸い瞳が全てあらわになるほど大きく見開かれた。瞬間、北と侑が狐に姿を変える時に鳴らす可愛らしいぽんと言う音が鳴った。
 ナマエがこの光景を見るのは三度目だ。北で一度。侑で一度。
 男子高生のいた場所から白い煙が上がり、煙の中から狐が姿を表す。ナマエももう、驚かない。煙の中から現れた鋭い目をした黄褐色だろうか。背中は黄色に近いキャラメルのような薄茶で前脚部分はくすんだ銀色の狐と目が合った。三秒ほど時間が止まったかのように狐と見つめあったが、狐姿を見てしまったことや寝ているところを邪魔しまったことへの罪悪感から、ナマエは何も見なかったふりをして、その場を去ろうとする。目を逸らし、顔を逸らし、しゃがんだ足を伸ばして、狐に背を向け、足を踏み出そうとした時。
「ねぇ」
 声をかけられ、びくりと肩を上がる。やっぱりそうなりますよねと振り返ると、射るような眼差しがこちらを見上げていた。
「あんたも狐なの?」
「えと、違いますけど……」
 目つきだけじゃなく、声色にも棘を感じる。その狐からは北の持つ鋭さとはまた違った鋭さを感じた。北は背筋が凍るような冷たい鋭さ。黄褐色の狐は見られたところから穴でも空いていくんじゃないかという針のような鋭利過ぎる鋭さ。だからだろうか、三年であるナマエは全ての学生は同い年か年下であるにも関わらず、敬語になる。
「じゃあその反応おかしくない?」
「まぁ」
「俺以外の狐知ってんの?」
 知ってはいるが、そうぺらぺらと話すようなことではないだろう。軽い気持ちで嘘をつく。
「そういうわけじゃ――」
「嘘」
 鋭利な刃物のような言葉で遮られた。
「えと……ですね」
 なぜ、嘘だとバレたのだろうか。
 よく考えれば人に化ける狐のコミュニティなどそれほど広いものではないような気がする。彼もきっと北と侑の知人で、彼らが狐だと知っている可能性は高い。彼らからナマエのことを聞いたのだろうか。今から白状するべきか。やはりシラをきるべきか。
 間を取るために意味のない言葉を発していると、胸元にぴょんと狐が飛び込んできた。思わずキャッチする。狐は当たり前のようにナマエの腕の中に収まっていた。しかし、この狐はあの男子学生だ。こんな可愛い身なりをしているが、先程地面に転がっていたあんなに大きな男子学生なのだ。そんな彼を胸に抱いていると考えると少し、というかとても恥ずかしい。それは以前、侑に教えられたことだった。
「何?」
「や、あの……抱っこは……」
「なんか問題あんの?」
「や、えと……ないです」
 敬語になる。押し切られる。その鋭い瞳と声色に。まぁ、今は狐なんだしいっかと苦笑した。
「あんた名前は?」
 黄褐色の体毛より黄色く僅かに緑の光を反射させる瞳がこちらを見上げる。
「ミョウジナマエです」
「俺は角名。角名倫太郎」
 素っ気なく自己紹介をされる。不機嫌なのだろうか。ナマエに狐姿を見られたからか、昼寝を邪魔されたからか。しかし、自ら腕の中に飛び込んできたところを察するに、それでもナマエに聞きたいことがあるのだろう。ずっと立ったままなのもしんどいので、ナマエは狐を腕に抱き抱えたまま、地面に座り込む。
 さんさんと降り注ぐ陽光が暑くなってきたこの時期。校舎が影を落としているこの場所は涼やかで、人通りもなく。なるほど、確かにお昼寝をするには絶好の場所だ。
「誰見たの? 侑?」
 またその話に戻るのか、とナマエは唇を尖らせる。しかもピンポイントで当てられてきた。やはり彼は侑の知人だったらしい。ここは頷くべきか、頷かないべきか。北も侑も狐姿を見られたことに対して気にするそぶりを見せないが、一般に考えると、彼らが狐であるということは隠すべきことのような気がする。例え侑と角名が知人同士であっても、人が隠していることを知ってしまったと公言することはいかがなものか。ナマエが口を一文字に結んでいると、ぷっと笑う声がした。
「分かりやす過ぎ。侑見たんだ」
 角名は笑いながら猫のように前足で鼻をかく。
 突然表情を緩められ、少しドキッとしてしまった。不機嫌ではなかったのだろうか。
 それにしても、また考えていることを見抜かれてしまった。そんなにも顔に出ていたのだろうか。
 角名は瞳を柔らかに細め、声色も柔らかに変え、尋ねてきた。
「変なことされなかった? 悪さするのが狐だからね」
 変なこと。抱っこさせてあげる、してあげるでからかわれることは変なことだろうか。
「されてない、かな?」
「なんで疑問系」
 まぁその様子なら大したことはされてなさそうだね、と付け加え、彼の尋問は続く。
「他は誰みたの? 治? 銀? まさか北さんってことは――」
