ナマエは走っていた。階段を一段飛ばしで駆け降りる。三限目に使った世界地図を資料室に戻しに行った帰りだった。
資料室は教室のある棟とは別の棟にある。転校してきた時に資料室の場所も案内してもらっていたため、一人で行けると判断したナマエは、ついて行くよと言う友人の申し出を断り、一人で地図を返しに行ったのだが、結局、迷ってしまったのだった。ようやく資料室に到着した頃に四限目開始の本鈴が鳴ってしまい、現在、慌てて教室へと向かっていた。
資料室のある三階から階段を駆け降り、二階の渡り廊下を渡って、教室がある三階へ再び階段を駆け上らなければならない。
急げ、急げ、と階段を降り切り、目の前に伸びる渡り廊下を目指そうとした時だった。ゆったりとした歩調で歩く薄茶の猫がナマエの前を横切る。
なんでこんなところに猫!?
そう思ったのも束の間。猫が、渡り廊下から伸びる光の柱に入ると、その毛並みはキラリと黄金に輝いた。よく見れば、猫にしては、耳は大きく、尻尾はふさふさだ。
侑くん!? 治くん!? どっち!?
どっちでも良いのだが、このままいけばナマエはナマエより遥かに小さな狐を轢いてしまう。止まろうにも、跳ぶように階段を降りていたせいでスピードに乗った体は止まらなかった。
「ごめん! 跨いじゃうっ!」
叫ぶと同時にハードルを跳ぶようにナマエは軽やかに狐の体を飛び越える。体が宙に浮いている間、つぶらな瞳でナマエを見上げる狐の鼻がナマエの体の動きに合わせて放物線を描く姿が、まるでスローモーションのように良く見えた。
跳躍した先でようやくナマエの体にブレーキがかかる。
「ごめんね。大丈夫だった?」
振り返るとぼんやりとした瞳と目が合った。
「白……」
「え? 何が?」
言い終えた瞬間、狐の言葉を理解したナマエは、顔が耳まで熱くなり、反射的にスカートを押さえた。
「治くんっ!」
歯を見せて、ニヤリと笑う狐は、治で合っていたようだ。だけど、あれ? と思う。
「スパッツ履いてるから見えてないでしょ」
「ナマエちゃんはスパッツ派なんや」
もしかして、カマをかけられた!?
治の口ぶりを考えると、スカートの中は見られていないようだ。いや、しかし、ナマエが治を飛び越えている間、治はナマエを見上げていたような気がする。
治にスカートの中を見られてしまったのか。見られていないのか。どっちにしろ、ナマエはそういうことを心配しなければならないような、はしたない行為をとってしまったのだ。あまつさえ、自分からスパッツを履いていると淑女らしからぬ宣言までしてしまっている。
は、恥ずかしいっ……!
うー、と唸り声をあげ、過去の言動を悔いていると、それを言うのがお決まりであるかのように言葉を投げかけられた。
「おもろいな」
「おもしろくないですっ」
いつもナマエは治の大きな手の平の上にいるような気がする。
「それより、そんなに気軽に狐姿でうろうろしてていいの?」
「何があかんの?」
「え……だって狐が校内で出たら大騒ぎになるんじゃない?」
以前、ナマエはそう思って狐姿の治を友人から見られないように守ろうとしたのだ。その努力は水泡に帰したのだけど。
「大丈夫やろ」
しれっと言った治は後ろ足を曲げてお座りをする。
「他の人間に見られても、ワンって鳴いとったら犬やと思ってもらえるからな」
「えー嘘だよ! だって、耳はこーんなに大きいんだよ! 尻尾だってこんなにふさふさだし! 流石に犬だって思われないよ!」
耳の大きさや、尻尾のふさふさ具合をジェスチャーで治に説明すると、そうやな、とあっさり返ってくる。
「え?」
「さっきのは冗談や」
「なんだ、冗談か」
そうだよね、と思い治を見ると、治は眉尻を下げて愉快そうに笑うのだった。
「流石に犬と間違われたりはせーへんからな。代わりにニャーて鳴いとるわ」
「ニャー? 猫ってこと? 猫も無理でしょ! あ、でも猫なら……」
いけそうな気がしてくる。だって、先程ナマエは一瞬治を猫と見間違えたのだ。初めて、ベンチで丸まっている狐治を見た時も猫と見間違えた。猫ならいけそうな気がする。そう思っていると。
「冗談や。冗談。猫も無理やろ」
鼻を前足でかく治から喉を鳴らすような笑いが聞こえてきた。なんだか、さっきからずっと治のペースで時間が流れているような気がする。
「心配してくれんでも大丈夫やで。狐になる時は滅多に人がけーへんところを選んどるからな。もう授業も始まっとるし。たまに、サボり癖のあるナマエちゃんみたいな不良には見つかってまうみたいやけど」
「今日はたまたま! 資料室に地図を返しに行ったら、たまたま遅くなっちゃったの!」
不良じゃないもん、と心の中で呟きながら頬を膨らませると、ここまでがセットと言うようにぷっと吹き出された。
治くんといるといつもこんなのばっかだなぁ。
悪い気はしないし、なんだかんだで楽しいのだけど、小学生の時に男子に揶揄われていた時のことを思い出す。恥ずかしいような、照れくさいような、心をむずむずとさせられる感じになるのだ。
だからナマエは毎回治の前では子どものようにムキになって反応してしまう。
「ほんま、ナマエちゃんは元気やなぁ。昼飯前やって言うのに」
元気じゃないよ、と思いながら治を見下ろすと、思わず、え、と声をあげてしまった。治のナマエを見上げる笑顔があまりに穏やかだったからだ。黄金の光をキラキラと反射させながら、柔らかに頬を緩ませている。治のこんなにも優しい笑顔を見るのは初めてだった。
「一日一笑……ありがとうな」
穏やかだと思っていた笑いは薄ら笑いに変わる。
「別に笑わそうと思って言ってるんじゃないよ!」
きっと、治のあの笑顔は見間違いだったのだ。
もう、と言ったナマエの声が静かな廊下に響いて、ナマエはようやく、大事なことを思い出すのであった。話もここまでにしなくてはならない。なんせ授業は始まっているのだ。治に、サボってばかりじゃだめだよ、と言ってこの場を去ろうとしたが、あれー? という陽気な声に阻まれた。
声の先を辿ると、階段を上ってくる治の片割れ。人間姿の侑もサボりなのだろうか。
「ナマエちゃんと……サムぅっ!? なんでナマエちゃんとサムが一緒やねん! しかも、もう授業始まっとんのに、仲良さそうに喋っとるやんけ! 二人でサボりか!? 仲良うサボってましたってか!?」
一気に捲し立てられた。
私はサボりじゃないよ。それに侑くんも今の時間帯こんなところにいるのおかしいよ、とは言えない侑の切羽詰まった雰囲気。
「お前、ナマエちゃんと知り合いやったんか!?」
「知り合いとちゃうで」
え、違うの?
酷い剣幕で侑に睨まれている治を見てしまう。友達だって思っていたのは私だけ? と思うとちょっと寂しくなってしまったのだ。
「ナマエちゃんは漫才の相方や」
「漫才なんてしてないよ!」
「やっぱ二人仲良しやん!」
侑は頭を掻きむしる。そして、はっと何かに気づいたような顔をして固まったかと思えば、手は頭に置いたまま、瞼で瞳の半分を隠して、じっとりと治を見下ろした。
「まさか最近ナマエちゃんが俺のこと侑くんって呼んでくれるようになったんはお前が原因とちゃうやろな」
「お前、最初宮くんって呼ばれとったもんな」
「やっぱお前が原因かい!」
「俺は最初から治くんって呼んでもろとったで」
テンポ良く進んでいく会話に、治の漫才の相方は侑だとナマエは思った。
侑は、うわぁあ、と雄叫びを上げながら髪の毛をクシャクシャにする。ここは教室のある棟ではないけど、授業が始まっている時間帯にこんなに大きな声を出して大丈夫かな、とナマエは心配になった。でも、どうして、侑はこんなにも心乱れているのだろうか。その答えはすぐに分かった。
「侑くんって呼んでもらえるようになって、やっとナマエちゃん俺のこと好きになってくれたんかと思っとったんに!」