 知らない名前が続いたが、突然出てきた北という名に、思わず、体が強張る。
「え、北さんもみたの?」
 やってしまったと思いながら嘘をつく。
「ううん、見てな――」
「嘘」
 またしても鋭利な刃物でぶった斬られる。なかなか鋭い。
「俺もまだ見たことないのに。あんた何者?」
「た、たまたまだよ」
 これは本当だ。本当にたまたま見てしまった。
「じゃあ何? 北さんの彼女とか?」
 侑といい、なぜ皆そういう発想に辿り着くのか。日頃の北の隙のなさが窺える。
「違う違う。本当にたまたまで」
「あの人がたまたま人に見られるとか信じられないんだけど」
「本当にたまたま!」
「ふーん、まぁこれは本当っぽいね」
 角名は完全に嘘発見器だとナマエは思った。
 その後も誰を見たかを聞かれたが、もう誰も知らないので、この話題は終わる。なぜ、彼はそんなにも誰を見たかを知りたがったのか。聞いてみたら、別に、とぷいとそっぽを向いて素っ気なく返された。じゃあ、あんなに怖く聞かないでよと喉まで出かかったが飲み込むと、そっぽを向いた彼のピンと尖っていた耳の先が力なく折り曲げられる。これはどういう仕草なのだろう。分からなかったが、彼からは最初に見せた鋭さはもう無くなっているように見える。少し、打ち解けられたのだろうか。手のひらサイズの小さな狐の頭を見ていると、つい撫でたくなるが、最初に見せられたあの細められた瞳を思い出し、ぐっと手を握り、堪えた。
「角名くんはどうして狐に戻っちゃったの? 宮くんみたいにあくびしてる時とかに気が抜けちゃうと――」
「は?」
 鼻に随分と皺を寄せた顔で、振り返られる。狼みたいだ。
「くしゃみで狐に戻るバカと一緒にしないでくれる? 侑が人前でぽんぽん気軽に戻る度に俺たちがどれだけ苦労して隠してるか……」
「やっぱそうだったんだ」
 ナマエはぷっと吐き出す。
「やっぱって?」
「宮くん、人に見られても困らないって言ってて本当かなって思ってたんだけど、やっぱり周りの人がフォローしてたんだなって」
「侑そんなこと言ってたの? 本当やめてほしい」
 角名は首を垂れる。宮くんらしいな、とナマエが笑うと、角名に恨めしそうな目で見上げられ、これからはあんたもあいつに振り回される側なんだからね、と言われた。侑に会う度に、そろそろ毛皮が恋しいんとちゃう? 抱っこさせたろかーと、からかうように頭を撫でられるので、既にもう振り回されているようなものなのだが。
 しかし、角名もあくびをした後に戻っていたようなと考えていた時。
「でも、あくびで戻ってた」
 心の声が漏れたように、角名が言葉を発した。
「え?」
「顔にそう書いてある」
 嘘発見器以上のスペック。ナマエは思わずははっと声を上げて笑ってしまった。
「角名くんはなんでもお見通しなんだね」
「ミョウジさんがわかりやす過ぎるんだよ」
 そう言って角名はぷいと顔を背ける。
「あれはあくびで戻ったんじゃない。起きたらミョウジさんが目の前にいたから……驚いた。そう、驚いたんだよ」
 顔を背けたまま答えられた。
「そっか、驚かせてごめんね」
「別に。おかげでミョウジさんとこうして話せたんだし」
「そうだね。私も角名くんとお話できて楽しかったよ」
 最初は怖かったけれど、なんだかんだで楽しかった。今は普通にお話をしてくれているし、侑の発言の謎も解けたし、やっぱり角名の狐姿は可愛らしいし。そっぽを向いた頭をつい撫でてしまう。手のひらに収まるその頭は小さくて、毛並みは綿毛のようだった北よりも少し硬い気がする。文句言われるかなと思ったが、何も言われずただ耳の先がふにゃりと折れ曲がっただけだった。
 すると予鈴がなる。もうすぐお昼休みが終わるという合図だ。教室に戻らないと。友人二人も待たせているんだった。なかなか戻らないから心配させてるかもしれないと考えていると、角名は胸に飛び乗ってきた時のように、ぴょんとナマエから地面へと飛び降りる。そのまま空中で、ぽんと音を鳴らし、白煙を立てて、人の姿に戻った。ナマエに背を向ける状態で着地した角名は片手をあげて伸びをする。そして、立ち上がったナマエに顔だけ振り返り。
「俺、いつもここで昼寝してるから」
「今度は邪魔しないようにします」
「そうじゃなくて、さ」
 角名は緑がかった黄色の瞳を柔らかに細めた。
「また来なよ」
「え? いいの?」
「狐のやつら以外で俺が狐だって知ってんの、ミョウジさんだけだから。俺がまた驚いて狐に戻ったりしないように見張り役、としてさ」
 そんな風に言ってくれるならこちらとしても嬉しい。
「いいよ」
 ナマエが微笑むと、角名の目は嬉しそうに更に細められた。