「私は別に最初から侑くんのこと嫌ってなんていないよ!」
両手を振って慌てて訂正する。侑はナマエに嫌われていると勘違いをしていたのだろうか。抱っこはしません、とナマエがいつも素っ気なく言っていたからだろうか。それは悪かったなとナマエが思っていると、キョトンとナマエを見た侑は悔しそうに目も口もぎゅーっと閉じて、天を仰ぐ。かと思えばふっと、顔から力を抜いて、髪は乱れたままであったが、何かを悟ったような落ち着いた表情でナマエに視線を向けた。
「でも俺。ナマエちゃんのそう言うとこも好きやで」
「え、あ……ありがとう……」
面と向かって、好きだと言われると照れてしまう。気軽に、可愛い、可愛い、抱っこしてくれ、してやろか、と言ってくる侑の好きは、侑にとって挨拶のようなものだと分かってはいるのだけど。
「こういうんは照れてくれるんに、なんなんやろなぁ……」
「え? どういう意味?」
「ええねん、ええねん。ナマエちゃんはそのままでおって」
侑の大きな手がぽんぽんとナマエの頭の上に乗っかる。侑は優しい笑みを浮かべているが、侑の何かを諦めたかのような物言いが小バカにされているような気を起こさせてなんだか釈然としない。そう思っていると、下の方で鼻で笑うような声が聞こえてきた。
「サム! 笑うな!」
「いや、これはおもろ過ぎるやろ」
ナマエには、何が面白いのかはさっぱりだった。
しかし、理由を聞いている暇はない。いよいよこんなところで油を売っているわけにはいかない頃になってきたからだ。資料室に行ってて遅れました、という言い訳が通用しなくなる。
「私は教室戻るからね! 侑くんも、治くんもサボってばっかりいちゃダメだよ!」
二人の返事を聞く前にナマエは走って教室へと向かった。
小さくなっていく背中を見送る侑はにんまりと幸せそうな笑顔を浮かべた。
「今、ナマエちゃん俺のこと先に呼んでくれたよなぁ」
「たまたまやろ」
「たまたまとちゃうやろ。ナマエちゃんがサムより俺のこと意識してくれとる証拠や」
頭はボサボサのままの侑であったが、きっと押さえた胸は温かだったのだろう。侑のほんのりと赤く色づいた頬は緩みきっていた。
そんなほっこりとした様子の侑を冷ややかな笑みで見上げた治はぼそりと呟く。
「良かったなぁ、宮くん」
「はぁ!?」
幸せ気分が吹っ飛んだ様子で険しい表情をした侑が治を睨むと、治も侑と鏡合わせにしたように顔を顰める。暫くガンを飛ばしあった二人だったが、ゴングの代わりに鳴ったのは治の腹だった。
「やめや、やめ、昼飯前に余計なことしたない」
ため息をつき、小さな黄金の前足を前に出した治。
「あ! 逃げんな! まだ話は終わっとらんぞ!」
治の垂れ下がる尻尾に向かって侑がそう叫んだ瞬間だった。治が突然、狐から人に姿を変えた。いきなり姿を変えた治に、どないしてん? と侑が首を傾げた時。
「お前らまたサボりかー。はよ教室戻れ」
そう言って階段を登ってきたのは教師だった。治は首の後ろに手を回して項垂れ、侑は目元を手で覆い上を見上げたが、きっと二人が考えていることは同じだ。ほら行くでー、と言う教師はこのまま二人を教室に強制送還するつもりらしい。肩を落とした二人は教室に向かう教師に大人しく従った。
「ツムがでかい声出したせいや」
「サムが余計なこと言うたからやろ」
「余計なこと先に言うたんはお前や」
「いーや、お前や」
「はぁ?」
「はぁあ!?」
最初は大人しく教室に向かっていた双子であったが、廊下のど真ん中で立ち止まり睨み合う。彼らの後ろで盛大にため息を吐いた教師はとっておきを出すことにしたらしい。
「喋っとらんと、早よ歩け。あんま遊んどるんやったらバレー部の顧問に報告すんで」
バレー部の顧問に話が行く。つまりはこの話が北の耳に入るということを瞬時に察知した双子は、互いに気まずそうに目を逸らし素直に歩みを再開したのだった。